ヴァッサーツヴァイク
「この時を、長い間待ちかねていた。クリスティーン、貴様との婚約を破棄する。」
伯爵令嬢クリスティーンの幼馴染みでもある侯爵家嫡男ルーカシウスは、クリスティーンの記憶からはかけ離れた歪んだ蔑みと冷酷な口調で、その傍に笑って寄り添う女の肩を抱きながら、その場を凍らせるセリフを恥ずかしげも無く堂々と宣言した。
ルーカシウス三十六歳の生誕祭でクリスティーンとの結婚を発表するはずだった、伯爵家で催された豪華絢爛なパーティとは名ばかり。
貴族だけでなく皇族さえ出席する、建国以来慣例となっているキャベンディシュー家婚約の契りの義では、祝詞を独特な口上で決まり文句を謳う事が生き甲斐でもある太皇太后や、その陛下のドレスの裾を持つのが初御披露目となる皇孫達、の華やかな社交界デビューを心待ちにしていた一癖も二癖もある皇族の面々が、何が起きたのか理解を超え固まる演劇のようなリアルに、舞台上で笑っているのは肩を抱かれた女ただ一人だけだった。
今からざっと、十六年前。
生まれる前から決まっていた。
互いの子を結婚させようという家同士の約束。
ルーカシウス・ゴドウィンは。
侯爵家嫡男として生まれ、自分よりも大人な従者が傅く日常や贅沢な生活、何もかも不自由とは程遠い満ち足りた人生でたった一つ不満があった。
クリスティーン・キャベンディシューが生まれるまで独身と貞節を余儀なくされた。
いや正確には。
キャベンディシューとの婚姻は皇族のみに許された建国時からの契約であるが、その昔親友であったゴドウィンと交わされた「いつか互いの家に男女が生まれたら結婚させよう」という口約束は、キャベンディシューの名に誓い定められた、歴史上二度と無いだろうと噂される、この国に知らぬ者はいない、誰もが悔しがって羨む、いわゆるひとつの政略結婚であるのだが。
「俺がする」
絶対に俺がキャベンディシューと結婚する。と言い張るルーカシウスが我儘を通した結果、キャベンディシュー家にやっと生まれた女児クリスティーンの婚約者に、ルーカシウス二十歳はしがみついたのだった。
ルーカシウスには弟が三人もいて、クリスティーンと四歳違いのお似合いの男児もいたが、ずっと貞節を貫いているルーカシウスの噂が周知していることをキャベンディシューも把握しており、そこに同情もあるが流石に歳の差があり過ぎるのではという反対意見は、キャベンディシュー出自の太皇太后の「いい歳だから分別もあるでしょう。浮気する心配がなくていいわね」との一言から跳ね返されて婚約が決められた。
ルーカシウスが初めてクリスティーンと顔合わせを許されたのは、クリスティーンが生まれて半年が経ってからだった。
ルーカシウスは貴族でも少数とされる金髪翠眼の美貌の持ち主だったので、この国にありふれた茶髪茶眼のクリスティーンを見た時はあからさまにガッカリと肩を落とした。
側にいたクリスティーンの母からガンギマリの視線で睨みつけられて身を縮こまらせるルーカシウス。
クリスティーンの父からまぁまぁと宥められ、母はフンッとルーカシウスから顔をそらした。
クリスティーンはベビーベッドの中で座り、ニコニコと皆を見上げて微笑んでいる。
ルーカシウスがそっとベビーベッドの柵に顔を近付けると、クリスティーンはルーカシウスの鼻を思いっきり引っ張った。
ぶぎゃっ
ルーカシウスはそんな礼儀知らずなことをされたのは初めてだと驚いて、無様な擬音を発してその場に尻餅をついた。
ルーカシウスの鼻から一筋の鼻水が垂れた。
母は大笑いしてクリスティーンを抱き上げる。
