いつだって三笠司はあがいている
時計がてっぺんを指したのをぼんやりと見ながら盤上の駒を動かす。しばし考えてから白の駒を、またすぐに黒の駒をうった。
本気で熟考することもなく、ほぼ手癖だけでうつ。12手目をうったところで、扉が開いた。
「おにい、なにやってんの」
寝ぼけ眼の楓が入ってくる。向かいに座ると、無言で黒のルークを動かした。
「……目が冴えてな。眠れなかったんだよ」
「んー」
どういう感情の返事なんだ、それは。
「さっさと寝ろよ。睡眠不足はお肌に悪いんだろ」
「そういうの、キモいからやめたほうがいいよ」
「……悪かったな」
小学校のころから、眠れない日がある。週に一度か二度くらいの頻度でしかないのだが、これが昔はけっこうストレスだった。
寝ようとすればするほどに眠気は遠ざかり、目は冴えていく。
「おにい、前言ってたじゃん」
「なにを」
「寝れないときはいっそ寝ようとせずに、気絶するまで勉強とかしてたほうが精神衛生的にいいって」
「……言ったっけ?」
「言った」
楓に言った覚えはないが、中学3年のときにそのことに気づいてからは、眠れないこともさしてストレスではなくなった。今でも眠れない時はひたすら数学をやりまくってる。
「それに、ひとりで起きてるのさみしいかなって」
「あんまりモテない男子に優しくするなよ。ほれるぞ」
「きっも」
言いながら、何が面白いのかけらけら笑う。
などと楽しいおしゃべりをしていると、トラップを見逃してポーンダウン。
「そんな本気でやんのかよ」
「ゲームは本気でやるから面白いんじゃん」
まあ、楓の性格上、どんな状況でも手加減などするはずがない。こいつはいつだって本気で、というか、本気しか出せない。決して妥協できない。
だから俺も本気で次の手を熟考する。
手番は周り、37手目。
「……うーん……はあ。無理、降参」
「っしゃ」
楓は小さくガッツポーズ。
「俺、紅茶飲むけど」
「あったかい牛乳」
牛乳をレンジにぶち込み、紅茶をいれる。
カップを二つ持ってテーブルに戻った。
「おにい、先手」
見れば、すでに駒は並べ終わっている。
たまには違った手をと思い、c4のイングリッシュオープニング。
楓は「ふーん」と目を細め、e5をうつ。
深夜の室内に、木製の駒がボードを叩く音だけが響く。
対局は4度続き、3敗1引き分け。
最後の勝負が終わると楓はその場で突っ伏して意識を手放す。
俺はふらふらとした足取りでカーテンを開けた。眩しい太陽。ばっと時計を見る。9時半。
……遅刻だ。
「楓、気持ちよさそうに寝てるとこ悪いが起きろ」
肩をゆさゆさ揺する。楓はむにゃむにゃ言いながら目をこすった。猫かこいつは。
朦朧としたまま起き上がった楓は、ふしゃーと伸びをして、頭をかき、携帯を見る。
「……あ」
「わかったか。さっさと支度しな。三十秒でな」
「そうじゃなくて」
なんだよ、と振り向くと、楓は携帯の画面をこちらに向ける。メールだ。差出人は、父親。
「お母さんの三回忌。来いって」
ーーーーーーーーーー
休日に制服を着るというのはどうにも落ち着かない。
法事は土曜日、俺の住んでるおんぼろアパートから電車で一本、実家からは徒歩十分の場所にある臨済宗のそこそこ大きな寺で行われる。
電車を降りて徒歩で寺へと向かうと、入り口に車がとめてあった。俺たちが横に来たところで中から40代後半の、筋骨たくましい男が出てくる。
「楓、元気にしてるか?」
「うん。元気だよ。おにいも」
その男、三笠大地は俺の方をちらりと見て、すぐに楓に視線を戻す。
「父さんがいないからって、学校さぼったりしてないだろうな」
「しないって。たまに、遅刻はするけど」
「おいおい。母さんが泣くぞ」
「ちゃんとテスト取ってるから、大丈夫だし」
三笠大地は笑いながら楓の頭をなで、境内へ入っていく。俺も5メートルほど開けて後を追った。
法事には祖父母、叔母、従兄弟二人も参加していた。一通り経文を聞いたりして会食となる。
会食中、親戚連中は談笑していたが、俺はだれからも話しかけられることなく、お膳も少し離れたところに置いて黙々と食べた。まあ、ぼっちなのは教室でも同じだし、飯はひとりでゆっくり食べたいのでこれは好都合だ。
寺の料理は本格的な懐石料理で、父親を視界に入れなければ料理だけなら楽しめた。
食事を終え、お開きになる。ひとりさっさと席を立ち、寺から少し離れたところで楓を待つ。
入り口にはまだ親戚たちが集まって何やら話している。従兄弟一家、祖父母が帰路につき、父親と楓の二人になる。
「乗りなさい。家まで送ろう」
「んー。いいよ、おにいと帰るし」
一瞬、父親は睨むようにこちらを見る。
「いつでもこっちに帰ってきなさい。あそこだと学校も遠いだろう。うちのほうが広いしな」
「えー。おにいと一緒のが楽しいし」
「そうか……」
父親はそれ以上はなにも言わず、車に乗りこんだ。
