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おしゃれ老人

作者: 百野 耕三

人はそれぞれ自分の信じることを信じて生きている。そして時には自分の信じることを大事に思うあまりに他人の信じることを否定する。そこに争いや嫌悪が生まれる。しかしそんなネガティヴな感情とは無縁な生き方をする人がいたら少し興味が湧きますね。

第一章 鈴之助 

 

私の名は無刀鈴之助。二十九歳独身で、大阪市のとある高校の国語教師をしている。

 幼いころは、近所でも頭が良いと評判で神童扱いされたが、小学四年生のIQテストで86というスコアが出た。

学校の保護者懇談で、担任の白川先生から「息子さんは、魯鈍です」と言われて、両親はひどく傷ついたようだった。

しかし二年後、六年生の同じ検査では、スコアが139だった。当時担任だった松尾先生から、「向上心さえ持てば、成績は飛躍的にアップするでしょう」と聞かされて、母は少なからず喜んでいたが、父は当惑気な顔をしていたことを記憶している。

生来の怠け者気質で、中学の成績はいつも、クラス50人中10位くらいを前後していた。

高校は偏差値のそれほど高くない、「とりあえず進学校」に入学した。当初の成績はクラスのトップだったが、学問に興味が湧かず1年の学年末では600人中50位まで成績を下げた。卒業時は、クラスのブービー賞だった。

超有名校でなく、かといって無名でもない私立大学へ進学し、なんとなく文学を専攻した。適当に講義をサボりながらアルバイトをして、特に遊びほうけることもなく、ただ本を読んで空想にふける毎日を過ごし、何とか四年で大学を卒業した。

勤勉に学問に取り組んだ同級生たちはみな教員採用試験に失敗し、皮肉にも私ひとりが合格をした。


公立高校教員という公務に就いて七年が経った。

特に親しい友人を持たなかった私は、職場でも付き合いが苦手だった。

唯一の趣味は本屋に行くことだ。書棚の本の一冊一冊、注意深くタイトルを見る。

タイトルにひらめきを感じない本は素通りする。

常に胸の奥にぽっかりと空いた穴があるような感じがする。それを埋めてくれそうな本を探しているのだ。

気になるタイトルがあると手にとって中をパラパラとめくる。買った本の内容に惹かれると、その著者の作品を探しまくって片っ端から読むことになる。

いったん読むと決めた著者の作品は、すべてまとめて買い自宅に持って帰る。

勤務している学校から徒歩20分のところに借りたユニットバストイレと小さなキッチンの付いた六畳一間のアパートメント。これが私の自宅だ。

六畳間には押入れが一つあり、私はそのふすまを取っ払って天井から電球をぶら下げ、寝床兼読書ルームにしている。部屋が常に片付いて掃除がしやすいせいだ。

私は読書ルームに籠って、リンゴを丸ごとかじりながら読書にふける。

幼いころ好きで何度も何度も読み返したオルコットの若草物語の登場人物にジョーという四人姉妹の次女がいた。

彼女は男の子のような身なりをし、将来は作家になりたいと願う読書好きな女の子だった。いつも屋根裏部屋で一人リンゴをかじりながら本を読んでいる。

私は子供のころ彼女が好きで、その真似をしてリンゴと本をセットにした。その習慣がいまだに続いている。


そんな平凡な毎日を繰り返していたある日、ふと書店のガラスドアに映る自分の姿に目が入った。

「腹が出てきたな」そう思った。

「明日からジョギングを始めよう」そう決めて、グーグルマップで景色の良さそうなコースを検索した。

近くに大阪城があり、その周りに2kmくらいの遊歩道がある。とりあえず毎朝走ることにした。



第二章 邂逅


翌朝5時に起きて、高校時代の体育ジャージに着替え、颯爽と外へ飛び出した。あたりはまだ薄暗い。なんとなくいい気分だ。

走り始めて5~6分で大阪城公園に着いた。遊歩道を行くこと5分、モチベーションがキープできずにとぼとぼと歩きだした。

「おはようございます」向かい側から走ってくる男性が笑顔で声をかけてきた。

「おはようございます」照れたぎこちない笑いを浮かべながら応えた。

男性のゆっくりとした、しかしリズミカルでしっかりとした走る後姿をしばらく眺め、「とりあえず7時まではここにいよう」と心に決め、また歩き始めた。

そろそろ帰ろうとしたところへ、さっきの男性がまた走ってきた。何度も周回しているようだ。

「お先に失礼します。」私は声をかけた。

「さようなら、また明日会いましょう」と男性が応えた。

「どうして私がまた明日も来ると判るんだ?」私は心の中でそう言いながら、少し苛立つ気持ちと半分うれしい気持ちがあった。


翌日、私は4時半に目が覚めた。もう一度眠ろうとしたが駄目だったので、歯磨きをして顔を洗い、体育ジャージに着替えた。

「早いけど、行くか」独り言を言いながら薄暗い外へ出た。

民間のごみ収集車が商店の前に置かれたごみ袋を集めている。「早くから働いてるんだなあ」などと考えながら城へと歩いた。前日は走って城まで行ったのが失敗だったので歩いてウオーミングアップにしようと考えたのだ。

結構たくさんの人がウオーキングやジョギングをしている。どこかの陸上部だろうか、数人の学生らしきグループが本格的な練習をしている。

物珍しい風景を楽しんでいると、間もなく城の入り口に着いた。

「さあ、今日はペースを落として30分は歩かずに走り続けよう」そう思って走り始めた。40歳半ばくらいの女性が私を追い越していった。

私以外のジョガーはみんな、リズミカルに走っている。私はなんだか沈んだ気持ちになった。

その時、後ろから「顔は、なるべく上を向いて走るほうがいいよ」と声がした。

振り返ると昨日の男性だった。

「そうなんですか、ありがとうございます」と応えると男性は「昔の歌で上を向いて歩こうっていうのがあるじゃない」「涙がこぼれないようにね、はっはっは」と言って爽やかに私を追い越していった。

少し元気が出たので、顔を上げて、時には空を見上げて走った。すごく気分がいい。周りのことが気にならなくなった。

40分くらい走り続けただろうか、タオルで汗を拭きながら歩いて公園の出入り口へと向かった。

遊歩道の少し膨らんだところで、さっきの男性が体操をしている。

私は男性に近づいて「さっきはありがとうございました。おかげで気持ちよく走れました」と感謝の言葉を口にした。

「近所の人だね?仕事は何をしてるの?」と男性が尋ねた。

「学校の教師です。」と私が応えると「おお、先生か!ワシの家は、公園の入り口を出て左へ一本道、最初の曲がり角を右に50メートルほど行くと行き止まりになる。その左側にあるんだよ、いつでも寄ってください」と男性が笑顔で言ってくれる。

「ありがとうございます、ではさようなら、どうか良い一日を」私は、そう言って立ち去った。

私は、妙にその男性のことが気にかかった。いつも笑顔で穏やかだが、その眼は考え深げで、微笑みの奥底には何か深いものが感じられて仕方がない。

その日、私は学校での仕事を終えてから散歩したい気分になった。自然と公園の方向へ足が向いた。

公園は、学校から自宅までの道から外れて少し遠回りになるのだが、なぜか気になる大阪城公園。男性のことが頭から離れない。

「公園の入り口からまっすぐ南、最初の角を右だったよな」私は独り言をつぶやきながら彼の家を探した。

彼の家はすぐに見つかった。古くからの住宅地のようだ、街並みがそろっていない。彼の家は、間口が2mほどの縦と上に細長い四階建ての家だった。

表札がかかっている。「縄文原人じょうもんげんじん!?」「本名だろうか?」

私は、とりあえず家を見つけたことで得心がいき、自宅に帰ることにした。


翌日から三日間、私は公園に行かなかった。

夜遅くまで生徒に課したレポートの採点をしていたせいで、朝早く起きることができなかったのだ。

四日目の朝、その日は土曜で仕事が休みだったので、晴れ晴れとした気分で早朝ランニングに出発した。

彼はいつものように公園の周りを周回していたが、いつもよりずいぶんとスピードを上げて走っている。私を見ても、ちょっと手を上げて合図するだけで通り過ぎてしまう。

一時間以上ジョギングしただろうか。

そろそろ帰ろうとしたところへ「先生!今日は仕事休みかい?」と彼が声をかけてきた。

「はい、しばらくランニングをサボってました」と私は頭を掻いた。

「先生、あとで家に昼飯食べに来ないか」と彼。

「先生はやめてください。無刀鈴之助と言います」笑いながら私は言った。

「ムトウ君か、いい名だな。ワシは、ジョウブン、よろしくな」

ジョウモンさんじゃなかった。しかし、私の名を聞いて無刀のほうに注目されたのは生れてはじめてだった。大概の人は鈴之助に対して反応する。

「こちらこそよろしくお願いします。鈴之助と呼んでください」

「では鈴之助、正午までにワシの家に来てくれ。ワシの家は….」と言いかける彼を遮って「あっ!知ってます、知ってます。先日お宅の前を通りました」と私。

「ではのちほど。」と彼は言って軽快に走り去った。

「行くとは返事してないのになあ」とつぶやきながら私は少なからず嬉しかった。毎日同じことの繰り返しに飽き飽きしていたことを改めて意識せずにはいられなかった。ちょっとした変化がとても楽しかったのだ。


私は自宅に戻りシャワーをして朝食をとった。トースト1枚とホットコーヒー、これが毎日お決まりの朝食だ。

食後、私は学校の仕事を持ち帰っていたので、2時間ほど集中してそれをこなした。そのあと、リンゴをもって読書ルームに寝転がった。

本を持ちながら眠ってしまったようだ。気が付くと11時過ぎていた。

私は、慌てて服を着替え外に出た。

途中の和菓子屋で、手土産に村雨むらさめを2本買った。

村雨とは、餡に砂糖、米粉を混ぜて蒸し、ふるいにかけた「そぼろ餡」で食感はホロホロながらしっとりとした生地の和菓子で私の大好物だ。

縄文さんの家には12時少し前に着いた。インターホンのボタンを押した。

「今開けるからドアを引いて入って、2階まで上がっておいで」と声がした。

ガチャリとロック解除の音がした。

私は言われた通り2階へ上がった。縄文さんは、椅子に座って笑っている。

部屋はワンルームアパートメントのような造りで、きれいなL字キッチンの前に小さな丸いテーブルとおしゃれな椅子が二つ置いてある。東側の大きな掃き出し窓の前に、ダブルサイズのベッドが置いてある。

「こんにちは、お招きありがとうございます。これはちょっとした手土産です。どうか召し上がってください。」私は袋ごと菓子を手渡した。

「ありがとう。有難くいただくよ。だが、次からはこういう気遣いは無しにしてもらいたい。」「よく来たね。向かいのスライドドアを開けたら洗面所だから、手を洗ってきなさい。タオルは前の戸棚に入ってるから、それを使って」と縄文さんが言う。

言われたようにドアを開けると、こじんまりした洗面台と、それぞれ扉で仕切られた狭い風呂とトイレがあった。

私は手を洗い、部屋に戻って椅子に腰かけた。

縄文さんが、きれいな器を差し出した。白地に小さな薄紫の花びらがところどころ控えめに描かれた、少し底の深いスープ皿のようだ。スープの中に大きく切った野菜がたくさん入っている。

「さあどうぞ」

「ありがとうございます。いただきます」

縄文さんは茶碗にジュースを注ぎ、何やら粉末状のものを加えてかき混ぜ始めた。

「わしは先ずこれを飲んでからポトフを食べるとしよう」

私は尋ねた。「何ですかそれは?」

「これはリンゴジュースとホエイプロテイン、鈴之助も飲むかね?」と縄文さんが勧めてくれたが、私は丁寧に断った。

普段コンビニ弁当やハンバーガーで昼食を済ませている私にとって、ふんだんな野菜はありがたかった。「縄文さん、ごちそうさま。大変おいしくいただきました」

「それは良かった。コーヒーはどうだい?」と縄文さん。

「いただきます」私は彼に笑顔で答えた。

彼は中挽きのコーヒー豆をコーヒーメーカーにセットしながら言った。

「鈴之助、ワシをゲントと呼んでくれればいい」

私は「ゲントさんですか?分かりました、そう呼ばせていただきます」と答えた。

ジョウモンゲンジンではなくジョウブンゲントだったのだ。

「原人さん、仕事は何をされているんですか?」私は尋ねた。

「年金暮らしだよ」

私は驚いて叫んだ「えっ!60歳を超えられているんですか?」

「ああ、ずいぶん前にね」彼は大きな声で笑った。

それから30分ほどおしゃべりをして、私は彼の家を出た。

その日以来、私は毎日欠かさず公園ジョギングをするようになった。時には原人さんと並んで走った。10分もすれば息が切れ「お先にどうぞ」と声をかけて、後は一人で走ったり歩いたりした。

原人さん曰く、息切れするほど走らなくていいから、精神的ストレスがかからないように気を付けて、気持ちがいいと感じる程度に運動するのが良い。

さらに言うと、走る必要はなくウオーキングだけでいいのだそうだ。理由は着地の際にかかる膝や腰への衝撃が少ないからだそうだ。

仕事や買い物も含めて一日8000歩を目途にする。そしてその内容の中に20分だけモデラートな有酸素運動を含めろという。

モデラートな運動とは脈拍が1分間に120~140くらいになる運動だ。個人差はあるが、大股で早歩きを5分以上続けるとモデラート運動になるという。

こうして鍛えられた下半身の筋肉、しかも4カ月以内に造られた新しい筋肉からのみマイオカインという物質が分泌されるのだとか。この物質は、成長ホルモンと同じような働きを持ち、傷ついた細胞や遺伝子を修復するという。

ある医学博士によると、スクワット運動とウオーキングを組み合わせたトレーニングを2か月継続する実験の結果、高いパーセンテイジで普段は眠っているサーチュイン遺伝子という長寿にかかわる遺伝子が活性化されるというデータが得られた。

「運動は健康や長寿に絶大な効能を持つ」と原人さんは言う。

軽い運動を日常化することによって認知症の予防に効果があるばかりでなく、その症状を改善することも可能だという。

原人さんと私は、ジョギング後に少し立ち話をすることが多くなった。

私は2週間に一度くらいのペースで原人さんの家を訪れた。話題は尽きず、私の彼に対する好奇心は留まらなかった。

縄文原人という人との邂逅は、私の人生を大きく変えるターニングポイントだった。



第三章 おしゃれ老人


 原人さんは86歳だった。これは言葉で表せないほどの衝撃だった。どこからどう見ても50歳くらいにしかしか見えない。場合によっては30歳でも彼より老けて見える人がいる。しかも、彼の姿勢や体つきは20代や30代の若者に引けを取らないほど引き締まった細マッチョなのだ。

 彼の見た目と実年齢のギャップに驚いた私だったが、実は私は彼の生活スタイル、気質や物の考え方の何もかもがおしゃれでクールに感じられた。

 彼の歯磨きがすごい。食事ごとに歯を磨くのだが、食べ終わるとまず緑茶で口を漱ぐ。そのあと先ず歯ブラシに何もつけず10分くらい歯と歯茎をマッサージする。そして歯磨き錬り粉をほんの少し歯ブラシの先に乗せて10分歯の裏側など隅々まで弱い力で磨く。つぎに歯間ブラシを使って入念に歯と歯の間を掃除する。

 きれいな歯だ。右の奥歯は、若いころ歯根脳腫ができ、除去手術のために健康な歯を2本抜いてインプラントを入れたそうだ。あとは笑ったときに前歯から左に4本目に銀歯のかぶせが見える以外はすべて自分の歯だそうだ。

 彼の頭髪は前頭部の真ん中を残して両側の生え際が少し薄くなっているが禿げているというほどではない。

全体に短くカットされており、耳のあたりから側頭部にかけては特に短くモヒカン的丸坊主だ。週に一度バリカンで自らカットするのだそうだ。

 高齢の人たちの多くは、眉毛の端が異様に長く伸びていたり、耳や鼻から毛がはみ出ていたりするものだが、彼には全くそういう様子がない。専用のカッターで手入れするという。

 耳の掃除は、シャワーや入浴の時に耳の中まで石鹸の泡を満たし、奥まで指を入れて丹念に洗うのだそうだ。洗った後は綿棒で水分を取り除く。


 彼は一日に三回、風呂場を使うそうだ。早朝ジョギングの後と午後トレーニングをした後のシャワー、そして寝る前に湯船に40℃くらいのお湯を溜めて入浴する。

体を洗うにもルーティーンがあるという。

最初にシャンプーを少量手に取って、よく泡立ててから頭を洗う。短髪ではあるが洗髪後は丹念に泡をすすぎ落す必要があるという。

次に泡状の洗顔剤で顔と耳と首を洗う。これもまた充分に時間をかけてぬるま湯で泡を落とす。決してシャワーから直接顔に湯をかけず、手のひらに受けて優しく泡を洗い流すのだ。

