迎えにくる影
ああ…… 今晩もか……
私は震える身体を布団の奥にしまいながら、じっと嵐の去るのを待つ。
ヒタヒタ、と廊下を歩く足音に混じり、ザザッ、と耳障りなノイズが混じる。
この古い病院の廊下は人が歩く度に軋む音が響く。
特にこんな深夜だと不気味で耳障りだ。
廊下の足音がピタリ、と私の病室の前で止まる。
相変わらずラジオからはノイズ混じりに微かな人の声が聞こえて来る。
足音は私の病室の扉を静かに開くと、ヒタヒタ、とベッドの私へと近づいてきた。
「……いや こないで……」
頭から布団を被った私は震えながら祈ることしか出来ない。
『ザ…… ザザッ…… ……の ……い』
よく聞き取れないラジオの音がますます近づいてくるようだ。
布団をじっと見つめる視線を感じる。
私にとっては永遠と思える数秒、その人はじっとベッドの側で佇んでいる。
やがて何かを呟いたと思うとラジオの人はヒタヒタ、という足音と共に部屋を後にした。
私は布団の中で震えながら、そのまま眠れずに朝を迎えた。
「おはよう、ヨシミちゃん。……今日もよく眠れなかった?」
翌朝になると、微睡んでいた私に看護婦さんが声を掛けて朝が始まる。
こういう事がこの1週間で続いていた。
相当酷い顔をしていたようで、看護婦さんがいつもより心配そうな顔で私の額に手を当ててくる。
昨晩の怖かった体験を話し、ほとんど眠れなかったことを伝えると、看護婦さんはますますその顔を顰め、携帯電話を手に取った。
「……あら、可哀想にねえ。先生に診てもらいましょうね」
やがてかかりつけのお医者さんが部屋にやって来る。
「おはよう、ヨシミちゃん。また怖い夢を見たのかな? 先生に話してくれる?」
「先生、夢じゃなくて本当に誰かが部屋に入ってきたの……」
ここ数日、夜中になると携帯ラジオを持った誰かが私の部屋に入ってくる。
初めは警備員さんかな、と思っていたけど、やはりそれにしては挙動が妙だ。
部屋の扉を開けることはあっても、中にまで入ってくるのはおかしいのだ。
私がこの話をお医者さんにしてから、この病院で働く警備員さんたちから聞き取り調査し、監視カメラの映像まで調べることになった。
結果、警備員さんが深夜の廊下を巡回をしている様子は映ってはいたが、ラジオなど持っておらず、私の病室どころか誰の病室に入る姿も確認できなかったそうだ。
……お陰で病院の判断としては私の精神状態の方を危ぶんでいるようだ
看護師さんに呼ばれたお医者さんが、私の脈や体温などを確認すると、腕にチューブを巻いて注射器を用意する。
「可哀想に…… だいぶ参ってるようだね。大丈夫、ヨシミちゃん。さあ、少しチクッとするよ」
腕に小さな痛みが走ると共に私は徐々に眠くなり、いつものように夢の世界へと旅立つ。
『ヨシミ、もうすぐ晩ごはんできるからね。ヨシミの好きなカレーよ』
……お母さん
いつもの夢の中で幸せだった頃の優しいお母さんと会う。
昔はお母さんも私とも遊んでくれて、よく笑っていた。
『ヨシミ。帰ったぞ。良い子にしてたか? そうかそうか、またお父さんとも遊ぼうな』
会社に通っていた頃の元気だったお父さんとも会う。
昔はお父さんも毎日、会社に通っていた。
なかなか遊んではくれなかったけど、休みの日は遊んでくれた。
……いつの頃からだろう。
私の家がおかしくなってしまったのは。
夢の中で時間が進む。
ある日、お父さんがくたびれた顔をして会社から帰ってきた。
その日の晩ごはんはとても重い空気で、誰も口をきかなかったのを覚えている。
……あの時からだ
『……そう 焦らないで次の仕事を探してね。私もパートで働くから』
『済まない。すぐに見つけるから…… 心配をかける』
その晩、私が寝た、と思ったお父さんとお母さんは深刻そうな顔で話し合いをしていた。
どうやらお父さんは会社を「くび」になったらしい。
こっそり居間を覗いた私の目には項垂れたお父さんとお母さんの姿が映っていた。
更に夢の中の時が進む。
夢の中ではあるが、私の額から汗が流れ落ち、心臓の音が跳ね上がるのを感じる……
耳を塞いでも、嫌な音は私の頭へと飛び込んでくる。
深夜、居間をこっそり覗くとお父さんとお母さんが言い争っていた……