「じゃあな。いつでも帰ってきていいからな」
「うん。気が向いたら遊びに行く」
じゃあねー、と楓が手を振ると、父親は上機嫌に窓から手を振ってアクセルを踏み込んだ。すぐに角を曲がって見えなくなる。
たいした距離でもないのに車だったのはこのためか。
しばらく待っていると、楓が隣に来た。駅へ向かって歩く。
唐突に、楓が腕に抱きついてきた。
「安心しなって。私、おにい好きだし」
「別になんとも思ってねえよ。こっち住むんなら家事くらいしろ」
「えー。だるいからやだ」
切符を買い、まだ時間があるのでベンチに座る。楓は執拗にくっついてきた。はたから見たら恋人と思われてぼっち男子たちの呪詛を買うこと請け合い。
ふざけたことを考えていると、楓が小さくつぶやいた。
「おにいはなんも悪くないから」
返す言葉が思いつかない。適当なことを言ってはぐらかそうか、たまには怒ってみるか。
悩んだ末、沈黙。人気のない駅で静かな時間が流れる。
ーーーーーーーーーー
母親が死んだのは、俺のせいらしい。
昔からよくヒステリーを起こす人だった。子供が言うことを聞かない、あげたおもちゃを喜ばない、ご飯をおいしいと言わない、遊びに連れて行ったのに楽しそうにしない。
大声で泣き喚かれると頭がきんきんする。それが嫌で、俺はなんでも言うことを聞いて、いつも笑顔で、演技して、ご機嫌をとっていた。
けれど、その日はうまく演技できなかった。
最後に賭けたチェスの大会で、楓に完膚なきまでに負けて、悔しくて泣いて、チェスもやめようと決意して、胸の奥がぐちゃぐちゃになって、だから、ご機嫌とりも失敗した。
たしか食事のときだったと思う。母親の料理をほめるのを忘れると、母親はみるみる不機嫌になり、慌てて取り繕うとして、けど、ふと疑問に思ってしまったのだ。
なんでこんな気分のときにまで、こいつらにご機嫌とりのサービスしなくちゃいけないのだろう、と。
時間が経ってから、「今日のご飯はおいしくなかった?」と聞かれて、ただ一言おいしかったと嘘をつけばいいのに、それができなくて本心を言ってしまった。
母親は泣き出して、怒り出して、こっちも宥める気にもなれなくて、言い返した。母親は俺を叩いて、皿を投げつけてきて、つい、怒鳴り返した。
いい大人がいい加減にしろ、ろくに自分の感情の制御もできない幼稚な人間が、いつでも構ってもらえると思うな、と。
母親はぴしゃりと黙った。涙は流れ続け、唇は震えていたけれど、言葉はとまった。
翌日、母親が姿を消した。捜索しても見つからず、三日後、俺の部屋で首を吊っていた。
俺は警察に電話した。机に手紙のようなものがあったが開けていいのかもわからず、そのままにしておいた。父親は来るなりそれを読んで、今まで見たこともないような怒りを湛えた目で俺を見据え、言った。
「この人殺し」
それから一週間、父親との会話はなかった。次の会話があったのは俺が家を追い出された日。
父親は俺を車に乗せ、年季の入ったアパートの前で下ろして鍵を渡してきた。
俺の顔を見るのも嫌になったらしい。父親は言った。
「高校までは金を出してやる。卒業したら一切面倒は見ん」
それが父親と交わした最後の会話だ。
楓が来たのはさらに一週間後。最初は遊びに来るだけだったが、気づけば生活用品をすべて持ち込んできており、こっちに住んでいた。
家を追い出されて、正直ほっとした。これ以上、父親に何か言われずに済むから。
父親からも母親からも、いろんなことを言われてきた。「もっと努力しろ」「本当にできない子ね」「なんでできないんだ」「あなたのために言ってるのよ」「子育てに失敗した」「ちゃんと育てたつもりなのに」「楓とは大違いだ」「楓はちゃんとできるのにねえ」
俺は失敗作なのだろう。楓は完璧で、天才で、可愛い、成功作品。
だからきっと、俺はいつまでも楓には勝てないのだ。失敗作の俺では、どうあがいても。
けど、呪いみたいな言葉ばかりある頭の中に、たった一言、先輩の言葉が浮かび上がる。
自分を卑下するのは勝手だ。今でも自分を優れたものだなんて思えないし、勝てる気もしない。
それでも、先輩の言葉まで疑ったら、俺はもっとくだらない生き物になる。
だから、あの言葉を信じよう。自分のことなんて信じられないけど、先輩のことは信じたいから。
きっと勝てる。だからぶつかってやる。どうせやるなら、絶対に勝つ。
構内に鳴り渡るベルで、回想が途切れた。来た電車に乗り、席に着く。
ふと思いつき、携帯を取り出してメールを開いた。楓が覗き込んでくる。
「何やってんの?」
「オカ研のやべえイギリス人にメール」
「は?」
「退部しろって言われてるの、文芸部だけじゃなくてオカ研もだろ」
「そうだろうけど、そっちは関係なくない?」
「関係ないな。けど、大人を出し抜くのって、楽しくないか?」
そう言った時の俺は、楓がドン引きするくらいの、素敵な笑顔を浮かべていた。