そのあと、柔らかいビニールタオルにボディソープをつけて泡立てる。バスチェアーに腰を掛け、その泡で優しく丹念に全身を洗う。いちばん最後に足の指の間を丁寧に磨くように洗う。風呂場から出て体をバスタオルで拭くときも、最後には椅子に腰を掛けて足の指の間の水分を丁寧にふき取るのだ。

風呂から出たら、すぐには着衣しない。水で少し手のひらを濡らしモロッコ産のアーガンオイルを薄く延ばすように顔から首、体の隅々、そして足の裏までマッサージしながら塗る。

私には到底まねのできない時間の掛け方にもコツがあるという。

それは作業のあいだじゅう「あー気持ちがいい。」とゆっくり息を吐きだしながら何度も声に出して言うことだと言うのだ。とても快適に感じることならいくらでも時間をかけられるという。「ありがたい有難い」も口癖のように言う。

彼の家は常に片付いていて清潔だ。汚れたところは即座にきれいにする。その方が効率的で大掛かりな掃除をするより時間が節約できるという。


物を多く持たないことも重要な要素だ。

身に着けるものも少なく実にシンプルだが、非常に個性的だ。

ロゴの無い安価ではあるが品質の良いスポーツウエアを上下で5着持っていて通常はこれを着て生活している。穴が開くまで着る。穴が開いたものは雑巾にして、新しいものを買う。スポーツソックスを5足、ジョギングシューズが2足とサンダル、雪駄がそれぞれ1足ずつ。すべて擦り切れるまで使って汚れ作業に転用する。

外出着は作務衣を2着。彼に言わせるとこれは作務衣ではないそうだ。

彼はそれを剣衣、野袴と呼んでいる。作務衣とは形自体が違うのだそうだ。

そういえば、お尻の上あたりに台形の腰当てがある。

亡くなった彼の母親の形見である着物を呉服屋に仕立て直ししてもらったものらしい。

これがまた実に自然でよく似合っている。

 彼のルッキングからして老人と呼ぶのは憚れるが、生活年齢を鑑みたうえで彼を一言で表現するならば、おしゃれ老人とでも表現しようか。

 私は彼の不思議な魅力にひかれ、また彼の言葉の端々に深いものを感じた。そして心の空虚を埋めるための書物探しにピリオドを打ち、代わりに彼のもとへ足しげく通うようになる。



第四章 原人塾


私は彼のところへ話をしに行くことを密かに原人塾と呼んだ。

実際、幾人かの若者たちが彼の家に出入りしている。彼らの目的も私と同じであるようだった。小さな寺子屋とでも言うべきだろうか。

私たちは、4階のトレーニング室で原人さんが行う健康体操をした。

彼は特に何も教えない。ただ自分で自分のメニューに従って黙々とストレッチをし、筋トレをする。

ときにはマットレスの上に寝転んで顔の筋肉をほぐしたあと体中のリンパ節を自分でマッサージする。

私たちはただ、それを真似しながら2時間にわたる彼の作業を見届ける。

彼がリラックスタイムと呼ぶお茶の時間がある。特に時間が決まっているわけではないが午前10時ころと午後3時ころになることが多い。

彼はネスカフェアンバサダーの契約をしていた。

訪問者は、好きな時にマシンからお茶やコーヒーを自分で給仕した。

マシンの横に大きな花瓶が置いてあり、私たちはその花瓶の中にお金を入れる。そう決められているわけではなく、自由意思で気の向いたときにお金を入れる習慣が自然にできたらしい。

マシンを使っても何も入れない人もいれば、使わないのに一万円札を入れる人もいる。

私はいつも体操の後、汗を拭いてマシンの前に行き500円硬貨を1個花瓶の中へ落としてコーヒーを入れ、原人さんのそばに腰を掛ける。

私はこの時間が一番好きだ。この時とばかりに質問をぶつける。

「原人さん、健康体操をするときに気を付けることがありますか?」

彼は即座に、しかしゆっくり答える。

「呼吸の仕方だよ。鼻から深く吸う。そして口からゆっくり吐き、同時に腹をすぼめるんだ」

「特にリンパマッサージの時は呼吸に神経を集中する。そうする事でほかの余計なことを考えない」


私は休日の度に原人塾へ出かけた。かれは午後5時になると晩酌を始める。それは彼の一人の時間であり、私たちは5時以降出入りをしなかったので、私にとって休日だけが原人塾の開講日であった。

こうして私は、縄文原人というモダンな仙人のような人物の哲学談義を楽しみにして毎日を送るようになった。



第五章 健康


 ある日私は原人さんに尋ねた。「健康を維持するのに最も大切なことは何ですか?」

 「タオだな」彼はいつものように、ゆっくりだが即答する。

 私は意味が分からず「タオ?」「それは何ですか?」と聞き返した。

「紀元前500年位前、釈迦が生まれた頃だが、中国に老子という人物がいた。実在したかどうか定かでないとされているがワシは信じている。その老子哲学の根本がタオで、精神的自由の境地という意味だとワシは解釈している」

私はさらに意味が分からず「精神的自由の境地ですか?」とオウム返しした。

「自由の境地を得て生きることが幸福だという考えだと理解している」彼が応える。

彼は続けて言う。「人間は多くのものに縛られて生きている。政治、法律、環境、人間関係などあらゆるものから制約を受けて不自由だ」

「そして最も自分を縛っているのは自分自身だ。過去に犯した失敗にこだわって自己嫌悪する。他人の評価を気にしておおらかに振る舞えない。心のどこかに虚しさを感じて生きている。そういった事がストレスとなり健康を損なうのだ」

「身体的なコンディションと精神的な状態は切り離すことができず、同一の概念として健康をとらえ、良い状態を維持するためにはアファメーションが必要なんのだよ」

私は聞き返した。「アファメーションですか?」

原人さんは答える。「自己肯定とでも解釈すればよい。感謝をし、喜び、肯定するんだ」

「いったい何に感謝するんですか?何を喜んで、何を肯定するんでしょうか?」と私は尋ねた。

すると彼が「今感じているものすべてにありがとうと言うのだよ。今この瞬間をただ喜ぶんだ。そして自分自身のすべて何もかもを肯定するんだ」と答えた。

その時はまだ、彼の言っている意味がよくわからなかった。

原人さんは続けて言う。

「健康に対するアプローチ方法として、スピリチュアルな働きかけが有効だということだ」

「もちろん、アプローチの仕方は多ければ多いほど良い。食事を含む栄養補給、睡眠の質、笑うこと、音楽を聴くこと、歌を歌うこと、そして鍛錬とは異なる、健康にフォーカスした心身のメンテナンスとしてのトレーニングだ」

私は反応して言った。「なるほど、それは原人さんがいつもトレーニング室でやっている健康運動ですね」

原人さんは笑いながら言う。「そう、コーゾメソッドというのだ。高校の体育の先生だった人が考案したのだそうだ」「運動と呼吸法のコンビネーションにより、細胞を構成している素粒子や、さらに量子力学的なエナジーに語りかけて自然治癒力や細胞分裂、テロメラーゼ分泌まで活性化しようというのだ。」「大阪の人だよ。聞いたことないかい?」

私は少し考えてから頭を掻きながら言った。

「聞いたことないですね。そもそも私は学校関係のことに詳しくないんで。ははは」

私は続けた。「話が少し難しくなってきましたね、原人さん」「確かテロメラーゼというのは、我々の老化のメカニズムとして染色体の末端組織テロメアが細胞分裂するたびに短くなっていくのを防ぐ作用を持つ酵素のことですね」「しかしトレーニングによってテロメア短縮が阻止できるって、運動することで老化を遅らせるという意味ですよね?」「にわかに信じがたいな、アハハ」

すると原人さんは、いきなり英語で話し出した。「You don’t need to believe what I believe in.」

私はあわてて言った。「えっえっ?何ですか今のは?私は英語が苦手なんです」

原人さんは言う。「私が信じるものをあなたも信じる必要はない。」「誰もみな自分が信じたいことを信じればよい。そして他人が信じることを否定する権利は誰にも無いよ」

「科学は日進月歩で多くのことが解明されつつある。学者は仮説を打ち立て観察や実験を基にデータをそろえ学説として発表する。学説はさらなる検証を経て定説となる。しかし究極の真実である真理は誰にも判らない。科学者も医者も学校の先生も本当のことは知らないのだよ」

「イエスの言葉を借りるなら、あなたが信じることができるなら、信じる者にはすべてのことが起こり得るのだ。」「信じる事には無限の可能性があるのだよ。はっはっは」

私はさらに尋ねた。「深いですねえ。では、笑うことや音楽と健康が、どう関係するんでしょうか?」

原人さんが言う。「30年前、あるお医者さんが、ガンは笑って治せると言った」

当時の科学者や医者たちは彼を嘲笑して、誰も信じなかった。」「しかし10年前に、笑う行為と体内でのナチュラルキラー細胞増殖の相関関係が実験データとして明らかにされ、現在では治療の一方法として認知されている」

「音楽には不安を和らげる力がある。聞いたり演奏したりする曲のトーンやテンポを変えて愉しむことで、意識的に心拍数や血圧を下げることができる」

「歌を歌うことはヨガを行うことと同様の健康効果があるという実験データがある」

「一人で歌うより大勢一緒に声をそろえて歌うほうが効果的だそうだ」

「そして健康運動だ。競技のためのトレーニングとは区別しないといかん」

「アスリートは限界に近いトレーニングをすることで勝利を手にする可能性が増大する。そのストレスは活性酸素を過剰に発生させるのでリカバリーの意味から健康運動を日常化するべきだ」

「一般の人たちもまた健康長寿を願うなら、心身のメンテナンスとして健康運動を毎日行うことが大切だ」

「軽運動には心身の痛みや不調を治療する効果があるのだ。また将来起こるかもしれない病気や怪我を、軽い筋肉トレーニングで予防することもできるのだ」

私は言った。「運動にはすごい機能があるんですね」

私は少し考えてから言葉を続けた。「では最後に教えてください。健康を保つために食事はどのようにすればいいでしょうか?」

原人さんには迷いがない。あたかも質問の回答をあらかじめ用意しているかのように応える。

「鈴之助の好きなものを飲んで好きなものを食べればいいさ」「ただ、できるだけ控えめな量にすること」

私は驚いて言った。「えっそれでいいんですか?」

「いいさ、それだって無性に食べたいときには腹いっぱい食べればいい」と彼。

もっと栄養学的な話が聞けると期待したのだったが、予想に反しシンプルすぎる返事が返ってきたのだ。「ふーむ」私は思わずうなった。

すると原人さんが話し始めた。「不服かね?納得できる理屈がほしいのだろう?」

「多くの人は信じるために説明を必要とする。だが、どんなに偉い学者先生の理論でも、正しいかどうかは判らんのだよ。」

「真実は科学の進歩とともに変化する。絶対真理はあるだろうが、誰にも説明ができない」

原人さんは「これはワシの個人的な解釈で、部分的に間違いがあるかもしれんが」と断ったうえで続けた。

「地球が球体であると言う考えは紀元前500年位前からあったが、実際に定説となって認識されたのは600年前くらいだろう」

「500年前にコペルニクスが地動説を唱える以前、多くの人は地球が世界の中心で太陽を含むすべての星がその周りをまわっていると考えた」

「300年前にニュートンが万有引力の法則を発表し、太陽の周りを惑星が公転するのも重力によるものと認識されるようになった」

「100年前、アインシュタインは相対性理論の中でニュートン理論を一部否定し、惑星の公転は重力が空間をゆがめ、そのへこみの中で互いの引力と相まって起こっているとした。」

「現在も多くの物理学者や天文学者が宇宙の真理を探究し続けている」

「最近では多次元宇宙説と言って多くの次元が存在し、我々の宇宙以外にも無数の宇宙が在る。さらに次々と新しい宇宙が生まれ続けているという説がある」

「高性能な宇宙望遠鏡や光の波動を感知するセンサー、究極の解析能力を持つコンピュータなどを利用して観測した結果、多次元を証明するようなデータがいくつも得られたという」

「この先どのような真実が発見されるか解らない」

「そう遠くない昔、どこまでも進んでいけば世界の端っこが在って、それ以上進むと落っこちてしまうと考えていた人たちがいたわけだ。宇宙の真理からすれば、我々の認識する世界だってその人たちと大差ないレベルなのかも知れない」

「それでも、その理屈が必要かね?」

私は躊躇しながら答えた。「ええ、今の時点では必要な感じです。アハハ」

原人さんは笑って言う。「はっはっは、正直だな」

「では言おう」

「栄養のバランスが取れた食事は健康にとって大切だ。」

「配慮は必要だが、こだわりすぎると食事自体が楽しくない」

「それよりは、自分の好きなものは良いものだと信じて食事するほうが健康的だ」

「また我々が本当に適切な食材を手に入れることができるだろうか?」

「いくら栄養素やカロリーに気を配って食材を買っても、その品質を把握することは困難だ。産地によっては農薬や遺伝子組み換えなどのリスクがある。製造過程で添加物が使用されていても、その詳細を調べるのは難しい。店頭で商品ラベルに記載されている内容が真実かどうか判らんのだよ」

「必要な栄養素と同時に安全性を考えたとき、また現代社会における環境汚染と営利偏重の経済システムを考慮すれば、我々は知らないうちに発がん性物質のような危険毒物を毎日口にしていて、それを免れることは不可能だろう」

「わしは、自分を信じるよ。はっはっは、そして栄養バランスと安全性をちょっと気にして、好きなものを飲み食いし、補充の必要な成分は優良と思われる製造会社からサプリメントを購入して、それをもって補完とする」

「薬だってプラシーボ効果と言って偽薬の治療効果が認められているんだし、ワシはサプリメントを信じて飲む。」

「勿論それだって原料の安全性を100%確保することは難しいだろうが、よくリサーチしたうえで選択し、信じて飲む」

「ポリフェノールの一種であるレスベラトロールの摂取で長寿遺伝子サーチュインが活性化することも期待しているよ。はっはっは」

「テロメラーゼ分泌を促進するTA45という植物の根から抽出する成分があるそうだが、こいつにはまだ手を出していない。さらなる研究を期待しているところだ」

私はテロメラーゼに聞き覚えがあったので言った。「それは、老化の原因であるテロメア短縮を防ぐ酵素のことでしたね?」

「That’s right.」彼はまた、いきなり英語を使う。



第六章 生命


 私の勤務する学校の一学期末テストが終わり、その採点と成績処理が忙しく、私は原人塾を一週スキップせざるを得なかった。

 テロメアの話が気になって仕方がなかったが我慢して、自分のクラスの生徒たちの成績表を仕上げた。コメント欄に、生徒の笑顔を想像しながら、やる気の出るような文章を考え考え書く作業は楽しい。そんな時も原人さんならどう表現するかと、つい考えてしまった。

とにかく完成した成績表を教室で、肯定的な言葉をかけながら一人ひとり手渡した。

翌日からは特にやるべき仕事はなかったが勤務があるので学校へ出かけ、職員室で報告書を書いたり来学期の教材を作ったりして時間を費やした。

待ちに待った土曜日がやってきた。

私は朝のジョギングの時に、少しのあいだ原人さんに並走して言った。

「今日の午後1時ころにお邪魔していいでしょうか?」

原人さんは、つられてしまうくらいの笑顔で応えた。「Sure, any time welcome you.」

突然の英語に少し慣れてきた。「ありがとうございます。ではお先に失礼します」そう言い残して私は自宅に戻った。

スポーツウエアと学校用のカッターシャツ、そして下着とベッドシーツを洗濯した。実は原人さんの真似をしてスポーツウエアを3着買ったのだ。上本町にある近鉄百貨店まで出かけ、デパート内のテニスショップで購入したのだ。高校時代の体操ジャージは切り分けて雑巾代わりに使うことにした。

