入院患者
この辺りは東京にほど近い都市で人口も多い。この町をカバーする大病院はいくつかあって、そのほかにもかなり大きな総合病院があった。
その病院ではある種の重い病気の治療に力を入れていて、それに関わる手術のあとには必ずあるリハビリテーションの施設も充実していた。病院の周りはけっこう大きな森に囲まれていて、同じ森の中に私立の学校があった。静かな環境で、病院や学校にはいい土地柄だったといえるだろう。病院の裏側にはフェンスが張り巡らされていて、そのフェンスの向こうは幅が5メートルほどの川が流れている。病院のこの裏側は川べりであることと迫る森の木々のせいで暗くて寂しい感じがする。病院の職員は、この道を通って奥にある通用口から病院へ入退所している。ただ、多くの者は車やバイクで通勤してくるので、建物と反対側にある駐車場側を利用する。だからこの裏側の道は川がザァザァ流れる音と木の枝がこすれ合う音しか聞こえないとにかく寂しい道だった。
トシヨマ・ユタカはこの病院に入院して1ヶ月になる。本当ならもう「本命の手術」をして治療を進めたいところだが彼にはほかにやっかいな病気があり、そっちの様子を見て安定、安全が確認されるまで本命のほうは保留するという方針になっていた。
彼は自分の命がそれほど長くないということを自覚していた。だから、治療などやめてもいいように思っていたが、いざとなると「最後の望み」を賭けてみたい。そういうことだった。
トヨシマは入院当初、車いすでの移動を病院側から強制されていたのと、当初は腕にいろいろと管が繋がっていたので、たとえ車いすに乗ったとしても自分でスイスイと思うようには進めなかった。結局、車いすには乗れるが移動自体は看護師に付き添ってもらわねば何もできなかったのだ。
彼の担当看護師はタカハシ・ケイコといった。32才で独身だという。名前は患者のベッドやら各種書類に担当者として書いてあるからすぐにわかるが、ほかの細々した個人データも、入院しているとドンドン耳に入ってくる。入院患者は何しろヒマだし口が減らないのも多いし、特に中年以上の男の入院患者は少しこぎれいな女性看護師と話すのを格好の暇つぶしと思って楽しみにしているものも多いからだ。なにかと個人的な質問を投げかけられる看護師のほうも慣れっ子になっていて、そんなことまで答えなくてもいいにと思うようなことも聞かなくても答える者がいる。そうしてそれらが、深刻になりがちが病院の中をささやかに明るくしているのだろう。
トヨシマは入院して最初の一ヶ月ほどを本命外の「やっかいな別の病気」が安定してくるまで様子を見ていたから、腕に通した管から数種類の薬を日々体に流し込んでいる以外は、たまに検査があるだけでこれと言ったやることも無く過ごしていた。簡単に言うと、「体の調子は悪いがものすごくヒマ」ということである。それを哀れんで看護師のタカハシ・ケイコはしばしば彼を「屋上の庭園」に連れて行ってくれた。それは病院の屋上の周囲を塀で取り囲み、内側を安全に歩けるようにしてある場所だった。植木鉢がいくつもあり、患者が水やりして育てている。植木というとよく知ったおじいさなどもいて、入院中に、どう育てたらいいか看護師に教えてくれて、言うように育て、立派にきれいな花が咲いたりしている。
屋上庭園の一角に車いすを止め、鉢植えの草花や少し見える周囲の風景、空を見ながら二人はしばらく話をした。
「退院したらお仕事はどうなるんですか?」タカハシは、そういうことをよく聞くのだろう。なんのためらいも無かった。だが恐らくトヨシマは同じ仕事に復帰できることは無いと思ったし、そもそも首と言われてしまうかも知れない。今までやっていた仕事ができないならほかにやることはない。そういう会社だった。盲動しようも無いと豊島は思っていたから、タカハシにもそのとおりに話した。
「そうなんですか」恐らくタカハシはそれ以上何も言えなかっただろう。妙な期待を持たせたりすることも言えない。気落ちさせることもしたくない。おかしなことを聞いてしまったと思っていたかも知れない。
「わたしみたいなのは、体を壊すともうどうにもならなくてね」トヨシマはそういって笑った。タカハシ・ケイコは少ししゅんとした顔つきだった。
実はこの屋上庭園はドアさえ開ければ屋上の外周部分。つまり端へ出られるようになっていた。そこは通常、患者は通れないようになっていたが、屋上の橋へ行けると言うことは誰にでも見ればわかっただろう。
数日して、トヨシマは自力で歩いていいことになった。点滴も一本で、それさえ引きずって歩けば自分でトイレにでもいけるし屋上庭園にも行けた。そして、その日は少し寒くて、そして時間帯のせいもあったろう。屋上庭園には誰も居なかった。トヨシマは興味本位で屋上の外周部分に出るドアのノブを捻ってみた。
「開いてるのか」トヨシマは思わず口からでた。ひどく不用心な気がした。そして彼は周りに誰も居ないのを見てドアの向こう側へ行ってみた。
屋上を一周できるというわけでは無かった。主に見えるのは病院の裏の森とその向こうの私立学校の屋根と、下に見えるのは病院の裏側の川沿いの暗い道だった。だが、なんだかいい気分になれた。森からの空気が直接吸えるような気がした。トヨシマはそうして、人目を忍んでそこへ行くことを楽しみにした。