「よくやったわ!賢い子ね!」
母の笑顔にクリスティーンも嬉しくなって、
「きゃぱぱぱぱ!」
愛くるしい天使の笑顔に、ルーカシウスもハンカチで鼻水を拭いながら苦笑いする。
父がルーカシウスに手を貸して引っ張り立たせると、
「歳の差はあるが宜しく頼むよ。」
と握手する。
ルーカシウスは澄ました笑顔でその手を強く握りながら、自身の約束された栄光しかない未来を確信した。
最初こそガッツポーズで勝利の余韻に浸っていたルーカシウスだったが。
クリスティーンは望まれてやっと生まれてきた女の子、欲しいものは全て与えられた。
専属侍女と侍従は、王家が非公表で地下組織化した「執事同好会」から選ばれた。
説明しよう。
「執事同好会」とは、執事+眼鏡をこよなく愛する同好の士による、「執事が執事たるが為に」をモットーに、日常の家事や雑務に管理や保全を主人にのみ忠実な執政を完璧に行う、執事育成機関である。但し眼鏡携帯は必須とする。
家事はもとより、そこそこの騎士よりも腕が立つ為、護衛を雇うよりも人気があるが雇用費用は高額、王族もしくは高位貴族のみに許された特権であり、「執事同好会」出身の証である金色に輝く白鳥のバッヂは、社交界で羨望の眼差しを集める事間違いなし!なのである。
そんな執事を二人も従えるクリスティーン。
侯爵家嫡男であるルーカシウスでさえ一人も雇えないのに。
眼鏡で見えない素顔、常に感情の見えないポーカーフェイスで無駄な動きは一切感じられない。
クリスティーンがよちよちと歩き始めれば、その数歩先の危険予知は小石の一つも見逃さず排除。
よちよちと歩く先で両手を広げて待つルーカシウスだったが、侍女がどこからか取り出したクマのぬいぐるみにクリスティーンは方向転換。
「な?!」
「そろそろお昼寝の時間ですので」
そう言われてしまえばルーカシウスは返す言葉もない。
伯爵家の大きな窓から覗く夫人は高らかに笑う。
「おーっほほほほほほ。」
不穏な視線を感じて振り向くルーカシウスと、瞬時にシャッとカーテンを閉じる夫人。
その隙にクリスティーンを連れて邸に入っていく執事を見て、置き去りにされたルーカシウスはぽつんと立ち尽くした。
終始そんな中で育ったクリスティーンは、物心つく頃には立派にルーカシウスを振り回す小悪魔揚羽に成長した。
クリスティーン十歳の誕生日にはルーカシウスの瞳の色と同じ、澄んだ朝の青空のようなドレスをルーカシウスから贈られたクリスティーンだが、母から贈られたチェリーブロッサムピンクのドレスを着て、
「このドレスは、私とルーカシウス様が出会った季節に咲く花の色なんですって。ルーカシウス様と出会って十年目になる記念のドレスですもの。特別なドレスにしたかったのです、とてもロマンチックでしょう?」
と天使のように微笑む。
いや確かに、似合っている。
ありふれた茶髪は艶やかなキャラメルリボンが飾られて、淡いピンク色の生地に鮮やかな花々の繊細なレースの刺繍は愛らしく、光の加減で七色に変わる糸も編み込まれていてキラキラと眩しい。
それに比べて。
澄んだ朝とか青空とか誤魔化してみたものの、ルーカシウスの瞳の色は、熟女が好んで着る色なのだ。十歳のクリスティーンがこの霞んだ色を着こなすのは難しい。
ルーカシウスは慣れた苦笑いでその手を取るしかなかった。
ルーカシウスは小さくて我儘な小悪魔に振り回される人生が永遠に続くのかと、またガッカリと未来を悲嘆した。
その姿を、父も母も、二人の執事も、魔神が如く空間を歪ませるような禍々しい視線でルーカシウスを睨みつけていたのだが、知らぬが仏か。
