最高の就職先、の形
明日、明後日、明々後日。酔生夢死の理に乗っ取って日々を浪費してたどり着くのは夢の終点、つまり八月三十一日。
周囲に意識を向けることなく生きていたあの頃は何も価値を感じなかったこの一月が、なぜかダメになった今は物凄くもったいなく感じる。ダメになったってなんだ……?
まさか終わりの時がこんなに辛いとは思わなかった。夏休み前に立てたA4ノート数冊にも及ぶ計画は見事にただの紙切れとなり、残ったものは自堕落な生活習慣によって蓄積した約一月分の疲労と甘え。進化の反対は退化ではなく停滞である。つまり俺の夏休みは途中停車の終電直行、終わりに向かってまっしぐら。電化製品は起動時が一番電力を食うらしいから、俺のエンジントラブルは新車を購入した方が早いだろう。買取り価格はおいくらですか?
夏休みも今日で終わり、明日からは楽しい楽しい新学期だ。世のリア充たちのなかには信じられないことに、友人たちと会える新学期を心待ちにしている者も少なからず存在するらしいが、それはきっと強者の戯言。俺の様に教室の隅で一人、存在を消すことでしか存在を許されない悲しき人間には、そんなものは欠片も理解できないな。
まあ、放課後あいつらに会えるのは……、とも思わなくもないが、それなら夏休みの間ほぼ毎日一ノ瀬たちに宿題を監視されていたので、大して変わらない。プラスだけの日々とプラスとマイナス両方の日々なら、間違いなく前者の方がいいに決まっている。あれ? よく考えたらどっちもマイナスあるな。
なにはともあれ、
………あああ~~っ、学校に行きたくないよ~~。
「あら、ならもういっそ学校やめちゃう? 大丈夫、さいちゃんは私が養ってあげるから♪」
リビングのソファの上。ぼーっとしたまま壁掛け時計の秒針が刻一刻と時間を進める様子を無心で眺めつつ、まるで学校に行くのを嫌がって駄々をこねる小学生(高校生なだけ)のように独り言を言っていると、頬に少しひんやりとした感触がしたと思ったら、ぐいっと顔を真上に向けられた。
驚いて目を瞬かせる俺の目にまずぱっと飛び込んできたのは、夏の暑さの中に在ってもきらきらと輝く、向日葵のような笑顔。鬱々とした思考の中に突如入って来たその笑顔に、驚きすぎて心臓が止まるかと思った。
「っ……それは、メチャクチャ魅力的な提案ですね」
思わず敬語になってしまった。
「ふふ。それで、どうする? 本当に私に就職しちゃう?」
「っ!」
ずいっと顔を近づけられ、目と鼻の先でそう語りかけられる。柔らかな吐息が俺の脳をクラクラさせる。
「……大変魅力的なご提案ですが、謹んで保留とさせていただきます」
なんとか理性で持ちこたえた俺。誰かほんとに褒めてほしい。
というか私に就職ってなんだ? 思わず「はいっ」って即答しそうになったぞ。
「うふふ♪ そこで保留ってとこがさいちゃんらしいわ」
俺の返事がお気に召したのか、母さんはにこにこと笑って俺から顔を離すと、後ろからまわって俺のすぐ隣に腰かけ、俺の顔をその柔らかそうなお膝にこてんと乗っける。
おおお……。こ、これはすごく悪くない。悪くないな。
「……今日はスキンシップが激しいですね」
「あら、こういうのはお嫌い?」
大好きですっ‼ ……っと、危ない危ない、思わずまた即答しかけた。というか「だい」まで口に出ていたかもしれない。
「だいっ……嫌いじゃないです」
あんま変わんなかったな。
そんな俺の反応に母さんは上機嫌に笑う。相変わらず母さんには敵わないな。一生ついていきますぜ姉御。
「さいちゃんは今日、何か予定とかあるの?」
予定か……。
「ああ、まあ、ちょっと散歩にでも行ってこようとは思ってるかな」
夏休みも最終日。夏休み中ほぼ毎日部室に通っていたので、夏休みの宿題は既に始末している。なかなか手ごわい相手だってぜ……。
最後の日は二人とも用事があるらしく、今日は部活も休み。まなみも宿題に追われて俺と遊んでいる時間もないとのことなので、俺を束縛するものはない。
俺が少し考えながら言うと、母さんはぱっと笑顔を浮かべ、
「あら、なら少し私と――」
母さんが何か言いかけたその時、ソファの上に転がっている俺のスマホがピロピロとリビング中に鳴り響いた。あまりにも電話が鳴ることがないため、通知は切っていないが、久しぶりに聞くと結構うるさい。というかあれってちょっとソーラン節のリズムに似てるよな。
『PPPPP……♪ PPPPP……♪ PPPPP……♪』