『おい! お前‼︎ なんだよ! このメールは! パート先の店長からじゃないか! 職場でどんなことを話してやがるんだお前!』
『なによ! こんなのただの軽口じゃない! そういうのを下衆の勘繰りっていうのよ‼︎』
バシッ、とお父さんがお母さんの頬を叩く音が聞こえる。
私はやめて、と叫ぶが喉が張り付いたように動かない。
……そうか、これは私の過去の記憶
声を出すことなんてできないんだ……
『今すぐ、パートを辞めろ! 俺から連絡を入れておく! いいな‼︎ このビッチが‼︎』
『パートをやめろですって? よく言えたものね。この甲斐性無し‼︎ 会社をクビになってからちっとも次の職場見つからないじゃない! 知ってるのよ? あなたが最近では公園のベンチで時間を潰しているのを。偉そうに言うなら真面目に就職活動してよ‼︎』
お父さんとお母さんの喧嘩はますますヒートアップしているようだ。
この時の私はどうしていただろう。
ただ震えて泣いていたような気がする。
『言ったな‼︎ このアバズレが‼︎』
『何よ‼︎ このダメ男‼︎ もう離婚よ! 離婚!』
お母さんが何かを投げつけ、お父さんに当たったようだ。
何かが壊れる音がする。
『こ、この! よくも‼︎ もうゆるさんぞ‼︎』
……やめて!
やめてよ、お父さん、お母さん……
気がつくと、私は病院の天井を見上げていた。
そして、看護婦さんが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「大丈夫? ヨシミちゃん。うなされてたから起こしちゃった。汗だくになっちゃったね。お風呂に入りましょうね」
そう言って看護婦さんは優しく微笑んだ。
「さあ、今夜はよく眠れるといいね。おやすみヨシミちゃん」
看護婦さんは夜までわたしに付き添い、お話をしてくれた。
でも消灯時間になり、看護婦さんは手を振り私の病室を出て行く。
私は出来るだけ楽しいことを考えようとする。
……しかし、昼間に見た夢を思い出し私の夢を黒く黒く塗りつぶしていくようだった
目が覚めると夜中だった。
チクタク、チクタク、と時計の針の音だけがベッドと机だけの病室に響く。
午前2時。
いつもの時間に目が覚めたようで私は思わず息を呑む。
机の上にあった水差しの水を飲んでタオルで汗を拭った。
なんだってまたこんな時間に目が覚めたのか、と恨めしく思う。
「昨日の今日で何もないよね? ……今日はもう眠りたい」
震えながら私は布団を頭から被って無理やり眠ろうとする。
……するといつもの足音とラジオのノイズが聞こえてきた
『……ガガッ ……ザザッ ーー時頃 ーー宅でおきた…… ザザッ……』
廊下をヒタヒタと歩く足音と共にラジオのノイズは近づいてくる。
「……いや もうやめてよ……!」
私は布団の中で小さく叫ぶ。
……何故あのラジオのノイズが怖いのか、私の神経を刺激するのか、今わかった。
あれは……
ガラガラ、と音を立てて人影が私の病室に入ってきた。
心臓がひっくり返りそうになりながら私は息を殺す。
ラジオのノイズが今晩は少しだけ晴れて私の耳へと飛び込むように入ってくる。
『……本日午後11時頃○○市内で起きた殺人事件の続報です。夫である泰正さんに刺された妻友美さんは、近所の通報ですぐに市内の病院に運ばれましたが間もなく死亡。警察は夫を殺人容疑に切り替えて取調べており……』
……いやだききたくない
そう、ラジオのノイズは私のお父さんがお母さんを殺した事件を伝えるニュースだった。
『夫の泰正さんはひと月前に失職しており、妻の友美さんがパートで家計を支えていました。警察はこうした背景が事件に関係があるとみて……』
「もう! やめてよ‼︎」
私は布団から跳ね起き、思わず叫んだ。
黒い人影が私を見てグニャリ、と笑ったような気がした。
怖い、という気持ちよりも私は頭の中が真っ白になった。
『……ヨ、ヨシミ ム、ムカエニキタヨ サアイッショニママノトコロヘイコウ……』
黒い人影は不思議なことに顔も服装もまるで霧がかかったようによく見えない。
……でも私はようやく確信する
この人影はお父さんだったんだ……
黒い影は固まって動けない私に向けて腕をゆっくり伸ばしてくる。
まるで吸い込まれそうな黒は視界を覆い、私は段々と眠くなってきた。
『サアオイデ…… クルシマズニイケルヨ……』