ある日、もう夕方近くなってからトヨシマは例の屋上の端っこまで来てフェンスにもたれて川の流れを見てた。右手の病院の建物のほうから誰かが一人出てきた。タカハシ・ケイコだとすぐにわかった。彼女はいつもの看護師の格好をしていたが右手に何か持っていた。そして少し伏し目がちに小走りで外のほうへ行くと、そこに男がいた。8階建ての屋上からだから、どんな男は可わからないが派手めな30代くらいの男に見えた。タカハシ・ケイコはその男に会うと一言二言はなし、そして何を男に渡した。「金か」トヨシマにはそう見えた。男はひったくるようにそれをタカハシ・ケイコから取り上げて、彼女を置いてサッサと外のほうへ戻っていった。タカハシ・ケイコは男の後ろ姿を少し見ていたが、また小走りに病院の建物へ戻っていった。金を受け取った男は、少し進むと、ちょうどトヨシマが見ている真下辺りまで来て建物の角の影になるとこで立ち止まり、手にした金を数えているようだった。よくは見えないが千円札ってことは無いだろうから「7,8万」、トヨシマはそう思った。男はそれをズボンのポケットにねじ込んで、小走りに外へ向かっていった。建物の影になってよくわからないが、恐らく病院の裏通路側の道路に車をと止めているのだろう。薄暮の中で黒い車体が少しだけ見えた。
その後もトヨシマは同じくらいの時間に病院の屋上からタカハシ・ケイコと男のやりとりを何度か見た。トヨシマは、男のことを「天使の寄生虫」と思ってみていた。そしてなにか、あって欲しくない現実を見ている気がした。明るく献身的な、人に優しい天使は、悪い者に取りつかれて、自らは疲弊している。そう思うと怒りがこみ上げてきた。そして、最期に自分がなにかできることがあるとしたら、こんな程度ではないか、そんな風に思った。
朝からかなり雨が降っていた。こんな日でもあの男はきちんとやってくる。人から金をふんだくっていくくせに時間には正確だ。毎週こんなことをやっている。
もうこの時間は日が落ちてほとんど暗くなっていた。いつものように男が来て、そこへ傘を持ったタカハシ・ケイコがやってくる。金を渡す。男は金を受け取ると回れ右してヒョイヒョイと走り出す。タカハシ・ケイコは戻っていく。男は途中で止まり金を勘定する。
トヨシマはこの2人の一連の行動をきょうは2階の窓から見ていた。この病院の2階のこの部分は小さい倉庫になっていて、小さい窓がある。そこから見ていた。男は今、トヨシマのすぐ目の前といった場所に彼が見ているとも知らずに立ち止まり金を数えている。トヨシマは用意していた数キロはあるコンクリートブロックを男の頭めがけて窓から落とした。「ゴツン」と鈍い音がして男は雨の中に倒れた。そして動かない。トヨシマは急いで下に降りると雨の中に出ていって倒れた男のところへ行った。気を失っているだけだ、死んでは居ない。頭から血を流している。トヨシマは男を引きずって川沿いのフェンスの壊れた裂け目に男の体を押し込んで川に転げ落とした。朝から降り続いている雨は、小さな川を増水させ恐ろしい濁流に変えていた。男の体はその濁流に飲み込まれるとすぐに見えなくなった。その場に流れた男の血も人の足跡も何もかも雨が洗い流した。
トヨシマはそしらぬ顔で5階の病室まで戻った。そして、病室を訪れたタカハシ・ケイコに「外を歩いたら濡れてしまって」とおかしな作り話をして苦笑して見せ、着替えの院内着を用意してもらった。彼女はトヨシマが頭を拭くタオルなども用意してくれた。
3日経っても4日経っても。2週間経っても1ヶ月経っても、あの男らしい死体が見つかったという報道は聞かれなかった。ここは海からそれほど遠くなく、あの日の雨は長く降り続いたので、恐らく男の体はひどく遠くまで運び去られてしまったのだろう。そしてそのころには、やっとトヨシマの「本命の手術」が行われて経過観察期間に入っていた。それでまた少しの間「車いす生活」になった。
よく晴れた暖かい日。例の屋上庭園へタカハシはトヨシマを連れて行ってくれた。いくつかの鉢に前と違うきれいな花が咲いていた。そして、その庭の一角に前と同じようにタカハシ・ケイコはトヨシマの車いすを止めて話をした。大概は当たり障りの無い話をするのだが、その日の彼女は自分の家族の話をした。両親はすでに亡いこと。そして、
「兄が一人居るんですが。最近、顔を見せなくなりました」
それを聞いてトヨシマは凍り付いた。ずっと「天使を蹂躙する薄汚い者」とだけ思っていたからだ。
「兄はね、小さいときはすごく優しくて、よく遊んだんですよ。あの頃はよかったって、よく思います。それが、何が切っ掛けでそうなったのかわからないけれど、親と折り合いが悪くなって、家を飛び出して。でもお金だけは取りに来るの。そういう生活をずっと続けていて。自分では仕事もしないで遊びほうけてばかりで……父も母も、もちろん理由はそれだけじゃ無いけれど、3年前に続けて亡くなってしまって。それからはわたしのところへ毎週のように来ていました」
そこまで聞いてトヨシマはやっと一言、
「そう……」そう返事ができた。
『いないほうがいい家族もいるんだよ』トヨシマはそんな言い訳を思いついたが口には出さなかった。代わりに、
「きっと、どこかで気ままに暮らしているんでしょう」
「そうでしょうか。そう思うことにします」
「ええ。思うのは、遊んでくれた優しいお兄さんだけにして」
それから2週間ほどして、容体が急変しトヨシマは他界した。
天使を助けた人間がいてもいいだろう。ただし、彼がこれから向かうのはちょっと違う場所だろうが。