さて、クリスティーンの乳母には娘が二人いた。
クリスティーンと同じ歳の赤子は親戚に引き取らせて乳母の地位を勝ち取った母。クリスティーンより五歳年上でクリスティーンと共に育ち、ゆくゆくはクリスティーンの子供の乳母に、と厳しく育てられている娘キャンディス。
クリスティーン十三歳、そして、この乳母の長女、キャンディス十八歳もまた専属侍女のひとりとして共に育った。
だがこのキャンディス。キャンディスの母の想いから外れて父親に似て育っていく。
キャンディス五歳、母はギャンブル狂いの父を捨て後宮の門を叩いた。人生をやり直そうと、クズの手の届かない後宮に逃げ込んだ。伯爵家で募集されている乳母になる為切羽詰まった事情を話し、乳から噴水のように湧き出るミルクを認められて乳母となった。これでもう、子供にさえカビたパンしか食べさせられなかった貧乏から脱出出来る。
そんな母の想いも知らず、キャンディスは急激に好転した生活環境に、「私って実はシンデレラだったんだわ」と勘違いし始める。
ツギハギだらけの服から綺麗なワンピースに変わり、焼きたての柔らかいパンだけでなくスープやサラダ、ジューシーなお肉や甘いお菓子まで。
私、本当の家族のところに帰ってきたんだ。
名ばかりの落ちぶれ男爵夫人だった母からは、事業に失敗しさえしなければ優しい父だった、悪いのは父じゃない、運が悪かっただけ。
そう聞かされていたキャンディスの頭の中では、父は悪くない、毎日毎日世の中の愚痴と、不味いパンを食べさせる母に嫌がらせされて育った私は実は、裕福な貴族の子供だったんだ、と改変していく。
キャンディスが十六歳になり、一人で町に出掛けることが許された隙を見逃さなかった父がキャンディスに接触した。「よお。やってるか。」元気にやってるか、父の口癖が懐かしい。
父はあいもかわらずギャンブル狂いだったがキャンディスの前では上手く誤魔化し、「可哀想なお父さん。本当はお金持ちの貴族の令嬢だった私とは住む世界が違うのよ。」と調子に乗っているキャンディスを手玉に取るのは容易かった。
お前の父親は男爵の俺だが、母親は伯爵夫人だ。不倫の子だから隠れて産んで俺が引き取った。どうだ、伯爵家の暮らしは、天国か。けれど不倫の子だと知れれば追い出されるだろうな。そしたらまた貧乏に戻っちまうな。カビたパンしか食べられない生活に逆戻りだな。ああ、そうか、お前ももう十六歳なんだから体を売って生活出来るぞ。良かったなハハハハ。
真っ青に引き攣った顔で人生に失望するキャンディスにここぞと囁く。俺だって男爵なんだぜ。資金さえありゃあ人生やり直せる。今よりもっと裕福な暮らしだってさせてやれる。資金さえありゃあな。俺は運が悪かっただけなんだ。
お前ちょこっとさ、用立ててくんねえか。
借金なんかすぐ返しちまえる事業のツテがあるんだ、投資資金さえありゃ今までスッちまった分までたんまり取り戻せる。そしたらお前は正真正銘、貴族のお嬢様だぜ?
最初は、父に頼まれて母のアクセサリーを一つだけ盗んで来ることだった。
罪悪感と恐怖に手が震えた。けれど次第に、勝手に手が伸びるようになる頃には、怖いどころか楽しいとさえ思うようになっていた。
人のものという意識は無くなり、盗られる方が馬鹿なんだと父と一緒に酒を飲むキャンディスは、そのまま酔い潰れて目覚めた翌朝、父によって売られたキャンディスの初めてを買った、見知らぬ男がイビキをかくベッドで、吐いた。
騙された。騙された騙された騙された!