洗濯機が動いている間、室内を掃除し、雑巾がけをした。

洗濯物を室内に設置した物干しロッドに掛け、私はアパートメントを出た。

12時45分くらいに原人さんの家に着いた。玄関のブザーを押す。

「どうぞ、今4階に居るよ」と声がしてロックが解除された。

トレーニング室に上がると、40歳半ばくらいの女性3人がストレッチをしていた。

そんなに広くないトレーニング室は同時に寝転んでストレッチするなら3名が限界だ。

「こんにちは原人さん、こんにちは皆さん」私は笑顔で挨拶した。

「あら、若い方、珍しいわね。こんにちは」一人の女性が言った。

「アハハ、若さでは原人さんにかないません」私は頭を掻きながら言った。

「本当にね、センセイの若さは尋常じゃないからね、もしかしたら妖怪かも。ほっほっほ」

もう一人の女性が「あなた妖怪は失礼よ、仙人でしょう。ねえセンセイ」

原人さんは笑いながら「わしは普通の老人だよ。この世界で命ある限りは生き生きとしていたいと願う一人の高齢者さ」

「鈴之助、2階でコーヒーを飲もう」「皆さん失礼しますよ、あとは自分たちでトレーニングしなさい」

女性たちは全員が少し暗い顔になったが、すぐに笑顔で言った。「はいっセンセイ!ごゆっくりなさってください。鈴之助さんごきげんよう」

私は少し頭を下げて黙礼し、原人さんとともに2階へ降りた。

降りる途中にある3階の部屋の中は見たことが無い。ゲストルームで、遠方から原人さんの健康法を教わりに来る人のために宿泊室にしてあるのだそうだ。

ネスカフェのマシンは1階と2階にある。1階は事務所のようになっていて、飾り気がなくシンプルだが機能的に見える収納棚に、ファックス電話とコンピュータ、4人くらいが腰かけられる応接セットが置いてある。

2階の部屋に入った私は、いつものように500円硬貨を一枚花瓶に入れ、先ず原人さんにコーヒーを給仕した。

「ありがとう鈴之助」原人さんが言う。

「It’s my pleasure. Gento san.」私はやり返すつもりで言って笑った。

原人さんは右手の親指を上に立ててウインクをした。それから私に言った。「何か聞きたいことがあったのだろう?鈴之助」

私は気になっていたことを話した。「そうなんです。2週間前におっしゃってたテロメアとサーチュイン遺伝子のことが気になって。もうふたつも三つも、よく解らなかったんです」「どちらも長生きと関係があるんですね?」

原人さんは説明を始めた。

「長生きだけではない。健康で自立し溌剌と長生きすることに関係があるのだ」

「まずは長寿遺伝子サーチュインだ」

「これは、氷河期に食べるものが無くなり飢餓状態になった時代に生物が生き残るため獲得したと言われている」

「普段は眠っていて働かないが、空腹が一定期間続くとスイッチオンするらしい」

「これがスイッチオンすると、ストレスなどで傷ついた細胞の修復力が増し老化のスピードを遅らせ寿命を延ばす働きをするのだ」

「この説を信じてワシは、夕食を早くとり、水を一杯飲んで早く就寝する。お朝起きたら水を一杯飲んでジョギングに出かける。空腹な時間帯を長くとろうという考えだ。2時間ほど走ったり歩いたりしてシャワーを浴び朝食をとる。朝食はいつもホットコーヒーだ。そこへ発酵バターをひとかけら入れて飲む。たまにバナナを食べることもある。それと野菜、キノコ、海草などのサプリメントだ」「サーチュインを活性化する作用があると言われているレスベラトロールのサプリメントも飲んでいる。アメリカの製造会社で作られた天然原料、オーガニック、添加物無しで遺伝子組み換え原料も無しの物を選ぶ」「日本の製品は有効成分が小量すぎるので使わない」

「科学的な根拠はないよ。ただ自分の直感で感じたことを信じて実行するだけだ。間違いに気が付けばすぐに改めて別な方法に変える。はっはっは」

私はこの話には見事に納得した。「原人さん、私も明日から朝食をバナナとコーヒーにします。サプリメントの具体的な名称を教えていただけますか?」

原人さんが「いいよ。しかし自分できちんと情報を確認してからのほうがいいよ。だからそういった製品を製造販売している会社のウェブサイトのURLを二つEメールで送るよ。鈴之助のメールアドレスを教えてくれ」

私は口頭でそれを伝えた。

「suzunosuke123@gmail.comです」

「わかった。今日中に送るとしよう」と原人さん、そして彼は続ける。

「しかし、生命とは何だろうね」

「生物とは水素、酸素、窒素と、特に炭素原子を構成要素としていることが特徴であるようだ」

「また細胞分裂をすることも生物の特徴であるとされる」

「果たして本当にそれだけが命を持つ生き物の条件だろうか?」

「その理屈が正しいなら、ウイルスは生き物ではない。かたい殻におおわれた遺伝子情報だけだからだ。だからウイルスは自ら細胞分裂できないので生物の細胞に取り付いて分裂することにより増殖するのだ」

「生き物でないから抗生物質アンチバイオティクスが効かないというわけだ」

「いっぽう細菌バクテリアは細胞分裂をする生き物なので抗生物質が有効なのだ」

「本当に生命とは何だろうね」

「ワシは、すべてのものが生命というか魂を持つと思う」

「人間もほかのすべての物質も構成要素が異なるだけで原子の組み合わせによる化合物であることに変わりがない」

「地球だって地殻が動いていることを考えると生きていると言える」

私は、原人さんの話の内容について知らない事ばかりであるにもかかわらず妙に感心し納得してしまった。

 彼はさらに続ける。

「話を元に戻そう。サーチュイン遺伝子は老化を遅らせるだけだが、テロメラーゼの働きはもっとすごいよ」

「染色体末端組織のテロメアは、細胞分裂の回数をカウントしているようなのだ。ヒトの細胞は50から70回くらい分裂すると、もう分裂をしなくなる」「細胞分裂がストップするということは、その個体が死ぬということだ」

「またテロメアが短くなると機能も低下し、不完全な免疫細胞をそのまま血液に送り込んだりすることになる。この不完全な免疫細胞は侵入してくる有害物質を判別する機能に欠陥があり、自らの体の器官や細胞を攻撃する場合がある。こうしてアレジ―、アレルギーだな、それが起こるのだ」

「テロメラーゼは、テロメアの短縮を抑制する。つまりこれが体内で多く活発に機能すれば、いつまでも若々しい細胞を作り続けることができる。老化せず不死だということだな」

「テロメラーゼが活発に機能する生物が自然界で実際に存在する。ある種の単細胞生物や、魚、甲殻類の種の中には不老なものがいるのだ」

私は驚いて言った。「ええっ本当ですか?信じられないなあ」

「私が信じるものを、君も信じる必要はない」原人さんのお決まりのセリフだ。

「そうでしたね」「いや、思わず口から出てしまったのです」

「聞かせてください。もっと」

原人さんが再び口を開く。

「どこの国だったか忘れたが、海外のある博士がヒトの細胞を使った実験で、テロメラーゼを与え続けたところテロメアの短縮が止まるばかりか、いったん短くなったテロメアが再び延びたそうだ。要するに若返りだな」

「しかしそれが個体としてヒトに作用するかどうかはわからない。彼は現在それを自分の体で人体実験しているそうだ」

「テロメラーゼの働きは、永久に細胞分裂する可能性があるが、同時にガン細胞を爆発的に増殖する作用も持つらしい。諸刃の剣だな」

「だがワシは、そう遠くない将来にヒトの不老不死は実現すると考えている」

原人さんの話にはいつも吸い込まれていくような感覚がある。

彼はいつも椅子の背もたれにゆったりと背中を持たせかけ、ゆっくりと言葉を選んで話す。こちらの眼をじっと見つめて話す。スローなテンポとはっきりした発音で話す。

話すこと以外に、教えようとか自慢しようとか、そういう他の目的というか、全く他意が感じられない。

私が少しボーっとしていると、原人さんがいつもよりさらにゆっくりとした口調で話し出した。

「ワシはね鈴之助、できるだけいつまでも若々しく居りたいが、不死には意味がないと思う」

「釈迦が云うには、我々の世界は実在しない。実際には無いもののことで悩んだり苦しんだりするのは馬鹿らしいことだ」

「世界が実在せず幻のようなものだとすれば、ワシたち自身の存在は何だろう」

「家族や愛おしいと思う者たちへの溢れる想いは虚しいものなのか?」

「ワシはこう考えている。愛は眼に見えないがエナジーとして存在している。我々自身も意識エナジーとして存在しておる」

「脳内の電気的な現象と天体の運行、星が生まれ銀河が生まれる現象が類似していることを現代の科学は映像として示す段階にまで達している」

「世界中の物理学者、天文学者が観測実験結果を示すに連れて、自分の意識エナジーは宇宙的規模であり、いや自分は宇宙そのものなのだと直感する」

「物質世界はちっぽけな氷山の一角で、ふだん認識している物体としての自分は本当の自分ではない」

「最新科学の学説では、宇宙の時空は70%のダークエナジー、25%のダークマターという眼にも見えず触ることもできない未知のもので満たされていて、我々の認識できる物質は5%にすぎないと言う」

「すなわち我々の体もまた未知のエナジーとマター、そしてわずか5%の感知可能な物質から成り立っている」

「釈迦は、それを科学知識としてではなく直感したのだと思う。このEnlightenment 悟りは、500年後イエスによって継がれ、さらに500年後ムハンマドに、その300年後に弘法大師遍照金剛すなわち空海へ、時を越えて曹洞宗の道元禅師も体感したのではないだろうか」

「彼らは物質世界に在って生きながら悟りを得た。凡人であるワシにとって、物質としての死が悟りを得ることだと思う」

「死んだあとには天国も地獄もない。それらは、信仰を宗教組織として存続させるために便宜上作られたものだ」

「すべての人に、悟りの境地は死んだ瞬間に訪れる。死ねばすべての真理が明らかになるのだ」

「微小なる物質の世界で幻想のようなものではあるけれど、この世で自分を意識して生命を感じ、思い思いの価値観と感性で、いかなる現象にも苦悩せず、限られた夢の世界を愉しんだら良いと考えている」

「死が悟りの時なら、不死は意味が無いということになる。生きて悟り、さらに不老不死を得るという手もあるがね。はっはっはっはっは」



第七章 学校


学校の夏季休暇が八月の末まで続くので、私の勤務する高校はいま、部活の練習をする生徒以外の生徒は校内に居ない。

ほとんどの教師は職員室あるいは、それぞれの教科の研究室で調べ物や報告書を作成している。夕方五時十五分になると、皆そそくさとタイムカードを入れて帰っていく。

ごく一部の教師だけが部活動の指導監督をしている。彼らは暗くなっても熱心に活動を見届ける。休日であっても試合などで引率することがしょっちゅうある。

私もまた剣道部の顧問として名を連ねてはいるが、すべて保健体育担当教員で女流剣士でもある千葉周子さんに任せっきりである。

彼女は身長が160センチメートルくらいでさほど大きくはないし特に筋肉隆々というわけではないが、姿勢が良くいつも背筋がピンと伸びている。

大学を卒業して最初の赴任校が私たちの高校であり、着任から三年目の24歳だ。

一重瞼で愛嬌のある丸い目は愛らしいが、奥に凛としたものを感じさせる。

肩の高さまである髪をいつも後ろに束ねて一つに結んである。面長で実に肌のきれいな女性だ。

彼女は非常に面倒見がよく部員たちだけでなく多くの一般生徒から良き相談役として信頼されている。

生徒から親しみを込めて「周ちゃん」と呼ばれている。それが自然と教師の間にも広がり、今では校内の誰もが周ちゃんと呼ぶ。

その周ちゃんが、ある日何やら深刻な顔をして私のいる国語科研究室にやってきた。

「無刀先生、相談にのっていただきたいことがあります。少し時間をいただけませんでしょうか?」

私はゆっくりとした口調で言った。「では応接室へ行きましょう」

私たちは応接室で向かい合って腰を掛けた。

「どうしたんですか周ちゃん」

「はい、実はある剣道部の女生徒の家庭事情が複雑で、自分一人では判断できなくなったので先生にお話を聞いていただきたいんです」

「どうぞ話してください」と私。

周ちゃんはその生徒のことを本当に心配しているようで、時々ため息をつきながら事情を詳しく話し始めた。

「はい、2年2組の剣持縁のお母さんが覚せい剤取締法違反で逮捕され、それが3回目だったそうで和歌山の刑務所に入ってしまったんです」

「お父さんは四人目のお父さんで一カ月前から一緒に暮らし始めた、まだ他人同然の人だそうです」

「だからいま縁はその男性と二人きりで狭いアパートメントで生活しているようなんです」

「その男性はガソリンスタンドの店長さんで、まじめで腰の低い気さくな人です。私の見た感じでは薬物とは無関係な気がします」

「だけど高校生とはいっても、身体的には成熟した女性ですし本人も私も、間違いがないかと心配している処です」

「ここ一週間ほど、彼女を彼女の親戚に引き取ってもらうよう訪ねて回っているんですが、どこも良い返事をくれません」

「それで、私は実家で両親と姉と四人で暮らしているんですが、私の家に引き取ろうと思ってるんです。両親にはもう話してあり、思うようにすればいいよと言ってくれているんですが、他に良い方法がないか無刀先生のお知恵を借りたくて、お話しさせていただきました」

私はすぐには返答ができなかった。

「剣持は部活に参加しているんですか?」私は尋ねた。

「ええ、毎日休まず練習しています」と周ちゃん。

「彼女の様子に変わったところはありませんか?」と私。

「はい、それが私に母親のことを相談してきて、その時は涙を流していたんですが、それ以来なんだか逆に元気になったようにさえ見えるんです」

私には良いアイデアが浮かばなかったが、周ちゃんの家に引き取るというのは何か不自然で無理があるように感じた。

周ちゃんは黙ってじっと私の顔を見ている。

私は原人さんならどう云うだろうとふと考えた。それで静かに言った。

「僕の知り合いで、僕が師匠として尊敬している人がいるんです。その人に一度相談してみませんか」

「無刀先生が尊敬している方なら是非お願いします。ただ縁の名前などは伏せておいていただけますか?」周ちゃんが身を乗り出すようにして言った。

私は即座に応えた。「そうしましょう。明日の土曜日の午後に時間を取れますか?」

「はい、練習は午前なので大丈夫です。」「どうかよろしくお願いします、無刀先生!」周ちゃんは丸い眼を一層真ん丸にして言った。

翌朝のジョギングの時に、原人さんに友人を連れて家にお邪魔していいかと尋ねたところ、彼は少し驚いたような顔をしたが快く承諾してくれた。

NHKホールの前で12時半に周ちゃんと待ち合わせをした。

私が5分前に着くと、周ちゃんはすでに来て私を待っていた。

「やあ、待たせたみたいだね、周ちゃん」

「いえ、いま来たところです」

私は黙って歩き出した。周ちゃんは少し後ろに下がってついてくる。

「あのう、先生、わたし手土産に村雨を買ってきたので、先生からお師匠様にお渡ししてください」

私は思わず吹き出した。

「えっ何か可笑しかったですか?」周ちゃんはびっくりしたように言った。

私は笑いをこらえながら言った。

「いや何でもないよ。周ちゃんが渡せばいい。僕だと叱られるから」

私たちは早く着きすぎたので、原人さんの家の前でしばらく立ち話をして待つことにした。すると1分もしないうちにガチャリとドアロックを解除する音が鳴り、インターホン越しに原人さんの声がした。「いいよ、上がってきなさい、二階に居るから」