珍しいな、俺のスマホに電話がかかってくるなんて。……間違い電話かしら? いたずら電話ではないと嬉しいが。
「ごめん母さん、ちょっとまって」
母さんが何か話そうとしていたみたいだが、電話の音に遮られてしまった。
母さんに謝って、渋々ながら「よっこいしょ」っと爺さん風を吹かせつつソファから腰を上げる。スマホを掴んでちょっと退室。
歩きながら確認した電話相手は、いろんな意味でうるさい人だった。
*
『PPPPP……♪ PPピッ――ハイ、ヨウゴザンス』
『あ、ひっさぶり~………え? あれ? も、もしもし? つっく……つくも君だよね?』
…………。
『あなた誰よっ! 私のカレに何の用⁉ つっくんってどういうこと! 一体彼とどんな関係なの!』
『わっ、わあああっ! ち、違うんです! 私はそんな怪しい者では………ってあれ?』
『名乗りなさい、この泥棒猫‼ ムッツリチェリー先輩って名乗りなさいよっ!』
『ちょっ、君ぜったい九十九君だよねっ⁉ 私のことそんな風に呼ぶの君だけだもんね! 何で普通に出てくれないの⁉ ほんとに間違えたと思ってすっごい焦ったんだよ⁉ というか何気に君、声真似上手だね……』
電話の相手が俺だと分かり安心したのか、ムッツリチェリー先輩こと月影先輩はぷりぷりと電話越しにまくし立てる。姦しいなまったく。思わずスマホを耳から遠ざけた。
『あ・は・は……、お久しぶりです先輩。今日はデートのお誘いですか?』
『っ! ……お、おはよう。そっ、そうだよお~……って言ったら、嬉しかったりする~?』
『先輩先輩、今更お姉さんぶられても遅いっス。てか声震えてますよ?』
『………う…うううっ』
きゅわっきゅわだな!
『先輩、相変わらずチョー可愛いですね』
『~~~っ! うっ、うるさいよっ‼ まったく君は相変わらず……』
『それで、今日はどうしたんですか? 先輩と話すのも随分と久しぶりですね』
村崎さんの件以来、先輩のこともすっかり忘れていた。いや、俺は忘れることはないから、完全に意識の外にほっぽりだしていたと言った方が近いか。
『き、君があれ以来連絡くれないからでしょっ! ……毎日確認してたのに』
『すみません、最近なかなか忙しくて』
何の用事もないのに、わざわざ先輩と関わる理由がない。というか、正直俺は半分、先輩との縁もあれ以来切れたものだと思っていた。袖触り合うも多少の縁、俺にとってはそれだけの関係だ。
『むう……まあいいよ。それより、今日はちょっと君に頼みたいことがあって。今日ってこれから時間とれたりする?』
『時間ですか? まあ、そんなに長くならなければ』
少し外に出る用事もあるが、一応そう伝えておく。
『ほんとっ! っ……んっ……んんっ。そ、それで、うちの弟が君に高校のことで聞きたいことがあるらしくて。よかったら、これから待ち合わせしてくれないかな? たぶんそんなにかかんないと思うし。……だめかな?』
幾分かトーンの下がった声。今、先輩がどんな表情で言っているのかなんとなく分かった。
上目遣いにおねだりする先輩。どうせなら生で見たかったな。
『分かりました。待ち合わせ場所に特に指定がないのなら、【鳩喫茶猫ノ巣】ってところはどうですか? 大学から二駅くらい離れたところなんですが、調べてもらったらすぐ分かると思うんで』
『うんっ、りょーかい。ごめんね、突然こんなこと頼んじゃって。それじゃあ一時間後にその喫茶店でいい?』
『はい、それじゃあまた後で―――プッ』
ツーツーツー…………。
「さーいちゃん♪ 電話の相手、お友達? だめだよ~、女の子にいじわるしちゃ」
しばらく電話の余韻に浸っていた俺の顔を覗き込んで言う母さん。ニヤニヤと緩んだ頬に気恥ずかしさを感じる。
お友達……ではないな。どちらかというと……なんだ? 俺と先輩との関係って、あらためて考えるとよく分からないな。皇や鈴宮のように友達になろうって言ったわけでもないし。
俺が母さんの言葉の意味を考え込んでいると。
「うふふ、いってらっしゃい!」
この人は俺の母さん。
優しくて。器量も良くて。包容力のかたまりで。まさに理想の母親。
この人の息子でいられることは、一体どれだけ恵まれたことだろう。
本当に、俺なんかにはもったいないほどの幸運だ。もったいなくて、そして申し訳ない。
「……うん、それじゃ」
目を合わせることができない。
ごめん、母さん。
不出来な俺は、その優しさに返せる言葉を持っていなかった。