いつまで経っても父は貧乏なままだった。
何を盗ってきた、もっと盗ってこいと父の要求は酷くなるばかりだった。
二度とあんなところに戻るもんか。
二度と馬鹿みたいに騙されるもんか。
涙も鼻水も垂れ流しながら泣き喚き、走って伯爵家に帰った。
門番は何も言わずに通してくれた。母は何も言わずに背中を撫でてくれた。
悔しくて悲しくてどうにもならなくて、三日寝て過ごして、「お金を稼がなきゃ」母の口癖が頭に浮かんだら、頭まで被っていた毛布から出た。
母と二人寝て起きるのがやっとの狭い部屋の隅には洗濯物が溜まっていた。ぼんやりとしたまま洗濯物を持って洗い場に行くと、使用人の仲間達が歌を歌いながら足踏みで洗濯している。空の桶をその隣に運んできて洗濯物を放り込むと、仲間が水を入れてくれた。バッチャバッチャと踏み入れた。グッチャグッチャと踏んでいると、お嬢様が心配してたから顔見せに行きな、あとはやっとくから、お見舞いにイイもん貰ったらわけとくれ、と洗い場を追い出された。
三日ぶりに会ったクリスティーンは、キャンディスの事情など何も知らずに笑っていた。
一般庶民の暮らしも悩みも、貧乏も後悔も知らない、勝者の笑顔。
欲しい。
あれが欲しい。ずるいわ、貴方ばっかり。
私だって夫人の子供なのに。誰にも言えない、知られちゃいけない、私の方が先に生まれたのに。
貴方が持っているものは全て、私のものになるはずだったものなのに。
私が馬鹿だから貴方に奪われて、私が馬鹿だったから何もかも全て失った。
馬鹿でいるのはもう、やめるわ。
取り返すの、私。私のものになるはずだったもの全て、貴方から。
貴方と私、馬鹿はどっちか、勝負しましょう。
負けたら全部奪われるゲームよ。
ああ、なんて楽しいのかしら。貴方から全て奪うことを考えるだけで、私こんなに全身が快感に震えているわ。
キャンディスのキはキレイのキ。
母と同じピンク色の髪のおかげで親子だと思われているけれど、ねえよく見て私の目、夫人と同じで青いのよ。なんてね、誰にも言えない私だけの秘密。
私だって夫人の娘なの。貴方みたいに着飾れば貴方よりも綺麗なんだから。
クリスティーンが流行りのドレスを仕立ててもらうと聞けば、こっそりと自分の分のドレスの注文も紛れ込ませていた。
侍女らしからぬ派手なドレスは雇い主からの愛情を示すから盗ってこいと以前、父がキャンディスをそそのかしたことがある。派手なら派手なだけ愛されてる証だと。
残念ながら実際には、身の程を知らず乞食のような物乞いで慈悲にすがる卑し子、とさげすまれている行き遅れ。
その為、礼儀知らずの使用人に我が物顔をさせている箱入り娘令嬢、とクリスティーンの社交界での評価も下がりつつある。
そんな噂など知らぬ、社交界に疎いルーカシウスからすれば、クリスティーンよりもキャンディスの方が魅惑的に見えたのだろう。
目の引く色鮮やかなドレスを纏うキャンディスは、地味な茶色いクリスティーンよりもルーカシウスの心を掴む。
愚直に貞節を守ることだけ考えていた為、社交界での情報収集を疎かにしてしまったルーカシウスの落ち度である。いや。落ち度、だけで済めば良かったのにね。
小悪魔のように翻弄するクリスティーンより、分かりやすく色仕掛けしてくるキャンディスは馬鹿で可愛らしい、「妾にしてやる」とまんまとキャンディスの甘い罠に絡め取られたルーカシウス。
初めはつまみ食いのつもりだった。なのに初めて覚えた快楽に抗えず、ルーカシウスはキャンディスの誘惑に溺れる快楽中毒者に変わった。
正妻にしてくれと言うキャンディスの枕言葉に、ルーカシウスはキャベンディシュー家と交わされた政略結婚の話を聞かせてしまう。しかも、ここだけの話、キャベンディシュー家は代々女傑血統で、夫人と血が繋がった血統のみが由緒正しいキャベンディシュー当主となるのだという話まで漏らしてしまう。
それは、高位貴族でもごく少数にしか知らされていない、契約で秘匿とされる文言の一つでもあるのに、ルーカシウスはベラベラと調子に乗って喋ってしまった。