ドアをノックし、原人さんの声を聞いてから私たちは二階の原人ルームに入った。

私は二人にそれぞれを紹介した。

「こちらは千葉周子さんです。私の同僚です」「あちらは縄文原人さん、私にいろんな興味深い話を聞かせてくれる方です」

すぐに周ちゃんが続けて言った。

「千葉周子です。初めまして、よろしくお願いします。」

「村雨を持ってまいりました。どうぞ召し上がってください」

原人さんは大声で笑っていった。

「わっはっは、ありがとう。いま開けて一緒に食べよう。だが、次回からはこのような気遣いはなさらんように。わっはっは」

「鈴之助の大好物だったよな、むらさめは。はっはっは」

「ええっそうなんですか?鈴之助さん、じゃなかった無刀先生」と周ちゃん。

「鈴之助でいいよ、周ちゃん。実はそうなんだ」

「私の家は家族全員がむらさめ大好きで、何か特別な時には必ず買うんです。良かったです無刀先生の...じゃなかった鈴之助さんにとっても好物だったなんて」

「わっはっはっは、今日は良い日だ。ワシも周ちゃんに会えてうれしいよ」

「二人とも座りなさい。鈴之助、今日はコーヒーじゃなく抹茶にしよう」そう言って原人さんはテーブルの横に予備の椅子を一つ持ってきてそれに腰かけた。

原人さんの部屋にはアンバサダーのコーヒーマシンだけじゃなく、やっぱりアンバサダーのお茶のマシンが並べて置いてある。

私は慣れた手つきで二人に抹茶を給仕した。

「ありがとうございます鈴之助さん、えへへ」周ちゃんは照れながら言った。

そして続けて「お師匠様、村雨を開けさせていただきます」そう言って自分の家のようにキッチンカウンターへ足を運んだ。

「わっはっは、ワシはゲントでいいよ。周ちゃん」

「はい、解りました原人さん。こちらにある緑の花びら模様のきれいな小皿を使わせていただいてよろしいでしょうか?」

「うん、それがいい」と原人さん。

周ちゃんがむらさめを用意している間に、私は原人さんに周ちゃんの剣道部の女生徒が置かれた複雑な状況を話した。

それから周ちゃんが自分の家に引き取ろうかと考えていることを話した。

原人さんは黙って聞いていた。

周ちゃんは、白地に小さな緑色の葉っぱと花びら、そして黄色と赤の花びらが少し付いた小皿の上に、村雨を切って斜めに二つずつ並べて私たちの前に置いた。

周ちゃんが席に着くと原人さんは質問をし始めた。

女の子の様子の変化、新しいお父さんの人と為り、親戚の対応の仕方、などを熱心に訊いた。そしてこう云った。「周ちゃんの家に引き取るのはやめた方がいい」

周ちゃんは黙って原人さんの顔を見ている。

私が横から言った。「では原人さん、状況を改善する良い方法がありますか?」

原人さんが言う。「無い。」「今のところはな」

「しかし、近いうちに答えが向こうからやってくるだろう」

「どういう意味でしょうか?」と私。

「にさんにち、長くても一週間、何もせず待ちなさい」と原人さん。

周ちゃんは少し考えてから、きっぱりとした感じで言った。

「分かりました。そうします。ありがとうございました」

原人さんの家を出て、周ちゃんは学校へ私は自宅に戻った。

その日の夕方、周ちゃんが私の携帯に電話をかけてきた。

「無刀先生、縁の一件が解決しました」

私は驚いて「どういうことですか?」

周ちゃんは「詳細をお話ししたいので、このあと会っていただけますか?」

「いいでしょう。一緒に食事しながら話しましょう」私は、駅近くの『邂逅』というこじんまりした小料理屋を指定した。

そこは40歳くらいの美人で上品なおかみさんが一人でやっている。

落ち着いた雰囲気で、六人くらいが座れるカウンター席と店内の隅に小さな半個室が一つある店だ。

私は週に一度か二度は『邂逅』へ行って、カウンター席で夕食を食べる。

おかみさんが物静かで、適度に放っておいてくれるので居心地がいいのだ。

六時半に会う約束をしたが、待たせないほうが良いと思い、私はすぐに着替えて家を出た。

六時に店に着いた。周ちゃんはもう店に居た。カウンターの一番左端の席に背筋を伸ばして座っている。

私は、彼女の後姿に一瞬見とれた。

土曜日の夕方ということもあり、店には大勢の客がいた。

「今晩は、おかみさん。こんばんは皆さん。周ちゃん、待たせたね」

「おかみさん、今日は少し込み入った話があるので、個室を使わせてもらえるでしょうか?」

「今日はもう別のお客さんが使っていらっしゃるんですよ」

「よかったら、奥が私の家ですから座敷を使ってください」

私はあわてて「それは申し訳ないです。よそへ行きます」

するとおかみさんが「そうおっしゃらずに使ってください。その方が私も嬉しいですから」

「では、お言葉に甘えさせていただきます」

「周ちゃん、上がらせていただこう」

私たちは店の奥の暖簾をくぐって中に入った。

すぐに框があり、それを上がると四畳半の座敷になっていて、真ん中に卓袱台が置いてある。

すぐにおかみさんがやって来て座布団を敷いた。「どうかゆっくりなさってください。お料理は適当に見繕って持ってまいります」「お飲み物はどうなさいますか?」

「周ちゃん少し飲もうよ」

「はい、いただきます」

「ではおかみさん、ビールを一本とグラスを二つ持ってきてください。少したってから冷酒をグラスで二杯ください」

「かしこまりました。しばらくお待ちください」

おかみさんの姿が店のほうに消え、私たちはお互いの顔を見合わせた。

周ちゃんが話し始めた。

「今日、原人さんのお家から学校に戻ると、縁の新しいお父さんがいらしてたんです」

「私、応接室にお通しして、お話を伺いました」

「お父さんは、いつも娘がお世話になって有難うございますと」

「そして、私が縁を連れて親せきを訪ねてまわったことをご存知でした」

「それについても有難うとおっしゃいました」

「先生のご心配はよく理解できますともおっしゃいました」

「そのうえで、こうおっしゃるのです」

「ゆかりの母親はあんなことになってしまいました」

「私は彼女の更生を信じて待つつもりです」

「ゆかりのことも、まだ短い付き合いですが娘として大事に考えていますし責任もあります。皆さんのご心配は分かりますが、どうか私を信用して、彼女の面倒を私にお任せください。信頼を裏切るようなことは決して起こりませんから」

「私、驚いたのと同時に、自分が恥ずかしくなってしまって、差し出がましいことをして申し訳ありませんでしたと謝りました」

「そして、どうかよろしくお願いしますとお伝えして話を終えました」

「応接を出ると縁がドアの外に立っていまして、いきなり私の胸にしがみついて泣き始めました」

「すべて聞いていたらしく、うれしい涙であることが判りました」

「私が、良かったね、お父さんと一緒にお母さんの帰りを待ってあげなさいね。と言うと、彼女はしゃくりあげながらうんうんと頷いてました」

周ちゃんは言わないが、きっともらい泣きしてたんだと思う。話しながらも瞳が潤み、今にも泣きだしそうな表情だ。

「原人さんの言ってたのは、こういう事だったんだな」と私。

周ちゃんがすかさず「そうなんです!つい今しがた大丈夫とおっしゃって、それがいきなり現実の結果として現れたので驚いたなんてものじゃありません!」

「どういうことなのか今でも戸惑っています」

「本当に、あの方はどういう方なんでしょう!」

実は私も事の展開に少なからず驚いたのだが、周ちゃんの気を鎮めるように言った。

「九十年近くも生きておられるからね、我々とは別格の知識と経験と感性を持ってるのだろうさ」「云ってみれば仙人だね。わっはっは」

ところが周ちゃんは余計に動揺して「いま九十年とおっしゃいました?」

「ああ、正確には八十六歳だけどね」と私。

周ちゃんはどうしても信じられないといった顔で言う。「それは何かの間違いじゃありませんよね?それでは仙人というより魔法使いのような気がします。だって縁の一件もあるし」

「ほんとだね、はっはっは。でも今日はいい日になったんだから乾杯しよう」私が言うや否や、おかみさんが小さな鯛の塩焼きと冷酒を持って現れた。

この人も魔法使いかもしれないと、私はひそかに思った。


翌日、日曜日の午後、周ちゃんと私はそろって原人さんを訪ねた。

 原人さんはトレーニング室で三人のご婦人たちの指導をしていた。

 「こんにちは、練習中にお邪魔をしてすみません、原人さん皆さん」私は恐縮して言った。

彼はいつもの溢れんばかりの笑顔で言った。「構わんさ鈴之助、もう終わりだから、2階でコーヒーを用意しておいてもらえるかい」

 すると、ご婦人の一人が「私たちもご一緒していいかしら?」

 私は「まずいよな」というような表情で周ちゃんの顔を覗き込んだ。

 しかしすぐに周ちゃんがご婦人の方を向いて言った。

 「どうぞ、私たちはお礼を言いに来ただけで、すぐにお暇しますので」

 私はすかさず付け加えた。「そうなんです。では2階で準備してお待ちします」

 二階の部屋に入り、私は花瓶の中に全員の分として二千円を入れた。

 コーヒーをテーブルに六つ並べ終わったときに、原人さんとご婦人たちが降りてきた。

 彼女たちが、それぞれ一人ずつ五百円硬貨を花瓶に入れようとしたので私は言った。

 「もう、皆さんの分も入れておきました」

 「あら、それではこれはあなたが受け取ってくださいね」彼女たちが私に硬貨を渡そうとする。

 「いえ、今日は私が」と私。

 「それは駄目です。みんな平等にと決めてあるので」と一人のご婦人が言う。

 「そうですか、では」私は硬貨を三枚受け取って、そのうちの一枚をまた花瓶に入れた」

 すると周ちゃんが「では私もこれを鈴之助さんに」と五百円硬貨を一枚差し出した。

 「ありがとう。」私は頭を掻きながら受け取った。

 彼女たちはコーヒーを手に持つと、ごく自然に部屋の隅に置いてあるベッドの端に三人横に並んで腰を掛けた。

 それによって私たちは、テーブルの前の椅子に座ることができた。

 周ちゃんが言った。「原人さん、昨日は本当にありがとうございました。アドバイスいただいたすぐ後に、学校に戻りますと例の娘のお父さんがいらしていまして、信用して任せてくれと誠実におっしゃいましたので、それを信じてお任せすることにしました」

 原人さんは引き締まった顔で「うむ、それでいい」

 つづけて「鈴之助、きのう周ちゃんからいただいた村雨を皆さんに」

 「私が給仕します」周ちゃんがすぐに立ってキッチンへ向かった。

 周ちゃんが村雨の小皿を婦人たちに配ると、彼女たちはコーヒーカップを床の上において村雨を受け取り、小さなフォークを使ってそれを食べ始めた。

 「まあ、これおいしいわね。初めて食べたわ」三人とも初めての経験だったようだ。

 私は笑顔で「でしょう?私たちも大好きなんです」と周ちゃんを促すように見た。

 「はい、家族全員の好物です」と周ちゃん。

 一人の婦人が突然言った。「好きなものが同じだってことはカップルにとっては大切よね。とてもお似合いだわ、あなた方は」

 周ちゃんは顔から耳まで真っ赤にしてうつむいてしまった。

 私はあわてて言った。「いえ、私たちは勤務する学校の同僚でして、そのような関係ではありません」

 「そうですか、それは失礼しました。私はてっきり恋人同士だとばかり思っていましたよ」ほかの婦人たちもそうだそうだと言わんばかりにうなずいている。

 周ちゃんはますます首まで真っ赤に染めて下を向いたまま顔を上げることができないでいる。

 私はゆっくりと説明をした。「彼女は私たちの学校で保健体育を教えています。剣道部の指導も熱心にやってくれています」

「私は名ばかりではありますが、剣道部の顧問に名を連ねていまして、そのおかげでこうやってこの千葉周子さんと仲良くさせてもらっているんです」

 一人の婦人が「まあ剣道ですか?それは勇ましい。段とかをお持ちなんですか?」

 周ちゃんがうつむいたままなので、私が代わりに「彼女は三段だと聞いています。」

「あれえ、私の知っている人では二段までしか聞いたことが無いです。すごいですわね。女流剣士ですね」「鈴之助さんとおっしゃいましたね?あなたも何段かをお持ちなんですか?」

私は頭を掻きながら「実は私も三段です」

周ちゃんがいきなり顔を上げて言った。「鈴之助さん、何で黙ってらしたんですか?三段お持ちでしたら、どうして稽古に来てくださらないんですか」

先ほどまでの赤く染まった頬の色は消え、強いまなざしで私を見ている。

「高校1年生から3年生まで部活動をやったんだけど、その後は竹刀に触れたこともないので稽古は無理だと思ったんだ」私は弁解した。

周ちゃんは怒ったように頬を膨らませて「3年間で三段ですか、私なんか中学生から始めて大学3年生でやっと取ったんですよ」

ご婦人の一人が助け舟を出してくれる。

「いいじゃないですか、お二人とも同じだと分かったんですから。そういえばゲント先生も剣道の心得があると聞きましたけど?何段でいらっしゃるのですか?」

「ワシは若いころにいくつか武道の修練を積んだ。剣道は腕試しに六段まで取ったが、それきりやっていないので今はろくじゃなくてだん(無段)だな。他にもやったが、そういう意味合いからすると柔道は四段しらん、拳法は八段(やらん)、相撲は十段(とらん)だな、わっはっはっはっは」

原人さんの話と大きな笑い声に、やっと周ちゃんが笑った。

もう一人の婦人が「ゲント先生はいつもそうやって、ご自分を謎めかすんですから」

「ところで、今のご時世では学校の先生の仕事も大変でしょうね?」

周ちゃんも私も、これには応えられずお互いに顔を見合わせていると、いきなり原人さんが言った。「学校というところは無駄が多い」「まず、紙ベースの教科書は必要ないから廃止すべきだ」

原人さん曰く、教科書は選定委員たちが時間とお金をかけて毎年同じようなものを作成する。参考資料が数年前のものなので、その内容は甚だ時代遅れなものとなっている。なぜなら、研究者は次々と新しい発見をし、学問は凄まじい勢いで進歩し、情報は刻々と変化しているからだ。教科書は完全デジタル化し、いつでも瞬時に新しい情報にアップデートできるようにしておくべきだそうだ。

すると夫人が思いついたように言った。「学校の制服の値段が高すぎるような気がします。同じようなものがショッピングモールなどでは半額以下で売っているのに、学校指定の業者の独占販売になってるから仕方なく買いますけど」

「それは私もそう思います」周ちゃんが一点の曇りも無いような眼で言った。

「生徒の中には経済状況が苦しい家庭の子たちも少なからずいます。部活動を続けさせてあげるためにも、学校の必要品に掛かる費用の負担ができるだけ小さくなればいいと、いつも感じてました」周ちゃんの眼が心なしか潤んでいるように見える。

原人さんがまた、ゆっくりと話し始める。

「周ちゃんのように休日も返上して課外活動の指導をする先生と、そういうことに関心のない先生が同じ給与条件で働いていることにも矛盾がある」

私は思わず頭を掻いた。額から汗が出た。

すると原人さんが私を見て言った。

「鈴之助が恥じることはない。関心の無いことに熱心にはなれないものだ」

「熱心に生徒とかかわって長時間仕事をする先生のリスクが大きすぎると言っているのだ」

「活動中の不慮の事故に対する管理責任を問われる可能性がある。何もしなければその危険性もない環境でいられる。生徒とかかわりが深ければ何かと出費もあるだろう。仕事をすればするほど経費がかさみ、どこからも補てんがなされないというのは矛盾だと言いたい」

「何かいい方法がありませんかねえ」言い出しっぺの婦人が言った。

原人さんはニコリと笑って続けた。「学校の教育活動から部活動を外すことだ」

「ええっ!?」全員が驚いて叫んだ。

原人さんは事も無げに話を続けた。

「先ず、学校のすべての施設を所有者である自治体に返す。そのうえで学校事務所と行政で管理をし、教師の管理責任を解く」

「施設の使用規定、使用申し込みの受付から使用手順まで行政が管理する」

「そうする事によって施設は地域のものとなり、学校と地域住民の共有となる」

「平日は生徒の学習活動を中心に使用し、休日には地域の人たちが利用できる、幅広く有効活用できる場所となる」

「生徒数の減少によって学校が統廃合されたとしても、施設は有効に利用され続けることができる」

「部活動の盛んな学校ばかりではないから、遊んでいる施設は結構あるよ。グラウンドや体育館、道場、球技コート、スイミングプール。もちろん普通教室、実験室、音楽、美術、書道教室などもすべて含まれる」

「部活動は、各分野の専門家が指導し、健康面安全面の専門家も配置して社会教育分野として活動が行われ、生徒は自由意思で選択して参加できるものとする」

「もちろん学校の教員もその活動に指導者として、あるいはサポート役として参加することができ、その活動は勤務として認められる」

「自分の勤務する学校以外の施設でも自分の技能や知識を生かす活動に仕事の一環として関与できるということだ」

「教育という大切な分野を、学校教育に偏りすぎた状態から社会教育、地域社会、各家庭が協力して形づくる理にかなったものにするのだ」

「教育委員会は、地域住民の中から医者、弁護士、社会福祉士、教師や一般から自薦他薦で選ばれたボランティアで構成し、一切お金を扱わず計画立案から実行まで行う組織とする。教員の採用もこの委員会組織が行う。予算は委員会が提案し自治体に計上する。その精査から承認、執行や決算はすべて行政で行う」

「変革は困難だが、日本が教育先進国であることを世界に示すべき時期だ」

周ちゃんが立ち上がって言った。

「大層勉強になりました。原人さん、私も教育や学校のことをもっと大きな視点で考えていくことにします。では私は、稽古がありますのでこれで失礼します。ありがとうございました」

「私も失礼します。原人さん、また明日の朝お目にかかります」私も席を立った。

「私たちも、ずいぶん長居をしてしまって、ごめんなさいね。センセイ、またよろしくお願いします」婦人たちも一斉に立ち上がり帰っていった。

ここではだれも反論はしない。

ここはディベイトする所ではないのだ。

ここは原人さんの考えていることを聴きに来るところなのだ。

聴いたことを自分が何かを判断するときの材料にするために、みんなが集まる寺子屋のような場所になっている。

彼は決して「思う」と言わない。常に断言する。それでいて考えを押し付ける感じは全くなく、穏やかでゆっくりした口調で滔々と話す。そしていつも口癖のように言う言葉が「ワシの信じるものをあんたも信じる必要はない」だ。

