唐突に海堂レナは思いつく 1
かりかりと、シャーペンを動かす音が部室に響く。
いつもは紅茶なのだが今ばかりは集中力をあげるため、コーヒーでドーピング。
数学が一通り終わり、顔をあげると先輩と目が合った。
「休憩にしましょうか」
「っす」
「っしゃあ!」
控えめに返事すると、隣で海堂がシャーペンを投げ捨てた。と、先輩がいつものほんわかした表情を海堂に向ける。
「レナはどこまで進んだの?」
「……えっと……半分、いや、三分の一……ないくらい?」
先輩の笑顔が心なし冷たい。
ほのか先輩はしばし固まったのち、ペンを取り直す。
「半分まで終わらせましょうか。私も一緒にやるから」
「うー……こんなの終わんないってえ……」
本日は中間テスト一週間前にあたる。
部活自体は休みなのだが、「ひとりだと勉強できない」という海堂のために勉強会が開かれていた。
俺はぶっちゃけひとりじゃないと勉強できないのだが、先輩がいるので来た。我ながら浅はかな人間である。
「ねー、唯は進んでる?」
先輩の隣という神に祝福された席に座る瀬良は海堂からの言葉など聞こえないようで、一心不乱に教科書を読んでいる。と思ったがよく見たら古代ギリシアの歴史書だった。学問ではあるが学校の中間テストで役に立つとは思えないが、クソつまらん暗記ゲーで点稼ぎするよりも自身の好奇心を優先してしまう気持ちはわかる。塩野七生先生はマジで神。
海堂は泣き言を言いながらも筆を動かし、なんとかノルマを達成。机にぐでーっとうなだれる。
「疲れた……」
「よくがんばりました」
いいなー、俺も先輩に褒められたい。毎朝起きれて偉いねって褒められたい。すべてを肯定してもらいたい。
先輩の弟になって一生甘やかしてもらう人生を思い描いていると、海堂が飛び起きた。
「気分転換しよう!」
ほんと唐突だなこいつ……。気分屋なことうちの妹のごとし。うちの妹こんなにバカじゃねえけど。
バカは放っておいて次の科目に移る。数学終わったし次は物理かな。というか俺はいつも数学と物理しか問題集はやらない。生物と社会科系の科目は前日に暗記する。現文は数学できれば解けるしな。古文は知らん。
格物到知を極めんがため、ペンを取ったときだ。
「仕方ないわね。残りは明日にしましょうか」
「わーい」
学業 < 姉もの小説 << 超えられない壁 <<ほのか先輩。
俺は迷いなく筆を置いた。
ーーーーーー
「気分転換って、なにかしたいことでもあるの?」
「リレー小説!」
リレー小説ってあれか、何人かが順番で書くやつ。
「面白そうね。私はいいわよ。二人は?」
問われるが、先輩が賛成なら俺に断る理由はない。瀬良もハードカバーの歴史書をぱたんと閉じて首肯する。
「順番どうする?」
「レナから時計回りでいいんじゃないかしら」
「おっけー」
海堂は腕まくりし、ルーズリーフの前でシャーペンを構えた。
5分ほど書くと、海堂は向かいの先輩へ原稿を渡す。次いで瀬良。最後に俺の手元に原稿が届いたとき、それはカオスの様相を呈していた。
はじめは清朝末期を舞台としたカンフー小説、けっこうえぐめの拷問パートを挟み、主人公はファンタジーな力に目覚める。
これどうすりゃいいんだよ……。ペンをもてあそびながら考えていると、先輩が声をかけてくれた。
「あんまり深く考えなくて大丈夫よ。三笠くんの好きなように書いてくれればいいわ」
先輩がそう言うなら、遠慮なくやるか……。
ーーーーーー
暗い石造りの牢獄の中、シンはただひたすらに功夫を練っていた。
重い足枷を引きずりながら歩を進め、丹田に力を溜め、腕へと伝える。
シンの罪は、試合で力余って相手を殺してしまったこと。駆けつけた警官たちに押さえつけられ、以来三年間牢獄で暮らしている。
試合は怪我はもちろん、死さえも互いに了承した上で行った。殺してしまったことに後悔はない。悔いるのは警官たちにあっけなく取り押さえられたこと。たしかに相手は複数で、棒も持っていた。それでも負けたことは武人である彼の誇りを深く傷つけた。
たとえ相手がだれであれ、何人いようと、どんな武器を持っていようと、勝てるくらいに強くなりたい。
強さへの信仰。それこそが彼をして三年間、劣悪な環境で精神を保っていられた理由だ。
光の刺さない洞窟のような場所で時間の経過を知らせるのは、一日に二度放り込まれるパンと水だけ。
子猫の腹すら満たされないような食事を平らげて、シンは鍛錬を続ける。
「おい! 罪人!」
官吏の声。四人の男が鉄格子の向こうに立っている。彼らは牢の扉を開け、中に入ってきた。
「暴れるんじゃないぞ」
手枷に鎖をかけ、シンを牢から出す。
処刑の日が来た。
シンに恐怖ない。
あるのは高揚。
手枷があっても、戦えないことはない。陽光の下、処刑台の前で、ひと暴れしてやる。
シンはふつふつと闘志を煮えたぎらせ、戦いの機を待った。
処刑台の刃が囚われの身分から解放してくれることを期待したシンだったが、待ち受けていたのはもっとむごたらしい運命だった。彼はけっして安逸なる彼岸の世界へ行くことはできなかったのである。
秘密の扉をくぐった先にある地下室で、彼は縛り付けられ、ただちに拷問がはじまった。