しかし、そのおかげでキャンディスは目を輝かせながら、自分に跨るルーカシウスを押し倒して宣った。
「私は夫人の隠し子なの!貴方のその話が本当なら、正統な次期当主は私よ!」
「!なんだって?君のその話が本当なら、キャベンディシュー家の弱味を握ったことになるぞ。いやいや、それよりも、皇族すら逆らえないキャベンディシュー家の当主さ、この国を手に入れたのと同じだぞ!」ずる賢いクリスティーンよりも、この馬鹿の方が何倍も操りやすいとルーカシウスはにやにやした。
そうして冒頭のそれである。
頭がお花畑の馬鹿令嬢が悔し涙に泣き崩れる様が見たいとキャンディスが言えば、ならクリスティーンが十六歳になる年の俺の生誕祭の日がいいだろう、正式に婚約発表すると同時に結婚の日取りを纏める日でもあるからな、そんな日に婚約破棄と当主交代の発表をされれば、流石にあの小悪魔でも泣き崩れるだろうさ、とルーカシウスが言いながら想像してくっくっくっと下卑た笑いを漏らし実行したのである。
小悪魔クリスティーンは。
ずっと側にいた、そしてこれからもずっと一緒だと思っていたルーカシウスの宣言に絶句した。
愛する者がいると告げられ、それが私ではないのだと見せつけられて。
クリスティーンはその場に立ち尽くし空を見上げて号泣し始めた。
うわああああーんあーんあーんうわーん
あまりにも立派な慟哭にルーカシウスは驚いた。まさか、あの、いつも、自分を楽しげに翻弄し泣き笑い、哀しみや苦しみというものの存在すら知らぬ、大事に大事に育てられてきたお嬢様が、自分が愛していないと言っただけで、まるで獣のように、恥じらいも捨てて大声で泣き叫んでいるじゃないか!
ルーカシウスは、クリスティーンにとって自分が自分で思っていたよりもとても大きな存在であったという自尊心に満たされ、それと同時に目の前で泣き叫ぶ小悪魔の哀しみに、自身の心が引き裂かれるような痛みを覚えるのだった。
ルーカシウスの脳裏に、クリスティーンと築いた十六年間の思い出が、まざまざと蘇える。
だがそれが既に手遅れであることにルーカシウスはまだ気付いていない。
キャンディスは思っていたのと違う激しい慟哭に苦笑いした。
クリスティーンが途中「ひっ」と空気を吸って再び泣き声を上げる時、かつての自分の姿と重なって見えた。
父親に裏切られ、ちぎれた胸元の服を握って隠しながら泣いて帰った日のことを思い出し、胸が苦しくなる衝動を誤魔化すように必死に笑って見せていた。絶望と羞恥が繰り返し押し寄せる悲しみの中「ひっ」と空気を吸い、どうしてこんなことになったのかと振り返る苦しみが涙をとめどなく溢れさせる。
だがクリスティーンの慟哭によって全てが覆されることをキャンディスはまだ知らない。
下位貴族はクスクスと嘲笑った。
勿論どの派閥がどのように反応していたのか後日有能な二人の執事によって密告されることとなり、社交界の流通をあまねく支配する「花咲く妖精」の称号を持つクリスティーンの母によって、成金なんちゃって貴族が時流に乗れぬ栄枯盛衰は世の常か。
しかし、高位貴族や皇族の面々は、無表情にクリスティーンを見つめていた。
来る。
太皇太后の目は、そう確信した視線でクリスティーンを捉えた。
涙越しに見える、それらの光景に、クリスティーンの感情がスーッと冷えていくのがクリスティーン自身でもハッキリとわかった。
キャベンディシューの女傑血統でのみ現れる称号ヴァッサーツヴァイク。
水からあらゆるものを作り出し、操り従える魔女に与えられる称号、最後に現れたのは二百年前、水を自在に操るキャベンディシュー家の絶対当主である。
その力はこの国の地脈にまで及び、人間の血脈を支配し恐れられてきた、この国を建国したという魔女の血ヴァッサーツヴァイク。
クリスティーンの枯れ葉色の髪がキラキラと舞う冷気の花によって青く染められてゆく。絶対当主に現れるというブルーカラーに染められて、美しく変身するクリスティーン。
幼かった肉体は魔力が最も効率良く循環される肉体年齢へと変貌した。