また時にはこんなことも話す。

「自分の信じたいものを信じればいい。そして他人に自分の信じるものを信じるよう強要してはいけない」

「自分の信じるものだけが正しいとする思考が争いを生む。



第八章 政治と税金


私は高校で現代国語と古文を教えている。

一週間に18時限の授業を受け持っている。一日3~4時限の計算だ。

授業の空き時間はというと、授業の準備や下調べをしている。

最近では、放課後には剣道場に足を運ぶようにしている。

稽古に参加することはないが、周ちゃんや生徒たちが大きな声で溌剌と打ち合っているのを見ていると、そのうちやってみてもいい気になる。

ある水曜日の1時限目に現代国語の授業のため教室へ行くと何やら騒がしい。

生徒たちが大きな声で言い争っているようだ。

二人の男生徒が中心になって議論が白熱し、今にも喧嘩になりそうな勢いだ。

私が教室に入っても一向にやめる様子がない。

私はしばらく成り行きを見ることにした。

生徒たちは全員が、私のほうをちらちらと見ながらも二人の言動に関心を寄せているようだ。

ようやく議論の内容が分かってきたので、私は大きな声で全員に指示をした。

「静かに!みんないったん席に着きなさい!」

生徒たちはみな席について私の言葉を待った。

「おはよう」まず私は挨拶をした。

「おはようございます」生徒たちはそろって挨拶を返す。

私は事の起こりを尋ねた。

「どんなことで口論になったのか?」

クラス委員の女生徒が立ち上がって説明をし始めた。

彼女の話によると、はじめは数人の男子生徒が輪になっておしゃべりをしていた。

そのうちに話題が人類の幸福というテーマになった。

井上悟流という生徒が、共産主義は人間の平等に重きを置くから、そういう社会がいいと言った。大勢の生徒が、その考えに賛同するかのようにうなずいた。

すると天台望という生徒が、共産主義の社会では基本的に個人資産が認められない。それに対して資本主義国家では努力して働けば、それに見合うだけの個人資産を得ることができると反論した。

社会主義か資本主義か、自由か平等か、民主主義か王政や軍国主義、自由主義か全体主義か、議会制か独裁かなどと他の生徒も交えて意見が飛び交った。

そのころからクラスの大勢が、その議論に興味を持って聞いていた。

最初の二人が中心となって議論は白熱し、お互いに譲らず、相手の考えの矛盾点を指摘し始めた。どちらも自分の考えの正当性を論じることなく、相手の考えの中の欠陥を見つけ出して競り合うようになった。

そしてとうとう、お互い個人の過去の発言や行動を取り上げて人格批判をするようになった。そのため大声で口論することになったのだ。

私は少なからず驚いた。

生徒たちはファッションや芸能などに多くの関心を寄せ、政治や哲学などには興味がないと思っていたからだ。

私はクラスの全員を誉めた。

「みんなが人々の幸福や人生についてまじめに考えていることを知って、僕はうれしいよ。みんなのことをとても誇らしく思う」

「ただし激高して口論するのは良くない。考えの違う者に対して怒りや憎しみを感じるのは間違っているよ。信じることが異なるのは自然なことだ。異なる意見を出し合って、お互いの知識や思考を広げることができる。お互いを認めて、本当は何が正しいのかを探すために、これからもたくさん議論をしてもらいたい」

私は生徒たちの純真な心に触れたような気がした。

自分のノンポリシーな日々の生活を少し恥じた。

次の土曜日は、すべての人々が幸せに生きることができる世の中について原人さんに尋ねてみようと思った。するとなんだか嬉しくなって、気持ちが晴れた。

土曜日の朝、ジョギングの時に原人さんに午後訪問することを伝え、私は学校へ向かった。剣道部の練習を覗くためだ。

道場に入ると地稽古の真っ最中だ。地稽古とは、会心の一本を狙って実戦形式で打ち合う乱取り稽古のことだ。

周ちゃんは、3年生でキャプテンの柳生二段と剣を交えている。

柳生は180㎝を超える長身で周ちゃんより20㎝も背が高い。しかも昨年のインターハイ大阪予選では400名の参加者の中で決勝まで進んだ選手だ。決勝では強豪私立高のエースと対戦し3回目の延長で一本負けしたが、かなりの腕前だ。

二人とも打突の機会をうかがって、細かい足さばきをしている。

柳生が少し苛立ったように遠間から左で継ぎ足をして大きく正面に打ち込んだ。

周ちゃんは下がらない。

ツッと5cmほど前に踏み込んで切先を柳生の喉めがけて伸ばす。

柳生は思わず打ち込みを止め、振りかぶった竹刀を中段に戻そうとする。

その瞬間、周ちゃんが大きく振りかぶって前に飛び込んでいく。

柳生は慌てて、戻そうとした竹刀を再び持ち上げ、周ちゃんの面打突を受けようとするが、周ちゃんの竹刀は、大きく振りかぶった位置から撓るように弧を描いで柳生の右胴にさく裂した。見事に相手の動きを読み切った飛び込み胴だ。

それを待っていたかのように部員マネージャーが太鼓を打ち鳴らして稽古終了の合図をする。

部員たちはきれいに整列正座して面を外し、号令とともに黙想をして礼をした後、それぞれの稽古相手と剣道談義を始めた。剣道の稽古では、将棋の対局後にする感想戦のように稽古を振り返って反省会のように意見を述べ合うのだ。そうする事によって自身の進歩につながるからだ。

私は道場に向かって一礼をし、自宅へ帰った。

レトルトカレーを温め、冷凍してあるご飯を電子レンジにかけて昼食をとったのち、シャワーを浴びて原人さんの家に向かった。

1時10分前に原人さんの家に着いた。いつものようにインターホンのボタンを押す。「4階に居るよ」原人さんの声がしてガチャリとドアロックが解除された。

トレーニング室に入ると女性が一人ストレッチをしている。

その女性の顔を見て私は驚いた。いつも行く小料理屋「邂逅」のおかみさんだ。

「こんにちは鈴之助さん」彼女はにこにこして言った。

「おかみさん、原人さんをご存じだったのですね。」私が言うと、おかみさんがすぐに応えて「もちろんです。このあたりでゲント先生を知らない人はいませんよ。私は西遊悟美、サトミと呼んでくださいね、おかみさんじゃなく、ホホホ。時々こうやって先生に教えてもらっています」

「あら、もう1時、お料理の仕込みをするので失礼します。センセイどうもありがとうございました。鈴之助さんまた寄ってくださいね。ごきげんよう」

マオさんは上品ないい香りを残して帰っていった。

原人さんと私は2階に戻りコーヒーを入れた。

私は生徒たちの議論について話した。

原人さんはいつものように、とてもゆっくりとした口調で話し始めた。

「すべての人が幸福に暮らせる社会か」

「まず民主主義や自由主義では不可能だな。個人には価値観の相違があるものだ。それぞれが自由に発言し要求できる世界では、力のある者か、もしく多数決による意見が通るから、マイノリティは我慢せざるを得ない。となると、すべての幸福とは言えんな」

「君主政治なら可能性はある。ただ絶対条件が一つ。君主が完全なる無私で慈愛に満ちていて、自己犠牲を喜んでできるイエス・キリストのような人物であることだ」

「この条件は限りなく不可能に近いから、ユートピアは、この物質世界には存在し得ないということになる」

「しかし釈迦の哲学では、この世は幻のようなもので実際には存在しない。そんな在りもしない世界で、不自由だ、不幸だと嘆き苦しむのは馬鹿げたことだ」

「ただ我々はみんな、その夢のような物質社会を意識し感じて生きている。だから短い時間でしかない夢の世界を、健康で充実感を感じて愉しむことだ。」

「個人の考えを述べ合い、その違いに一喜一憂する事もまた愉しだ」

「やがて死を迎えたとき、凡人の我々でも悟りの境地を迎えることになる」

「すなわち物質世界に居る時は見えなかった本来の自分を宇宙エナジーという全体像として理解する」

私は、原人さんが一息ついたところで話を現実に戻すべく口を開いた。

「いつも、その話をされていますね。私は物質以外の見えない部分を感じることはできないでいます。しかし、いかに幻想の世界であっても、できるだけ多くの人が自由かつ平等で幸福感をもって生きるための政治を追及するべきだと思います」

「確かにそうだ」と原人さん。

「例えば、選挙でどのような政治家を選ぶべきですか?」私は、至って具体的な質問をしてみた。

原人さんは即答だ。

「基本的に政治家は必要ない」「政治家が要らなければ選挙をする必要もなく、それにかかる莫大な費用も発生しない」

「ふーむ」私は思わず唸ってしまった。

私は続けて質問をする。

「議会政治も選挙も必要ないということですか?」

原人さんの答えはこうだ。

「うむ。国民投票として総理大臣、地方は知事や市長選挙だけでよいだろう」

「各大臣は総理が指名し、国会は大臣と都道府県知事によって運営する。国会開催期間の地方行政は副知事が担う」

私は素直な疑問を投げかけた。

「国会議員や県会市会議員は要らないのですか?」

原人さんは迷いなく答える。

「必要ない。現状を見る限り、むしろデメリットのほうが大きい」

「議員は、行政が特定の企業や個人と密接関係を築いて既得権益を生む事を阻止することが大きな仕事の一つだが、現状ではそのシステムを議員がさらに構築し、結果として二重三重に既得権益を生み出している」

「基本的に行政に携わる人たちの良心を信じて任せる。業務内容は完全に情報公開して市民全員が常にオンブズマンとして監視できるシステムを作ればよい」

「これを実現するだけで税金の浪費は究極に抑えられる」

私は尋ねた。

「それは実現できるでしょうか?」

原人さんは「無理だろう。ただ、このような理屈と意識を多くの人が認知することで政治や行政の自浄作用がいくらか向上するかもしれない」



第九章 宗教

周ちゃんは実に熱心な指導者だ。朝6時前に出勤し剣道部の朝練習を監督し、8時40分から授業、午後3時半には再び剣道部の練習が始まり午後5時に終了する。そのあと、道場の清掃をして部員の下校を確認して施錠する。

休日にも短時間の稽古があり、試合や昇段審査の付き添いのため周ちゃん自身の休日は皆無である。

夏休みなどの長期休暇期間には部員を連れてキャンプや海水浴に出かける。

今年の元旦には、部員を連れて大阪府貝塚市にある水間観音へ初詣に出かけた。もちろん私も同行した。なにせ部員が40名もいるので周ちゃん一人では安全の確保が難しいのだ。

午前9時に難波駅の改札口に集合して南海線貝塚駅で下車をし、水間鉄道に乗り換え終点の水間観音駅で降りた。

ゆっくり15分ほど歩いて水間観音に着いた。

鳥居をくぐろうとした時、数人の生徒が「私たちは中に入ることができません」と言う。

「何故だい?」私は彼らに尋ねた。

「私たちの家は創価学会の宗徒で、他の信仰に関係するところには出入りしてはいけない決まりなのです」と言う。

「わかりました。では10分くらいで済ませるので、ここで待っていてください」と周ちゃんが言い、彼らもそれに従った。

残りの生徒を連れて周ちゃんは参拝の作法について説明をしながら移動した。

鳥居の前で服装を整え一礼して境内に入った。

周ちゃんは手水舎の前で立ち止まり説明を始めた。

「手水舎の水で両手を清め口を漱ぎます。これを『手水を使う』と言って、この作法により心・魂まで清めるという意味があります。神聖な神様の場所へ入っていくときの礼儀となります。礼儀は剣道を修得するうえでとても重要な意味があります」

手水を使った後、本殿の前へ移動した。周ちゃんは「次のような順序で参拝します。見ていてください」と言って、本坪鈴を鳴らし、お賽銭を投げ入れて二礼二拍手し、しばらく拝んだ後もう一度礼をした。

ある生徒が質問をする。

「先生、お賽銭はいくら入れるんですか?」

「いくらでも構いません」と周ちゃん

別の生徒が「何をお願いしてもいいですか?」と聞く。

すると周ちゃんが「基本的にはお願いをするというのでなく、日ごろの感謝を伝えるのです」

私は、周ちゃんが詳しく理解しているだけでなく、実に簡潔にわかりやすく説明することに感心して、ポカンと周ちゃんの顔を眺めていた。

それにハッと気が付いた周ちゃんの顔がみるみる真っ赤に染まって、少女のように恥じらった。それを見た私も急に恥ずかしくなってカーッと体が熱くなった。

生徒たちがキャーキャーと面白がって大きな声でからかう。

私は人差し指を口の前で立てて「これこれ、境内で騒いではいけません。他の皆が待っているからお暇しましょう」そう言って神社を後にした。

鳥居の前では神社に入らなかった生徒たちが行儀よく待っていた。

大阪市内に戻ってきてから広いお店を見つけて昼食をとった。

私が支払いを済ませると周ちゃんが近寄ってきた。

鈴之助さん、ここは私が払います」

周ちゃんは、いつも生徒のためにポケットマネーを使っている。

今日ばかりはそうはさせられないと思ったので「大丈夫だよ、今日は僕に任せて。頼むよ周ちゃん」

いつの間にか周りにいた生徒たちが「鈴之助先生、ごちそうさまです。お二人はナイスカップルですねえ、へへへ」

例のごとく首筋から耳の先まで真っ赤にしてうつむく周ちゃんだった。

生徒たちと別れてから、もう少し周ちゃんと話をしたくて「周ちゃん、この後予定が無ければ軽く飲みにいかないか?」と誘ってみた。

「元旦に開いているお店があるかしら?」と周ちゃん。

「『邂逅』だったら開いているはずだ。去年の暮れに、終業式の後で立ち寄った時におかみさんがそう言ってたよ」

「では、お供します」と周ちゃん。

お店の前にのれんが出ていない。

恐る恐るお店に入ると原人さんがいた。

「こんにちは原人さん、おかみさん。お邪魔ではなかったでしょうか?」

おかみさんは上品な笑顔で「原人せんせいとあなた方は特別なんですよ。さあどうぞお掛けになって」

「ありがとうございます。では失礼して」私はそう言って周ちゃんのために椅子を後ろへ引いてあげる。

周ちゃんは「どうもありがとうございます、鈴之助さん」そう言って腰を掛けた。

私はタイミングを合わせて椅子を少し前に動かす。

周ちゃんが腰掛けたのを確認して、私も椅子に座る。

それを待っていたかのように、おかみさんがビールをグラスに注いで私たちの前に置いた。そして原人さんとおかみさん自身にも注いで言った。「新年あけましておめでとうございます。旧年中は本当にお世話になりました。本年もどうかよろしくお願いします。原人せんせい、鈴之助さん、周子さん」

「こちらこそよろしくお願いします。おかみさん」すかさず私が返すと「もう、おかみさんは止してくださいな。悟美と呼んでください」

「そうだ、おかみさんはよろしくないぞ、鈴之助。彼女には西遊悟美という美しい名前があるんだからな、わっはっは」と原人さん。

「さいゆうさん。さとみさんですか」「本当に美しいお名前です。悟美さん、これからも鈴之助さんともども、どうかよろしくお願いいたします」

周ちゃんの言葉が終わるや否や原人さんが「おう、周ちゃんも鈴之助の奥さんみたいになってきたな。はっはっはっは」

例によって周ちゃんは髪の生え際まで真っ赤になってうつむいてしまった。

私はあわてて話題を変え、生徒たちと一緒に行った初詣の様子を原人さんに話した。

「創価学会の人たちは神社にお参りしてはいけないんですねえ?」

「それを知らなかったものだから、彼らに悪いことしてしまった」

原人さんは、にこにこして「なに、問題あるまい」

周ちゃんも「そうですわ、鈴之助さん。剣道部の子たちはそんなことで悪く思ったりしません」

「それだったら良かった。でも信仰とは何でしょう?考えさせられました」

「宗教の違いによる戦争は世界中で起こってきました。人が幸せになるための宗教が争いごとの種になるとは到底納得がいきません」

「創価学会のことはよく知りませんが、排他的な教えは、そういった争いの元となるのではないでしょうか」

そこまで言って私は言葉を切った。

少しの沈黙があった。

原人さんは黙ってにやにやしている。

悟美さんはせっせと酒の当てを作っている。

周ちゃんが沈黙を破って切り出した。

「鈴之助さんは何か信仰をお持ちですか?」

私は周ちゃんのまん丸い興味深げな眼をしっかりと見返して答える。

「僕はプロテスタントの洗礼を受けたんだ。二十歳の時に」

周ちゃんは静かに受け返す。

「そうなんですか。私の家は真言宗です」「小さい時からお墓参りや法事、日々のお仏壇へのお線香などは習慣となっています」

「周ちゃんは信心深いんですのね」と悟美さん。

「いえ、それほどでもないんです。ただ小さいころからの習慣なので何の疑問も感じず来ました。悟美さんはいかがですか?」と周ちゃん。

「私も実はクリスチャンです。鈴之助さんと同じ」

私は尋ねた。「原人さんは何か信仰をお持ちですか?」

原人さんはゆっくりと即答する。「アニミズムだ」

「自然崇拝だよ。万物に魂が宿ると考え、すべてを敬う心を持つようにしている」

すると周ちゃんが訪ねる。

「それは神道とは違うのでしょうか?」

原人さんは即答だ。

「違う。神道は自然崇拝を根源とするが、人的な意図によって宗教化されたものだ」「宗教は人が作ったものだが個人の信仰は神的で直感的なものだ。それは組織化されるべきでない」