シンにとっては想像だにしなかったことであろう。人殺しの罪は死刑をもって贖うのがこの国の法。生きたまま爪をはがされ、皮膚を焼かれ、鞭でうたれるなど、明らかに法から逸脱している。
いくら考えても、凄惨な身の上を説明することはできない。痛みが意識を闇へと引き込もうとするも、冷水をかけられて無理やり目を覚まさせられる。
「おお、なんとも惨たらしい姿」
女の声。ぴたりと拷問吏の手がとまる。
あらわれたのはこの地の領主、劉家の令嬢である。
令嬢は18の誕生日を迎えたばかり。容貌は良家の血筋をひくことをあらわして気品にあふれ、まっしろい肌、綺麗な青い瞳をしているのだが、その青さの中にはほの暗いものが混じっている。
「あなたが私の許嫁を手にかけたあの日から、わたしの幸福な日々は永遠に終わってしまいました。ああ! 神様、なぜ敬虔な信徒である私にかような試練を与えたもうたのか! 人の罪に対して愛を与えよという教えはありますが、わたしの心はそこまで強くなかったようです。いとしの人を殺した相手には苦しみを与えたいと思ってしまう。あるいはこのような心があるから神様は私に罰を与えたのかもしれません。しかしあの人に罪はないのですわ! なんと善良で美しい青年だったでしょう。わたしが愛した人は!」
令嬢がシンを指さすと、拷問吏は棍棒でシンを叩きのめす。
「あなたを痛めつけたところであの人がかえってこないこと、わかっています。けれどだからといってこの憎しみを忘れることなどできません。だからせめて、私と同じくらい苦しんで死んでください!」
言葉を区切り、少女は小瓶を取り出した。
「あなたに贈り物があります。些細なものですけれど。人間、あまりに痛みが大きいとかえって何も感じなくなるらしいのですわ。けれど、このお薬があれば気分が高揚し、どんなに痛くても意識は途切れないのだそうですわ」
シンの口に小瓶の中の液体が押し込まれる。力づくで飲み込まされると、視界がぼんやりしてきた。それなのに感覚はやけに冴え渡り、体に刻まれていたすべての傷が熱く、棍棒が振り翳されると、シンは悲鳴をあげた。
「こんなことをして、わたしは天国の門をくぐることはできないでしょう。……だから、遠くないうちに地獄で会いましょう」
言い終えると、少女は踵を返して去っていった。
シンは拷問吏に抱えられ、牢に放り込まれる。施錠され、静かになった。
薬に脳は侵され、視界は白く霧がかり、とりとめのない幻想が浮かんでは消えていく。
幻想はやがてひとつの像を結び出す。それは人の形をとった霧だ。霊はシンのそばを浮遊し、踊りまわり、壁の奥へと消えていく。シンはふらふらと立ち上がり、霊の消えていった壁にもたれかかった。
何かが崩れる音。見れば、小さな穴があいている。痛む指で壁をかきむしると、少しずつ穴は広がり、やがて人が通れるほどの大きさになった。
シンは掘った穴に身を捩じ込んだ。
暗い。完全な闇。四つん這いになって進むと、穴はどこまでも続いている。
土まみれになりながら穴を進む。途中、手に触れた虫や、蜘蛛を食べた。少しずつ目が慣れてきた。ものが見える。いや、見えすぎる。
漆黒な闇の中にありながら、昼間のようにはっきりと物を見分けられる。どこまでも続く洞窟。壁や床を這い回る真っ白い蜘蛛。
蜘蛛を掴んで口に放り込んだ。飲み込むと、さらに明るくなる。三匹目を食べると、本来見えないものまで見えてきた。
牢獄の中で死んでいった無数の霊たち、地底に住むグール、名前すら知らない3本足の肉塊。
何体かの悪霊がシンに襲いかかってきた。しかし白い霧があらわれると、悪霊は追い払われる。グールたちもまた、白い霧を恐れてシンに近づけない。
白い霧はまたも人の形となり、洞窟の奥深くへとシンを導いていった。
いったいどれほど進んだだろう。時間の感覚がなくなったころ、突如として光の溢れる空間に出た。
地底にある湖だ。天井を覆う苔が発光して地上のように明るい。湖の真ん中には島があり、ひとふりの剣が突き刺さっている。
霧は湖を渡って剣の上を漂う。シンがたどり着くと、霧は姿を消した。
シンは剣に手をかけ、引き抜いた。
霧が消えたせいだろう。洞窟へと続く穴からグールが溢れ出てくる。湖を飛び越え、シンに襲いかかった。
シンは剣を構える。先頭の一体の攻撃をかわしつつ、横薙ぎに切りつける。グールは真っ二つに両断された。動きをとめることなく2体目を袈裟に切る。
三体、四体と倒すと、グールは逃げ、悪霊も霧散する。
そばに気配を感じて振り返った。咄嗟に剣を構えるが、白い霧だった。剣を下ろす。
霧はまたも人の形をとる。さきほどよりも鮮明に、髪の長い女性のシルエットを描き出した。やがて霧は固まり、完全に人間の姿となる。
知っている人だ。ずっと会いたかった人。幼い頃に流行病で死んでしまった、姉だった。
シンは剣を落とし、姉に抱きついた。
言いたいことがたくさんある。あれから背も大きくなったし、強くなった。それなのに嗚咽で喉がつまり、何一つ言葉にすることができない。それでも姉はただうなずいて、頭を撫でてくれた。
姉に手を引かれ、シンは地上に出る。外は夜だった。囚われていた牢獄の裏にある森の中だ。
月明かりの中、シンは姉の手をとって歩き始めた。