「ルーカシウス様の提案、承りました。」
美しくしなやかな四肢が流れるような所作でカーテシーを描き、朝露に煌めくような青い瞳がルーカシウスを見る。
「ですが。このお話、破棄などではおさまりませんでしょう。キャンディス、そうでしょう?」
「……。」
キャンディスは茫然自失、蒼白となった額に手の甲を当てて倒れてしまう。
ルーカシウスはキャンディスを気遣うでもなくクリスティーンから目を離せないでいた。
たった数分前までは子供のように泣き叫んでいた女が、姿形も様変わりし、美しい氷の女王のようなクリスティーンが、見たこともない冷めた視線を自分に向けている。
ルーカシウスはこれが夢であればいいのにと願わずにはいられなかった。
いや、まだ間に合う。あんなに俺のせいで号泣したクリスティーンだ。謝ればきっといける。
このように美しい女性に婚約破棄を突きつけた自分を恥じ、口惜しく拳を握り、謝罪の言葉を発しようとしたが、クリスティーンの方が先に強い口調で話し出した。
「なぜ私の乳母の娘であるキャンディスと、私の婚約者であったルーカシウス様が睦まじく寄り添っているのか、またこのような愚行に至るルーカシウス様の爵位の妥当性も。」
ハッとしたルーカシウスはクリスティーンに言われて初めて気付いたと言わんばかりの表情で一歩前に出た。
早く謝罪を
「クリスティーン!」
「私の名は今後何者も口にすることは許されません。数日のうちに私はヴァッサーツヴァイク・キャベンディシューの家名を受け継ぎ、絶対当主となる身。控えなさい。」
クリスティーンから溢れ出る威圧にルーカシウスの足は二歩三歩と後退り目に見えて震えだした。
血管が収縮し、心臓が握り潰されるような息苦しさに、ルーカシウスは震える足を折り、跪くしかなかった。
侯爵家のルーカシウスが伯爵令嬢のクリスティーンに怯える様は何も知らない下位貴族からすれば異質に見えた。
だが。高位貴族ならば知らぬ者はいない。
ヴァッサーツヴァイク・キャベンディシューの名は、皇権と同等の権威と、永く空席であった守護公爵の名声と財源が与えられる。皇室さえ跪く者、それがヴァッサーツヴァイクである。
後日。
思ったよりうまくいったとほくそ笑む面々があった。
クリスティーンの両親と二人の執事である。
クリスティーンの母は、乳母を決める時、青い瞳の子持ちにすると決めていた。
二人の執事は、使用人の間で広がる噂を徹底的に管理した。
クリスティーンの父は、探偵を雇い乳母を調べ、ギャンブル狂いに美味しい投資話を持ちかけた。
それはまるでゲームのように。
そのどれかひとつが少しでもタイミングがズレていたとすれば、こうまで上手くいったかどうかさえ怪しい。
バラバラに配置された駒が意思を持って、一つの目標に向かって進んでいったかのようだ。
例えば乳母がモラハラから逃げなかったら、
例えば親戚に預けられたのが赤子ではなくキャンディスだったら、
例えば、ルーカシウスが彼等を怒らせなければ。
ヴァッサーツヴァイクは今も眠りについたままだったのかも知れない。
偶然、いや、これは必然、なるべくしてならざるを得ず。
「愉快、愉快。」
皇孫達が遊ぶ庭園でほくそ笑む太皇太后がいたとかいないとか。
庶民の皆が店を閉める仏滅。
二人の執事は所用で休みを貰った。
侍女はある太った男を探しに。
侍従は賭場へ。
翌日。
庶民のトイレに利用されている、町外れのドブ川に、二体の死体が流れていたがそれに気付いたとしても通報する者は誰一人としていなかった。
町のゴミ、生きる資格のない外道と呼ばれる二人の腐乱死体はボコボコと呻くドブ川の底へと沈んでいった。
百年後。
そこはかつて無いほどに美しく浄化された清涼な川が流れ、小魚が跳ね小鳥が囀る。
魔女に愛された人々が暮らす国が栄えた。
追加編集しました。残念ルーカシウスと自己中キャンディスの絶望と後悔。そして最後に笑う太皇太后。え、貴方絶対何かやってますよね?と思わずにいられないほくそ笑み。