私は質問した。

「人的な意図とはどのようなものですか?」

原人さんが言う。

「天皇が神の子孫である事を定義し、広く周知することだ」

そこへ悟美さんが料理と酒を運んできた。

「まあ、ずいぶん難しいお話ですね。私もご一緒させてくださいな。ほほほ」

原人さんの顔が少し和らいで言った。

「うむ、なに、ワシの言うことが常に正しいというわけではない。ただワシはワシが信ずることを、求めてくる人限定で話すだけだ」

「よって、ワシの信じることをお前さん方が信じる必要はない。さあ飲もう周ちゃん、悟美さん」

「ええっ私は抜きですか?」私はすかさず言った。

「はっはっは、おぬしは抜きにしようかな」と原人さん。

「そんなあ、私も仲間に入れてください!」

悲鳴を上げる私の顔を三人が嬉しそうに見つめている。



第十章 健康と食事

「話は変わりますが、わたし、原人さんにお尋ねしたいことがあります」周ちゃんが切り出した。

「なにかね?」と原人さん。

「原人さんの健康の秘訣は何ですか?」「私は以前から気になっていました。原人さんのお姿が大変若くていらっしゃるので、何か努力されている事がおありになるのだろうかと」

周ちゃんは、いつもの真っ直ぐでまん丸い目を原人さんに向けている。

原人さんは即座に答える。

「うむ。栄養と運動に気をつけている」

「具体的に教えていただくことができるでしょうか?」と周ちゃん。

「Yes, of course」原人さんは続ける。

「最初に栄養についてだが、まず水。70パーセント水でできている人間の体にとって水は最も大切だ」「ワシは沸騰させた水を冷ましてから再び煮沸したものをプラスティックボトルにストックして飲用する」「一日二リットルくらい飲む」

「次にたんぱく質。これはパウダーのプロテインをリンゴや野菜のジュースに混ぜて飲む。それとみそ汁に食物繊維パウダーを入れて飲む。これがワシの昼食だ」

「そしてサプリメント。これは腸内環境を良い状態にすること、毒素排出デトックスだな、これらを目的とする乳酸菌などのプロバイオティクスとオリゴ糖、食物繊維25グラム、ビタミンCを毎日摂っている」「加えて電解質補給のためマグネシウム+カリウムを必要に応じて飲む」

「食事は夕食がメインだ。納豆を必ず食べる以外に制限は無い。食べたいものを食べ飲みたいだけ酒を飲む。これがストレスの解消になる」

「食べ物に気を配っても、今の時代、人工添加物などの不純物を取り込むことは防げない」「だとすれば一日に一度大いに食事を楽しむべしというのがワシの考えだ」

原人さんが一息ついたところで周ちゃんが聞いた。

「朝食はどうなさるんですか?」

原人「ブラックコーヒーに発酵バターをひと欠片入れて飲む」

周子「え、それだけですか」

原人「うん」

私は不思議に思い訪ねた。

「お昼はポトフじゃなかったんですか?」「以前ごちそうになったと思いますが」

原人「あれはゲストに対するおもてなしだ」「わっはっは」

「確か君は30前だっただろ?」「25歳くらいまでは朝食をしっかりとるべきだ。それを過ぎると少し内容を変えるほうがいいだろう。また、45歳くらいで転換期があり60歳を過ぎたあたりで再度見直す必要がある。もちろん個人差があるがな」

「なるほど」私は即座に納得した。

原人さんは続けて言う。

「ただ、食事のルールは絶対的なものではなく単なる目安でしかない。欲すれば朝からすき焼きでも食べるよ」

「サプリメントはその名の通り補完的なもので、普段足りていない栄養素を補給することと気休めの意味がある。しかし免疫機能を高いレベルに保つためにビタミンCは必要だと考えている。天然、有機栽培、遺伝子組み換え無しの原料で作られたグルタミン酸を朝、昼、晩に各2グラムずつ飲む。ワシの無病の秘訣だ」

周ちゃんが丸い目をさらに丸くして言った。

「聞いたことがない知識ばかりで驚きです」

原人「いや、周ちゃんは自分の情報や知識の中から自分の信じるものを選択して信じればいい。ワシの信じるものを周ちゃんが信じる必要はない」

周子「いえ、私にも信じさせてください」

原人「うむ、そうしたまえ。わっはっは」

私もほぼ同時に笑ってしまった。「わっはっはっは」

悟美さんが微笑みながら言った。

「あら、鈴之助さんまで原人さんの高笑いが移ったようですわね」

「そのようです」私は頭を掻きながら言った。


周ちゃんは、今度は不思議そうな顔をして原人さんに尋ねた。

「原人さんはどこからそのような情報を入手されるのですか?」

原人「主にインターネットを通じて情報を得る。得た情報には必ず真逆の理論があるから、同じテーマについてできるだけ多くの科学者のオピニオンをチェックし、必要とあれば論文を閲覧する」

「サプリメントの選定は特に大切だ。化学合成したものではなく、天然由来で遺伝子組み換えを加えていないという事と人工的な添加物の無いものを選ぶようにしている」

「しかしワシの判断が正しいかどうかはわからない。ただこれだけは言える」「信じる者にはそれなりの効能がある」「多くの医師が偽薬を使用して患者の症状を改善する事実がある。信じる効果placebo effectsは確実に存在するのだ」

「まさに病気は気から、信じる者は救われる」

悟美「あれ今度は、はっはっは無しですか?ほほほ」

原人「忘れておった、はっはっは」

周ちゃんと私は思わず顔を見合わせてクスッと笑った。

それをちらっと見てから原人さんは再び話し始めた。今日はやけに雄弁でtalkativeだ。

「病気は気からと言ったが、本当に身体と心の関係は密接だ。健やかな体は健全な精神を生み、逆もまた真なりだ」

「だから運動は心身の健康と大いに関わってくる」

「運動を2種類に大別することができる。ヒトの免疫システムを活性し健康を維持増進するための適度で軽中度の運動と、アスリートにとって必要な激しいトレーニングだ」

「この二つは大きな違いがあり完全に別種のものだ。アスリートは両方のトレーニングを行う必要がある」

私「コーゾメソッドは前者というわけですね?」

原人「そうだ」

私「原人さんのトレーニングのスケジュールを教えていただけませんか?」

原人「早朝ジョギングに出かける。8時からプランク、ゆりかご腹筋、全身ストレッチ、膝つき腕立て、臀筋、スクワット、肩甲骨運動のあとハンドスタンド倒立だな、これでトレーニングは終わりだ。寝る前にはセルフセラピーとして顔筋とリンパ節マッサージをする」

その後、私たちは大いに食べ大いに飲んで和やかな時間を共有した。

午後10時ころ周ちゃんと私は店を出た。

帰りの道すがら周ちゃんがぽつりと言った。

「原人さんには不思議な魅力があります」

私は「確かにそうだ」と思ったが、自分の感覚を伝える言葉が見つからず黙ってうなずいた。


周ちゃんと別れ、私は家路を急いだ。

家に戻ると、私は大急ぎでパソコンの前に座り原人さんの話を思い出そうと努めた。そして詳しく説明してくれた原人さんの一日スケジュールを円グラフにしてみた。






第十一章 教育


新学期が始まり久しぶりにクラスの生徒と顔を合わせた。

私が教室に入るなり生徒たちがざわざわとする。

「どうした?なにかおかしいか?」私は尋ねた。

川畑という元気のいい女子生徒が言う。

「先生、少しやせましたか?引き締まってハンサムになりましたぁ」「彼女でもできたかな?へへへ」

教室が爆笑の渦となった。

私は少し照れながら「そうか、痩せたかも知れないなあ。彼女はできてないけれど」

川畑「先生はもう30歳になるでしょう?早くお嫁さんをもらってください。少し待ってくれたら私、奥さんになってあげてもいいですよ~」

すると別の生徒が「駄目だよ川畑さん、先生には剣道部の千葉先生がいるんだから」

ふたたび教室が大爆笑のるつぼとなった。

周ちゃんは体育教師と言うより、もう剣道部の先生になってしまっている。

お世辞であってもハンサムになったと言われて、私は朝のジョギングへのやる気が大いにアップした。

朝5時にはいつも出発するのだが、冬の時期まだ外は暗くて活動を始めるには高いモチベーションが必要だ。生徒の軽い言葉に背中を押してもらってやっとやる気が出るなんて私はまだまだ原人さんの域に達するのは難しい。

職員室に戻ると、数学教師の後藤さんが「先ほど事務室から電話があって来客がいるようですよ」と教えてくれたので、私は確認の電話をしてから一階の応接室へ行った。武道具屋さんだった。

今学期から剣道部の稽古に参加することを決めていた私は道具一揃いを注文してあったものをわざわざ持ってきてくれたのだ。

道着と袴、防具一式、そして3尺9寸の竹刀である。高校生の竹刀は3尺8寸なので、私はこの長さのものを使うのが初めてだ。

部活動の指導用とは言え個人の持ち物なので、勿論すべて自前である。40万円の出費は大きいが年末のボーナスを支払いに充てた。

翌日、ホームルーム終礼を終えた私は、さっそく道場へ向かった。

道場には長細い倉庫があり、その両端に出入り口がある。倉庫の内部にパーテーションで仕切りをつけて男女それぞれの更衣室兼道具置き場となっている。生徒は部室と呼んでいる。

私が部室に入ると「押忍」と元気良い部員たちの挨拶だ。

私も「押忍」と小さく返すと、1年生部員が私の周りを取り囲むようにして世話を焼く。肩から下げた防具袋を私から取り上げて防具を道場の上座へセッティングし、道着袴をほどいてハンガーにかけてくれた。

「ありがとう」私は少し恐縮しながら着替えをした。

道場に出ると40名の部員がきれいに2列に正座して私を待っている。正面には部旗が飾ってあり、その前に周ちゃんが座っている。私の面と籠手が周ちゃんの横にきちんと並べてある。

私は周ちゃんの横へ正座をして姿勢を正した。

「姿勢を正して」柳生キャプテンが号令をかける。

「黙想」そして20秒ほどの間があって「やめ」「礼」の声につづけて「面付け」と声がかかると一斉に面をつけ紐を結び始める。

面と籠手を着けて立ち上がると私や周ちゃんの周りに部員が群がる。「お願いします」「お願いします」と寄ってくる。

私たちは、その中から一人を指名して相手になる。

私たちの相手が決まると、他の部員たちも相手を決めて対峙する。マネージャーが太鼓をたたくと同時に稽古が始まる。

最初に切り返し、打ち込み、掛かり稽古、相掛かりと交代して行い地稽古に続くのだが、指導者は最初の切り返しをした後は交代せずに受けのみを行う。そして地稽古となるのだが初段以下の部員にとって地稽古は、休まず打ち込んでいく掛かり稽古のようなものなので相当な体力と気力が必要となる厳しい練習だ。

10分から20分で相手を替え、同じように練習をする。

私は久しぶりの稽古であったが思いのほかよく動けた。毎朝のジョギングのおかげかも知れないと思った。

稽古は2時間ほど続いたあと終了の合図で太鼓が鳴り響く。一斉に切り返しが始まる。始めの切り返しとは違い、大きくゆったりと竹刀を振って息を整える。

「面の位置」柳生キャプテンの声で元の隊形に正座をする。

「正座」「面とれ」で一斉に面を外す。

キャプテンは続けて「姿勢を正して」「黙想」30秒ほどの間があって「やめ」「礼」「解散」と号令をかけた。

面手ぬぐいで汗をぬぐっていると、相手をした部員の一人が私の前に駆け寄って正座をする。「お願いします」

剣道談議が始まるのだ。指導者の場合は主に指導した相手が上達するようなアドバイスをする。

どの子も姿勢を正したまま、真っ直ぐ私の目を見て話を聞きはきはきと返事をする。実に行き届いた指導がされていると感じる。

周ちゃんと私が部室に入って着替え始めると、部員たちは道場の雑巾がけを始めた。ここの道場は、いつ見てもピカピカだ。

部室を出ると周ちゃんがそばに来て「ありがとうございました。みんないつもより張り切っていたように感じます」

私は「それだったら良かった。できるだけ参加するようにします」「よろしく」

周ちゃんはまん丸い目を輝かせて「はい、お願いします」と答えた。生き生きとした表情は眩しいようだ。


翌日、朝礼ホームルームから職員室に戻ると、周ちゃんが席に座って黙々と下調べをしている。1限目に保健の座学授業があるようだ。

邪魔をしてはいけないと思い、声はかけずに私自身の授業をしに部屋を出た。

授業から戻ると周ちゃんが既に席に座っている。剣道場での彼女から想像できないくらい元気がない。相変わらず背中をぴんと伸ばした姿勢ではいるが、いつもの丸い目が伏せがちだ。

私は、放課後に訊いてみようと決めた。

その日、剣道部の練習を終えて周ちゃんに声をかけた。

「このあと軽く食事でもどう?周ちゃん」

稽古の後の少し紅潮して上気した清々しい顔を私に向けると「はい、ぜひお願いします」そう言ってニコッと笑った。

例によって西遊悟美さんの店に立ち寄った。

「いらっしゃい、鈴之助さん周子さん」

私はカウンター席の椅子を周ちゃんのために後ろに引きながら言う「こんばんは悟美さん。今日は定食を二つお願いします」

「それと僕には生ビールを一つ、周ちゃんはお茶のほうがいいかな?」

周子「いえ、私も生ビールをいただきます」

悟美「わかりました。ビールは先にお持ちしましょうか?」

私「はい、お願いします」

まもなくグラスに入った生ビールと付きだしで豆とひじきの炊いたのが綺麗な小鉢に入って出された。

漆塗りの箸と箸置きが私には黒、周ちゃんには赤いのを置いてくれた。

ビールを飲みながら30秒ほどの沈黙があった。

「あの」二人がほぼ同時に声を発する。

「わっはっは」「あはは」私たちは声をあげて笑った。

周子「今日はお誘いありがとうございます」

私「よく来てくれました。実は学校で周ちゃんの様子が少しいつもと違うようだったから、気になって話をしたくなったんだ」

「何か問題でもあったの?」

周子「はい、授業のやり方について迷いがあるんです」

私「ほう、もう少し詳しく聞かせて」

周子「私は1年生の体育と保健の授業を担当しています」

私「うむ、そうだね」

周子「体育は跳び箱運動を、保健は性教育が現在のカリキュラムです」「跳び箱は集中して行わないと怪我をする危険があります」

「毎回、授業の初めにその点を充分説明して、準備運動を入念にします」「問題は、最初の説明を理解せず散漫な行動をとる生徒が少数居ることです」

「安全性を徹底して確保するには、一人の不注意な言動のたびに授業を中断して注意喚起しなければなりませんが、体を動かす体育としての活動の進展が見込めないです」

「部活動の子たちは、剣道の理念である守破離を理解していて、指導者の言うことに疑念を抱かず素直に忠実に従います」

「ですが、一般生徒には、特に最近の子は、それをやることの意味や理由、そして効果を説明し理解し納得することを求めます」

「年配の先生方が若いころは、ふざけて危ないことをするとか他の生徒に迷惑をかけるなどといった場合は、否応なしに大きな声でしかり、ときには引っ叩くことが当たり前だったと言います」

「それで、手っ取り早く秩序と安全性が保たれたと言います」

「生徒が家に帰って先生にたたかれたと言おうものなら、親が生徒をもう一度しかったと言います」

「わざわざ学校に出向いて謝罪をし、しかってくれたことにお礼を言って帰る親もたくさんいたそうです」

「授業では私も大きな声で注意し、熱意を込めて説明していますが、生徒の安全を完全に守る状態で授業しきれてるとは言えません」

「先輩教員からは、体育の教師は命を預かっている事を常に頭において授業しなさいと教わりました」

「今、私は行き詰まっています」

そこまで言って周ちゃんは「ふう」と息を吐いた。

私は、とっさに「これは軽率なアドバイスをするべきでない」と直感し、一つの言葉について感想を述べた。

「守破離かあ、懐かしいな」

「武芸の修練には守破離と言う上達への段階がある。守は師の教えを忠実に守る基礎訓練の段階、破は基本の上に自分なりの工夫を加え基本を破り発展する段階、離は型や師の教えを離れ独創的な個性を発揮する段階というのだね」