恐怖、という間を覚える暇も無く黒い手は私の頭を覆う。
何かがどくどく、と私の中に流れ込んでくる気がした。
……ああ、そうか、これから私は旅立つんだ
薄れゆく意識の中でそう思った時だった。
「何してるの⁈ 誰‼︎」
電灯の灯りと共に見知った看護婦さんの声が聞こえてきた。
部屋の明かりがついたと思ったけど、黒い影は黒いままで私の頭を掴んでいた。
「ちょっと! なんなの⁉︎ ヨシミちゃんを離しなさいよ! 化け物!」
看護婦さんは必死になって、私と影の間に割り込み引き剥がそうとした。
しかし、押しても引いても黒い影はびくともせず、看護婦さんをそのまま拳で殴りつけた。
『……ジャマ スルナ』
「きゃあ‼︎」
看護婦さんは頬を押さえて、床へと倒れる。
……なんてことを
私はぼうっとした意識の中で、とどめを刺すかのように看護婦さんにゆっくりと近づく黒い影を見る。
頭の中に靄がかかったように首すら動かせない。
焦燥だけが私の胸に募ったがどうにもならなかった。
ズズ、と黒い影の腕が刃物の形に変わったその時だった。
私の頭に封印されていた、いや自分で封印していたらしい記憶が蘇る。
その急に蘇った記憶は鮮明で、私の胸を、心を、どす黒いものが支配する。
『この馬鹿女がぁぁぁぁぁぁぁ‼︎』
『キャァァァァァァァァァァァァ‼︎』
それはお父さんが包丁でお母さんを刺した、あの日の光景だった。
気がつくと、金縛りのようなものが解けて私は絶叫していた。
黒い影は戸惑ったようにこちらを振り向く。
『ドウシタ ヨシミ…… サアイッショニイコウ』
私は近づく影に向かって息を吐くように叫んだ。
「私は……! いかない! あなたといっしょになんていかない‼︎」
しん、と辺りが一瞬時間でも止まったように無音になった気がした。
私は肩で息をしながら床に手をついて黒い影を見つめる。
『ヨ、ヨ、シミ……』
やがて黒い影はどこか悲しそうな表情をしたかと思うと、床へとズブズブと沈み込み、いつの間にか消えていった。
何分ほど、倒れたまま佇んでいただろうか。
私は涙を拭いながら、床に倒れる看護婦さんを揺らしながら、病室の呼び出しボタンを押した。
カナカナ、とセミが鳴く林の側に私のお母さんのお墓があった。
お父さんの墓にはまた今度連れていってくれると言う。
花を供えて、お線香に火をつけると私と看護婦さんは目を閉じてお母さんの冥福を祈る。
長い沈黙の後で看護婦さんは後片付けしながら、色々と話してくれた。
「ごめんね、ヨシミちゃん。あなたのお父さんはね…… 10日前に警察の取調べ中の隙を突いて逃げ出した後、自殺したそうなの。ショックを受けると思って黙っていてごめんなさい」
……そうか、やっぱりあれはお父さんだったんだ
私は何と言っていいか分からず、ただ首を横に振って看護婦さんのせいじゃないことを伝えた。
看護婦さんは数日前の夜のことを思い出しながら、青ざめているように見えた。
「……あなたにとっては辛いことよね 可哀想な子。お父さんがあの世からお迎えに来たのかもしれないわね…… 今度お祓いにいきましょう。みんな、あなたの味方だからね、ヨシミちゃん」
そう言って看護婦さんは、私を引き寄せじっと胸に抱いてくれた。
看護婦さんも震えていることが伝わってくる。
帰り道の車の中で、沈みかけの太陽を見つめながら、私は思う。
これからも「お父さん」は私の前に現れるのだろうか。
震える心を押さえながら、私は看護婦さんの横顔を見る。
……大丈夫
私は強く生きていくから、成仏してね、お父さん。
『……ザ ……ザザッ』
『……本日午後11時頃○○市内で起きた殺人事件の続報です。夫である泰正さんに刺された妻友美さんは近所の通報ですぐに市内の病院に運ばれましたが間もなく死亡。警察は夫を殺人容疑に切り替えて取調べており……』
驚いて後部座席を振り返る。
そこにはラジオを持った黒い影が座っており、私と看護婦さんを見つめているようだった……
「キャァァァァァァァァァァァァ‼︎」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼︎」
私と看護婦さんが絶叫すると同時に、車は山道を外れ、崖の下へ吸い込まれるように落ちていった……