「物事を学ぶ最初の段階では、指導者に一切疑念を抱かず、質問をせず、言われたとおりに従うことが上達に最も近道だ。あれこれ考えて個性的な方法を見つける作業は、ある程度の域に達してからという事だね」

「今の学校教育は、この考えに回帰する必要があるかもしれないなあ」

「ところで保健の授業にも問題があるのかな?」

「えっ、は、はい」周ちゃんは真っ赤になって答えた。

私「どうしたの?話してみれば?」

周子「性教育を教科書に沿って授業を進めますが、生徒が具体的な質問をたくさん投げかけてきます」

「私もインターネットで検索して調べてはいるのですが、知識が追い付いていないのです。生徒にとっては関心のある分野であり、とても大切な単元ですので教科書に書かれている基礎的で表面的な文章の読み聞かせだけでは不充分だと感じています。でも私は今まで剣道一筋で生きてきたので...何も経験がなく、言ってみれば生徒たちと同じ立場かと。そんな私が性教育に携わっていいものだろうかと悩んでいます」


昔から読書が好きだった私が国語の教師になって7年間、本を読むことの楽しさを伝えつつ、生徒の受験対策を念頭に、何の疑問も持たずに授業をやってきた。

周ちゃんの真剣で誠実な考え方に尊敬の気持ちがあった。

私「どちらも大切で難しい問題だね」「ぼくに言えることは、周ちゃんの誠実な姿勢は素晴らしいし、苦しくてもその態度を続けていくことが生徒の為になる」

「きっとそうだから、周ちゃんはいつものように胸を張って堂々とありのままの自分でいてほしい」

私はそう言いながら何故か涙がこぼれた。

周ちゃんは、じっと私の目を見つめて

「ありがとうございます鈴之助さん、気持ちが晴れました」

「稽古をした後みたいです、えへへ」

私「この問題について原人さんに聞いてもらうのはどうだろうか」

周子「ええ、私もそれを考えていました」

私「では今週の土曜の午後一緒に原人さんの家にお邪魔しよう、周ちゃんどうだい?」

周子「よろしくお願いします」

土曜の朝は小雨が降っていた。

雨の日は空気中の水分で走るのが楽だと原人さんに教わっていたので、私はかまわずジョギングに出た。

いつもの場所で原人さんが体操をしている。

私は午後の時間帯で周ちゃんと一緒に伺ってもいいか尋ねた。

原人さんは、お昼にポトフを作っておくから食べ来るようにとのことだった。

私はジョギングのあと剣道部の練習を終えて、それを周ちゃんに伝えた。

周子「お知恵をいただいた上に昼食までごちそうになるなんて、申し訳ないことです。なにか手土産でも買っていきましょうか」

私「いや、原人さんはそれを嫌うから、素直にお言葉に甘えよう」「では午後12時半に原人さんの家の前で待ち合わせよう」

周子「はい、お願いします」

私が12時20分に原人さん宅に行くと、玄関先で周ちゃんが傘をさして立っている。

私「やあ、周ちゃん、待たせたね」

周子「いえ、いま来たばかりです」

いつものようにインターホンを押す。原人さんの声がしてカチャリとドア錠が開く。

私たちは2階へ上がり挨拶を済ませた。

原人「座りなさい」

周子「はい、失礼します」

私もそれに倣った。

原人さんがポトフを器に入れテーブルに置いて「さあ、どうぞおあがりなさい」そう言うと自らスプーンを口に運んで「うん、うまくできたぞ」

周子「まあ、美味しい。ジャガイモがほくほくして野菜の甘みが素晴らしい。香りもいいですね」

私「だろ?」「稽古の後だから体に染み渡るようだね」

周子「はい、幸せです」

原人「それはよかった。周ちゃんになら毎日作ってやってもいいぞ、わっはっはっは」

昼食の後はコーヒータイムだ。

私がドルチェグストマシンで給仕するのを周ちゃんは傍で見ていて、出来上がったコーヒーをテーブルに運んだ。

原人「話を聞こう」

周ちゃんが体育授業における安全性の徹底についてと、保健の授業での性教育について迷いがあることを簡潔に、しかし的確に説明をした。

原人さんは、珍しく黙って考えている。

5分近く黙考した後に静かに口を開いた。

「まず、体育授業の安全性についてワシの考えを話す」

「生徒の安全だけを考えるなら体育という科目を学校教育から排除するのが手っ取り早い」

「しかし周ちゃんが確信したいのは、いかに生徒に対して運動の危険性と集団行動における責任ある行動の重要性を理解させ、安全な体育授業を行うことができるかということであろう」

周ちゃんは眼を輝かせて応える「はい、その通りです」

原人「今言ったことをそのまま言えば良い」

周子「えっそのままですか?」

原人「そうだ。今言ったことを生徒たちにどうか理解してほしいと、周ちゃんのその丸い目を向けて、そのまま伝えるといい」

「そして体育教師は生徒の命を預かっている責任のある仕事ですから、時にはきつくしかります。それは私があなたたちに怒っているからじゃなく、あなたたちを本当に好きで大切だからですと伝えることも忘れずに」

周ちゃんは、キラリと光る眼をいったん私のほうにむけて、そのあと原人さんを見つめて言った。

「はい、そうします。ありがとうございました」

原人さんは、にやにやしながら「うむ、自分でも上手くまとめたと嬉しく感じている」

「つぎに保健授業についてワシの意見を言おう」

「現在の大学教育の内容から考えて、体育の教師は保健や健康、さらに性に関する専門家とは言えない」

「それゆえ、保健授業は別の専門家が行うべきである」

「しかし、現状から察するに、周ちゃんはそれを行わねばならない」

「当面はインターネット検索でのリサーチを駆使するが、それは周ちゃんが授業前の教材研究としてやるのではなく、授業の中で生徒と一緒に研究し学ぶスタイルで行うがよかろう」

周子「はい、やってみます」

原人「いずれにしても日本の教育は二つ大きな問題点を抱えている。そしてそれに対処できていない」

「一つは学校教育が担うカテゴリーが広くなりすぎている。

親が学校を保育所のように考えているからだ」

「子どもを学校にやっておけば自分の時間が作れ、さらに家庭教育までやってくれると考えている」

「子どもの学校滞在時間は増加し、教育内容は膨大になる」

「教師の仕事は量が多くなり責任範囲が能力を超えて広がる」

「自ずと本来の学問を教えることの質は下がる」

「二つ目はいじめの問題だ」

「現時点でこの問題を一掃することは不可能だが、学校滞在時間を減らして同じメンバーでの活動時間を少なくすると同時に違う多くのグループ活動があることで問題の発生を減少することができる」

「ただ、これには大改革が必要だ」

「学校教育の内容カテゴリーから徹底的に無駄を省いて本来の学問指導に徹底フォーカスするべきだ」

「そのうえで、教育というものを社会全体でバランスよく分業するのだ」

原人さんは熱弁する。

彼の説明を要約すると次のようだ。


義務教育

義務教育を学問教育・情操教育・健康教育・生活教育の四部門に分け、それぞれ別の機関で管理運営する。

四部門ともに1年生~9年生とし、5才の誕生日から開始できる。統一した学年制はとらない。


四部門

1、学問教育;国語、数学、理科、社会、外国語

あらかじめ全国共通の授業動画を単元ごとに作成し、教室あるいはオンラインで授業を受講することができる。

定期テストにおいて各科目60%以上の正解率で全科目合格すれば次段階教育へと進む。

早期修了による飛び級が認められる。

段階評価をし、次段階教育の学校選択の指針とする。


2、情操教育;音楽、美術、工芸、書道、体育

各科目、指導者の専門に応じてジャンル・活動場所・オンラインクラスなどを希望選択できる。途中でクラスを変更できる。

体育を例にとると、健康運動、あらゆる球技、各種陸上競技、器械体操、パルクール、各種ダンス、スケートボード、ボルダリング、各種自転車競技、けん玉、その他マイナースポーツなど様々なクラスを用意する。ただし各地域の施設や指導者の保有によって可能なクラスが開設される。

各科目3種目まで受講登録でき、途中変更することが可能とする。

試合参加は任意で、評価はしない。既定のトータル参加時間数をクリアすることによって単位認定とする。


3、健康教育;保健、医療制度、防災

すべてオンライン授業。授業動画は専門家会議によって検討作成したものを全国一律で使用。参加場所は学校・公共施設、自宅など選択できる。段階評価はしない。判定テストで正解率60%の合格点をとるまで同じ単元を何度も受講する。


4、生活教育;家庭、経済、性教育、育児

すべてオンライン授業。授業動画は専門家会議によって検討作成したものを全国一律で使用。参加場所は学校・公共施設、自宅など選択できる。段階評価はしない。判定テストで正解率60%の合格点をとるまで同じ単元を何度も受講する。


次段階教育

現況では高等学校における目的意識が低く勉学に対する学習意欲が明確でない学生が多いことから高等学校制度は廃止する。

よって義務教育後は高等学校ではなく、A専門技術課程かB学術研究課程のどちらかを選択して進学する。

Aは大工などの各種職人、技術者、伝統工芸、芸術芸能などが含まれBは大学へ進学して専門的な学問研究するための基礎知識を学んで、この間に何を専攻するか決める。大学へ進学した者は原則として大学院へ進んで、さらに研究を発展させる。ABとも途中進路変更することが可能とする。


原人さんによると、この改革によって、いじめ現象は減少し、教育がシンプルなものになり、教育効果が顕著に表れ社会はよりよく発展するというのだ。


周ちゃんは意外にも驚いた様子が無く、何か熟考しているかのように見える。

私は、その横顔を探るように眺めていた。

原人さんが、それをからかうように言った。

鈴之助は周ちゃんの横顔が大好きなようだな。わっはっは」

私はあわてて言い訳をする「いや、周ちゃんがやけに考え込んでいるようだったので、つい見とれてしまいました」

周ちゃんは、きょとんとした顔で今我に帰ったという体だが、すぐに気を取り直したように言った。

「原人さん、貴重なご意見をありがとうございました。いろんなことに悩みながらも自分らしく振舞いなさいと言っていただいたように感じます。ずいぶんと気が楽になりました。教育の在り方については初めて耳にすることが多かったので興味がわきました。私自身もっと勉強して、もう一度お話伺いたいです」

「今日はこれで失礼します。ポトフとてもおいしかったです。ごちそうさまでした。本当にいつもありがとうございます」

私「では私も一緒にお暇します。原人さんご馳走様」

周ちゃんと私は連れ立って外へ出た。

すっかり雨がやんで、空にはっきりと半円の虹が出ている。

私たちはお互いに顔を見合わせて、思わずにっこり微笑みあった。そしてしばらく虹を見ていた。



第十二章 新たな旅立ち


原人さんと出会って以来、私はいろいろなことに対して研究熱心になった。

健康のことだけでなく、教育について、政治や社会について深く考察しリサーチする習慣がついた。

それに加えて英語を勉強しなおすようになった。

これも原人さんの影響だ。

やがてSNSで外国の人たちとメッセージのやり取りをし、時には音声チャットで話すようになった。

外国の人と交流するには、日本人として自国のことをよく知っておく必要がある。

私は日本の歴史、地理、文化について勉強を始めた。

そしてウィリアム・スミス・クラーク博士のエピソードに出会う。

Boys, Be ambitious. 少年よ、大志を抱けと訳される言葉で有名な人だ。

ただ私が心を打たれた言葉は別のものだ。

Be Gentleman

北海道札幌農学校の開校にあたって、当時の仮学校時代に荒くれ者の多い学生たちに苦慮した当局者は早急に学則を定める必要を感じた。

開校式を終えた後、彼らは学校規則を定めた分厚い冊子を作成しクラークに意見を求めた。

当局者たちの説明を黙って聞いてからクラークははっきりとつぎのように言った。

「こんな細則を設けてする教育では、真の人間教育はできないのではないか」

Be Gentleman

「それで充分ではないか」

クラークは学生たちの前で宣言したという。

「私は諸君を紳士として扱う。だから諸君は紳士たれ」


私は、実際の学校現場とクラークの理想の違いに少なからず悩んだ。そして原人さんの理想を思い出した。

私は寝る間も惜しんで日本の教育の歴史を調べた。

学校の前身ともいえる寺子屋から戦時下の軍事教育、戦後の反日的教育まで研究に研究を重ねた。

諸外国の学校教育に関しても可能な限り調べた。

学校の会議や教育委員会の研修で随分と発言し改革を啓発しようと努めた。


しばらくして私は退職することを決心する。

「一から理想の教育環境を作り上げる場所を見つけよう」

その夜、私は悟美さんの店『邂逅』へ一人で飲みに出かけた。

私「こんばんは。お店構いませんか?」

悟美「いらっしゃい、鈴之助さん。さあどうぞ」

店に客はいなかった。

今の私にはありがたかった。静かに飲みたい気分だったのだ。

枝豆をつまみながら冷えたビールを一気に飲み干した。

私「お酒を下さい」

悟美「はい、八海山を冷やでいいですか?」

私「ええ、お願いします」

悟美さんは、底の深い皿の上に一合升を置き升に酒を注いだ。升から溢れて酒の表面張力の限界になるまでいっぱいに注いでくれた。

 私は酒がこぼれないように升の端に口を近づけて、音をたてないように気をつけながらゆっくりとすすった。

 黙って一杯目を飲み干し、お代わりを頼む。

 おでんの大根、豆腐、スジ肉、ごぼう天が出される。

 悟美「どうぞ」

 私「ありがとうございます。好きなものを覚えてくれていて」

 悟美「はい、今からめざしを焼きますから」

 私「よろしく」

 私は黙ったまま箸を動かし、酒を飲んだ。悟美さんは何も言わず手際よく給仕する。


 ずいぶん急ピッチで飲んだようだ。酔いがまわったと感じて勘定を頼む。カウンターに座ったまま支払いを済ませ立ち上がろうとして足がもつれた。

 ゴンッ

 私は前向きで倒れ、とっさに前受け身の態勢をとったが勢いで額を床にぶつけた。

 悟美「まあ大変、こちらへ来てください」

 私を支えながら奥の居室へ連れて行きソファに座らせた。

 悟美「あら良かった、大きなたんこぶができましたよ。これであと吐き気さえしなかったら大丈夫。冷やしましょうね」

 彼女はそう言って冷たく絞ったタオルを持ってきた。

 私「ありがとうございます。すみません迷惑かけて」

 悟美「気になさらないで。よくあることですから」「こちらに布団を敷きますから少し休んでください」

 私「とんでもない。すぐ失礼します」

 悟美「そういうわけにはまいりません。もう敷きましたから」

 悟美は私の手を取って布団の所へ連れて行き寝かせた。布団の下には座布団が何枚か敷かれていて腰から頭まで上体が斜めに高くなるようにしてあった。

 私「ごめんなさい。お言葉に甘えて少しだけ休ませていただきます」

 私は言葉を発するや否や眠ってしまった。


 目が覚めると午前4時過ぎだった。

 枕元にメモ書きと保冷バッグと保温ボトルが置いてある。

 メモは悟美さんからで「お疲れ様鈴之助さん、バッグの中に野菜スムージー、ボトルには蜂蜜しょうが湯が入っています。ランニングの前に飲んでください。悟美」と書かれてある。

 私は謝罪とお礼のメモを残し、バッグとボトルを持って店を出た。

 その日の放課後、剣道部の練習のあと私は急いでアパートに帰った。

 シャワーを浴びて、和菓子屋へ行き村雨を買った。そのまま悟美さんの店へと向かった。

 すでに暖簾が出ている。

 私「こんばんは」

 悟美「いらっしゃい鈴之助さん」

「気分は良くなりましたか?」

 私「ええ、ありがとうございます。もう大丈夫です。昨晩は迷惑をかけました。済みません」

 悟美「いえ、なんでもありません。顔色も良くなって。やはりお若いから。よかった」

 私は「いただいたスムージーと蜂蜜生姜湯がとてもよく効きました。ところでこれは私の好きな和菓子です、どうか召し上がってください」」と言って村雨を渡した。

 悟美「あら、お気遣いありがとうございます。遠慮なく頂戴します」「どうぞお掛けになって」

 私は腰を掛けて言った。「ビールをください。あてはお任せします」

 悟美「承知しました」

 まもなく冷えたビールと一緒にほうれん草と豆腐の胡麻和えが出された。

 私「いただきます」

 悟美「はい、どうぞ召し上がれ」


 一晩泊めてもらったせいか悟美さんに対する親近感がすこぶる増して、話を聞いてもらいたい衝動にかられた。

 私「悟美さん、私はこの3月末で学校を退職することにしました」

 悟美「そうですか、ずいぶんお悩みになったでしょう。次は何をなさるおつもりですか?」

 私「ナウル共和国へ行きます」

 私は、理想の教育を求めたいと思ったこと、現場でも改革活動をしたが変革を嫌う人のほうが圧倒的に多いこと、たくさんの書物や論文を読み、海外の教育事情をリサーチしたこと、その結果、世界中に友達がたくさんできたことなどをしゃべった。

悟美さんは黙って聞いている。

 私はビールを飲み干してお代わりを頼むと再び話を続けた。

 私「ナウル共和国は日本の南西4900kmの太平洋に浮かぶナウル島の国です」「オーストラリアとハワイの中間あたりです」

 「21平方kmほどの面積があり、大阪でいうと池田市より少し小さいくらいの大きさの国です」

 「リン鉱石の輸出によって栄え、公共料金や税金は無料という高い生活水準でしたが、鉱石の枯渇によって1990年代後半から経済は破綻し、再建に向けて模索しているんです」

 「私は、ユニークで発展的な教育実践と、それをブログや動画で世界に発信することでナウル経済を立て直したいと思っています」

「ナウルを世界トップクラスの教育先進国にして、世界中に学生を送り、また留学生を受け入れる国にしたいのです」

 私は、オンラインで知り合った友人たちとのネットワークを駆使してナウルの政府関係者に直接コンタクトすることができたことや、具体的なナウル国発展プランまで情熱的に語った。

 原人さんのアイデアが基本で武道、茶道、そろばんなど日本の文化を取り入れつつナウルの伝統・文化・言語を大切にする方針について説明した。

 ブログや動画発信の収益とは別にクラウドファンディングによる資金調達に関して、オンラインで学んでいることを明かした。

 ここまで一気にしゃべって、私はまたビールを飲み干した。

 悟美は黙って静かに聞いていたが、私は話し終わるとしばらく私の顔を見つめてから口を開いた。

 「私もその計画に参加させてください」

 私は飛び上がらんばかりに驚いた。「どういうことですか?」

 悟美「私は大学の教員をしていた時に出向で小学校の教師としてトータルで6年勤務しました」「今の鈴之助さんと同じような疑問を感じ同じような活動をした結果、教職から身を引きました」「今のお話を聞いて、とても魅力的な計画で私にもお手伝いができると思いました」


 彼女は学校教育実践学専攻で教育大学大学院の博士課程を修了していた。私などよりはるかに高いレベルで教育の専門家だったのだ。

 彼女には教育に関して特にこだわるジャンルがあった。それは医療の分野だった。

 悟美「私は学問としての医療と奉仕精神の徹底、それから国の医療制度をセットで構築すべきだと考えます」

 「私の母は脳梗塞、心筋梗塞、腰椎の圧迫骨折など入院することが多く、最後は胆のう癌のため終末医療病棟で亡くなりました」

 「病院のスタッフはとても忙しく、とても人手が足りているとは言えません」

 「私は毎日病室へ行き、細かい世話をする必要がありました」

「晩年の生活を付き添うことができ、最後を傍で看取れたことはありがたいと思います。でも医療の現場は改善すべきだと感じました」

 

彼女の考えは、医療はビジネスと完全に切り離して行われるべきであり、次のような指針で構築するというものだ。

1、医師や看護師など病院スタッフは公務員とする

2、郵便局や交番のように地域の病院を設置する

3、医療費は無料とする

4、最新かつ広い分野での治療技術を常に共有する

5、医療教育では奉仕の精神を特に重要視する

6、患者対応は治療も含めて常に複数のスタッフで行う


悟美は医療システムについて情熱的に語った。

そして最後に活動資金について話した。

 悟美「私は貯金が1500万あります。この店は土地家屋共に私の所有です。4500万くらいで売却できるはずです」

「わたしも既に人生の折り返し地点を過ぎました。やるからにはすべて投資して、人生をかけて取り組まなくてはなりません」

 彼女は投資家に直接交渉して資金を調達する必要性と、そのために具体的な投資家への見返りを示す必要があることについて語った。

 たとえば最低保証の配当金として投資額の0.3%を毎月その銀行口座に振り込むこと。これは投資者にとって年利3.6%となるから、利回りが良いとは言えないが銀行の普通預金の利息が0.001%であることから考えると3600倍となるわけだから、余裕資金の置き方としては悪くないはずなので交渉の材料となるという。もちろん収益が上がって総資産が増えればボーナス配当などの措置をとる。


 私にはよく理解できなかったが、確かに資金は必要だ。私には7年間でためた貯金が350万有るが、これが少なすぎることは明白だ。予期せぬ悟美さんの投資は有難いものだった。

 翌日、私は校長に退職願を提出した。

 放課後、剣道の稽古に参加した。なぜか気力が充実して、いつもより張り切って動けたようだ。

 手合わせした生徒たちとの剣道談義のあと、周ちゃんが私の前に座った。

 周子「きょうもご指導ご苦労様でした。実はお願いしたいことがあります。詳しくお話ししたいので、この後お食事ご一緒していただけませんか?」

 私「ぜひぜひ」「私も話したいことがある」「19時に悟美さんの店でどうかな?」

 周子「はい、よろしくお願いします」

 

 『邂逅』は席がいっぱいであった。私たちは急いで退散しようとするが、悟美がそれを許すはずもなく、結局わたしたちは奥の座敷に通された。

 悟美「お料理、少し時間がかかります。ごめんなさい、ゆっくりなさって」悟美はそう言うとビールと突き出しをテーブルに置いて店に戻っていった。

 周子「忙しくされているので気が引けます」

 私「なに、問題ないだろう」

 周子「鈴之助さんは悟美さんとお親しいですね?」

 私「うん、とても好くしてもらっているよ」「最近分かったことだけど、彼女は教育学の博士号を持っているんだ」

 「いろいろ教わることが多いよ」

 周子「そうだったんですか!」原人さんといい、悟美さんといい、なんて魅力的な人ばかり鈴之助さんの周りにはいるんでしょう!」

 私「有難いことだ」「ところで周ちゃんの話を聞こう」


 周子がお願いしたい事というのは、これまたびっくり仰天する話であった。

 彼女は青年海外協力隊に応募し、すでに合格して2か月の国内研修の日程まで決まっているというではないか。

 現職教員の身分を残したままモロッコへ派遣され、青少年の育成を仕事として2年間活動するのだという。

 周子は、原人さんの教育理論を聞いて自分なりに熟考した結果、もっと違う視点から知識と経験を積まなくてはならぬと思ったと話す。

 そして彼女がモロッコに滞在している間、私に剣道部の指導と管理を任せるので、どうかよろしくというのだ。

 「うーむ」私は思わず唸ってしまった。

 私「周ちゃん、残念だがその依頼は断らざるを得ない」「私は3月で退職するのだよ」

 周子「えっ、まさか!」

 周子は今にも泣きだしそうな顔で、しかし抑えるように小さく叫んだ。そして悲しげに目を伏せた。

 私「打ち明けるのが遅くなってしまって申し訳ない」


 そこへ悟美が酒と煮物の小鉢、アジの造り、アジの骨せんべいをもって座敷にやってきた。

 悟美「お待たせしてごめんなさい」「なにか他に召し上がりたいものがありましたらおっしゃってください」

 周子「いえ、これで充分です。お忙しいのにありがとうございます」

 悟美は「どうかゆっくりなさってね」そう言うとまた店に戻った。


 私はナウル共和国での教育実践と経済再建のプランと、その活動に悟美が参加することを周子に説明した。

 周子は元のまん丸い目になって言った。

 「わかりました」「鈴之助さんの素敵な夢はきっと実現すると思います」「剣道部のことは生徒会担当の佐伯先生に相談することにします」

 周子は話題を変え、剣道部3年生のそれぞれの進路について一人ずつ丁寧に教えてくれた。

 小一時間ほど話して、周子は先に店を後にした。私もその後しばらくして家路についた。

 

 私は一週間ほど毎日『邂逅』へ通って悟美とナウル再建計画について意見を出し合った。

 ほぼシナリオが出来上がったので二人一緒に原人さんへ報告することにした。

周子にそのことを話すと彼女も同行したいというので、土曜日の午後わたしたちは連れ立って原人さんの家へ行った。


 私がナウル計画に至ったいきさつと経過、そしてプランの概要を説明する間、原人さんは私たち三人の顔を代わる代わる均等に注視しては時々頷いて話を聞いていた。

 話が終わると原人さんは「ふう」と息を吐いてから言った。

 「ワシもその計画に参加させてもらいたい」「出資額は約1億5千万。貯蓄と土地家屋を処分すればそのくらいになるだろう」

 原人「どうだろう?」

 私「本気ですか?」

 原人「ワシが嘘気であったことがあったかい?」

 私「いえ、ありません」

 悟美「そうおっしゃるような気がしていましたわ」

 私「とても心強いお申し出です。ぜひお願いいたします」

 周子が突然椅子から立ち上がり背筋を伸ばして口を開く。

 「みなさん、私もご一緒させてください」

 私「えええっ!周ちゃんモロッコはどうするの?」

 周子「一週間前に辞退届を提出しました」「学校は月曜日に退職願を提出します」「剣道部は数学の宮本先生が面倒を見てくれます」「二段をお持ちで居合もやってらっしゃるそうです」

 私「本当か!驚いた」

私の心臓は胸から飛び出しそうなくらい激しく脈打っていた。

悟美「周子さんがそうおっしゃるのではないかと感じていました」

周子「出資は50万円しかできません」「ごめんなさい」

原人「周ちゃん、謝ることはない」「ワシたちは仲間だ」

周子「はい」

原人「これから忙しくなるぞ」「各自、身辺の整理をしておくように」「一番整理が必要なのはワシか!わっはっはっは」


彼の態度や言葉は、どんな時も安心感と笑顔を与えてくれる。

悟美「では、今夜の夕食は私の家で。お店はお休みにします」

原人「おう、それは嬉しいぞ」「周ちゃん、鈴之助、今夜はポットラックパーティだ。ワシがメイン料理を用意するから鈴之助は飲み物を、周ちゃんは何か一つ手料理を持ってくること」「悟美さんは何も準備してはいかんぞ」

周子・私「わかりました」

悟美「あら、私にも一つくらい料理を作らせてくださいな」

原人「では、お願いするか!わっはっは」


その夜のパーティは心からくつろげる雰囲気とワクワクするような高揚感がバランスよく共存する、今まで経験したことのない心地よいものだった。

一人一人が自分のことを仲間に知ってほしいと思い、また仲間のことを知りたいと願った。

そこで私たちは初めて原人さんの家族について知ることとなる。


彼には奥さんと三人の子どもがいた。

30年近く前にそれぞれが独立し、原人さんは独り暮らしになった。一番上の娘さんは結婚して千葉へ、長男は徳島でお茶の栽培を、次男は大阪の茨木市で居酒屋の店長をしているそうだ。

子どもたちの独立を契機に奥さんも四国へ旅立ち農業を始めたとのことだ。


原人「年齢のことを考えると、ワシはナウル共和国に骨をうずめることになるだろう」

「ワシの身辺整理で一番大切なのは、家族に自分の想いを伝えておくことだ」

「ワシの命が尽きたとき、家族には悲しい顔をしてほしくない」「悲しむことではないのだという事を理解しておいてもらう作業をしておかなくてはならん」

私にはその作業がどういうものなのか見当もつかなかった。


第十三章 愛


原人の作業とは遺言書の作成であった。

遺言書

遺言者 縄文原人は下記を遺言として残す。

第一条葬儀について

葬儀は行わず、火葬場にて近親者で見送りを願う。

遺骨は砕いて海洋散骨を願う。

第二条遺産相続について

ナウル共和国の教育及び経済再建計画への投資における分配金の半分を妻 縄文弥生が相続し、残り半分を長女 神代伊勢、長男 縄文文明、次男 縄文大和に三等分して分割相続するものとする。

 付言事項

死は消滅ではない。私の存在は『意識』というエナジーである。魂と言ってもいい。私の身体は、その入れ物であり劣化して朽ちていく。それが死だ。私の意識はエナジー不変の法則により永遠に在る。意識の中枢をなしているのは『愛』だ。私は愛のエナジーとして常に家族の側にある。それを覚えておいてもらいたい。


私たちがナウルへ出発する一か月前、原人さんが遺言書を私たちに見せた。

これを原人さんの家族に伝えることになるのは私たち三人だというのだ。そして三枚のコピーにそれぞれ署名をして私たちに一枚ずつ手渡した。

原人「悟美さん、周ちゃん、鈴之助、この遺言書を持っておいてください」

私は彼のナウル計画に対する並々ならぬ決意と覚悟を感じる一方で、『生命』『魂の入れ物としての身体』『意識のエナジー』そして『愛』について詳しく聞いてみたいと思った。


悟美が静かな口調で原人に話しかける。

「愛する家族をお持ちで素敵です」「私は天涯孤独です。私が40歳の時に父母をなくしました。私を含めて家族全員がひとりっ子だったので親戚すらいません」「結婚する相手にも巡り合いませんでした」

少し寂しそうな顔だ。こんなふうに自分のことを詳しく話す悟美さんを見たことが無かった。

原人が優しい目で悟美を見つめて言った。

「これからは我々という仲間がいる」

悟美「ええ、だから知っておいてもらいたく思ってお話ししました」「ミステリーだった原人さんの身上もよく分かったことですから」

原人「わっはっはっは」「ワシはミステリーだったか」「わっはっは」日焼けした肌に白い歯が目立つ。

いつも以上に大きな声で笑う原人につられて悟美も周子も私も声を出して笑った。


周子が真顔になって話し出す。

「わたしも仲間になれてとても嬉しいです」

「みなさんに愛情を感じます」

「父や母も私を愛してくれ、私もまた愛しています」

「原人さんの話を聞いていて、愛には種類があるのかしらと思いました」

原人「いろんな愛がある」

「まず親の子に対する愛」「これは古代ギリシア的に言うとアガペーagapeだな」「無償の愛、自己犠牲をいとわない愛だ」「どの親にも当てはまるわけではないが」

「一般的な家族愛はストルゲーstorge」

「友人間での友情、信頼や連帯感はフィリアplilia」

「恋愛はエロースeros本能的な愛、肉体的な愛だ」

「わかりやすく大別すれば、この四種類になる」

「ただ、愛とは人生の根源であり、生命や宇宙の真理と密接にかかわっておるので実際には簡単に区別できない」


周子「アガペーが最も崇高な愛なのですね」

原人「宗教的にはそうだ」「しかしワシは愛に階級などないと考える」「あえて言うと、アガペーは一方向であり最も単純、愚直、シンプルな愛といえる」

「それに対比してエロースはさまざまな欲求、愛情と嫉妬や憎しみなどが混在しており、最も複雑で多次元な愛だ」

私「世の中に不倫があるのは、その複雑性からですね?」

原人「不倫の言葉の意味は倫理に反するという事だ」

「俗にいう不倫や浮気という概念は、現代人が社会システム上の都合で定義したものであり、個人の独占欲を正当化するために生まれたものだ」

「万物の真理に基づいた不変の論理ではない」

「そもそも人間が、善悪のクリテリアcriteriaで愛を定義するなんてことは不遜としか言えない」

「それぞれが自分の愛し方を持っている」

「愛し方の似通った者同士がカップルになれば、より幸福感を共有できるだろう」

「これがワシの考えだ」

「ただ、あなたがたは」

このあと悟美、周子、そして私は、はっと気づいたように一斉に言葉を発した。

「私が信じるものをあなたも信じる必要はない。誰もが自分の信じたいものを信じる権利がある」

まるで、あらかじめ決めていた台本を読むがごとく声をそろえた三人の言葉だった。

四人はまたそろって大きな声で笑った。


原人「もうじきワシたちの船出だ。どんなことが待っておるか楽しみだわい」「これから先、周ちゃんとワシが恋に落ちるかもしれんぞ、はっはっは」

悟美「そうですわ。鈴之助さんと私が恋人同士になることだってあるかもしれないですわ、ほほほ」

周子「ほんとに!」「未来のことは誰にも知りようがないですもの」

「ケセラセラQue sera seraですよね」

原人「そのとおり」「なるようになるわい」

「いつも元気だけは出して、仲良くやっていこう」

私「原人さん、みなさん、乾杯しましょう!」

悟美「ええ」周子「はい」

原人「うむ、ナウルを教育ユートピアに!」

悟美・周子・私「ユートピアに乾杯!」


四人は姿勢よく胸を張って杯を挙げた。

とりわけ原人の背筋はシャキッと伸びている。

均整のとれた若々しい体つきは、亡母の形見である着物を仕立て直した剣衣と野袴の上からでもはっきりと見て取れる。

襟元から微かに香水サバージsauvageの香りが漂う。



私の愛する者たちが平安で伸び伸びとした人生を送ってほしい。同じように想う人々が本書を活用して大切な人へ愛のメッセージを伝えることができたとしたら嬉しく思います。

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