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楽園のシンギュラリティ  作者: けいえふ
1/12

一話 奇跡

 



 これで百八十二回目の心肺停止。


 心電図のアラームが鳴り響く広い病室には誰もいない。

 寝台に横たわるのは、血塗れの拘束衣に身を包み、頭と手足を包帯巻きにされ、猿轡を噛まされた男。

 奇病に侵された彼は、耐え難い苦痛に体を捩り断末魔の叫びをあげて眠ったのだ。

 しかし永眠することは出来ない。何故ならすぐに、百八十二回目の蘇生が始まるのだから。

 

「があああアアッッッ!!!」


 寝台から遺体が激しく飛び上がる。心電図の波形は再び激しく波打ち、また終焉を迎えることが出来なかったという絶望がアラームの音をかき消す。体を炎で炙られるような感覚に、激しく上肢を捩る。


「ぐあああっっ!!があああァァ!!!」


 寝台に何度も頭を打ち付ける、脳が壊れれば楽になれるかも。目を潰して指を突っ込めば、その指で脳をかき回すことができるだろうか。

 猿轡を噛み切ろうと歯を突き立てる、舌を噛むことができれば失血死できる。拘束衣を引きちぎり、自らの胸に爪を立てる。皮膚を穿って骨を砕けば、その下にある心臓を握り潰すことができるかもしれない。


 あんなに苦労して壊したのに、また初めからやり直し。少しずつ上手くなってきてる。あと十回も繰り返せば、きっと望みは叶うだろう。

 彼はそんな淡い期待を胸に百八十三回目の心肺停止に向かう。生に抗い、死に恋い焦がれる。


 人生の幸せのために、自分の欲を満たすために必死で生きてきた彼は、いつしか奇病に侵され、怨嗟を吐き散らす醜怪な者へ変わり果て、そして最後は人間ですら無くなった。


 百八十三回目の心肺停止。


 可哀想に。また初めからやり直し。


 次も次もその次も、きっと彼は永久に死ぬことが出来ない。そんな彼に奇跡が起きたのは、もう何度目か解らないほど繰り返した蘇生の後。


 人生の終わり、その最後に彼は呟いた。


「死なせてくれてありがとう」

 





 □ ■ □ ■ □ ■ □ ■






「うちの技術は医療目的に作られたものじゃない、わかってますよね?」


 白のスーツ、糊のきいた紫のシャツに黒のネクタイを締め、豊かな黒髪は整髪料でベタベタに撫でつけてある。

 ここが隔離病棟であることを考えれば、明らかに場違いな装いの三十代の男は革靴の踵を甲高く鳴らしながらエレベーターへ足を踏み入れると、苛立ちを隠そうともせずにそう尋ねた。


「わかっているよ、まったく。何故もっと早く来てくれなかったんだ? 連絡してからもう一ヶ月になる」


 どこか気品のある出で立ちの男とは対照的に、剃り上げたつるつるの頭。よれよれのワイシャツに、いかにも医師らしく白衣を羽織り、無精ひげを生やした壮年の男は、密閉された籠の中に充満する香水の臭いに顔をしかめながらそう訴え、地下へのボタンを叩く。扉が閉じると、二人を乗せた籠は降下し始める。


「簡単に動けるわけないでしょう、日本中の患者を"エデン"に送るつもりですか?例え条件が揃っていようが、誰彼つれていくことはできない。軽く見ないでもらいたいですね」

「もちろん、軽く見ちゃいない。送った動画は見てくれたかな?」


 医師の問いに男は眉を寄せて無言で頷く。医師からのメールに添付された動画は確認済みだ。男には出来の悪いフェイク動画のようにしか見えなかったが。


「家族は無し、独身で二十代。病名は……なんでしたっけ?」

「病名はまだ無い。我々は不死病、と呼んでいるがね」


 男は嘲るように鼻を鳴らす。そんな病が存在するはずは無い。輸血と点滴を止め、楽に死なせてやればいい。今の無慈悲な延命措置が、彼を苦しめる一番の原因だろう。


「不死病ねぇ……悪いが、これが同情を誘おうという作戦なら失敗だ。患者を見せられたところでエデン行きは難しいと断言する」


 人類が死を克服する。そのための技術として開発された楽園エデン。

 映画や漫画、小説で使い古されたような話だが、サイバースペースへと人の魂を送り込み、その魂は電子世界で生き続ける。

 フルダイブVRの映像体験ではない。命そのものを肉体から解放するのだ。


 細胞の老化により確実に訪れる寿命。肉体を離れた命はスーパーコンピューター『エデン』の中で不老不死の生命体となる。残された肉体は植物状態となり、魂が無くても延命措置さえ施されていれば生き続ける。


 勿論、この技術は世間には非公開。政府管轄のこのプロジェクトによって生まれた電子世界の楽園は完成間近。それでも抱える問題は多いが、現在安定して転移を成功させるために、身よりのない被験者を対象にデータ収集のためにテストを繰り返している。


 被験者の大半は助かる見込みのない重病人。成功率は七割といったところで、残りの三割はというと……正直影も形もなく消滅。失敗する原因は解明出来ていない。


「君たちの研究は素晴らしい成果を生むだろう。だが、完成した楽園に行くことができるのは選別されたほんの一握りの人間だけ。これから先も現実世界で肉体を持ち、普通の人間として生きていく者のほうが圧倒的に多い」


 医師の言葉の後、エレベーターの扉が開く。仄暗い廊下が眼前に伸びている。医師は"開く"ボタンを長押ししながら、男に先に行くよう促すと話を続ける。


「君は彼をエデンへ招待するだろう。なぜなら彼は、肉体を持って生きる人々の希望となるからだ。その功績を考えれば、彼にはエデンに行く資格があると言える」


 目を輝かせる医師を訝しげに見る男。患者は確かに死なないようだが、動画を見る限り、好ましい不死の形とは言い難い。


「あんなにも苦しんでいる人間を見たことがない、患者のようになりたいなんて思う人間はいないでしょう? あれは理想的な不死ではない」

「不死?それもいいが、我々が注目しているのはそこではない。彼の体に住まう未知の生命体だよ」


 思わず足を止めた男は、血相を変えて医師を睨みつける。生命体と医師は口にした、患者が罹患しているのは感染症ということだろうか、だとしたらとんでもないことだ。


「貴様、何を考えている!? 感染のリスクを負わせてまで、あんな不気味な症状を引き起こす病に私を近づけようとしているのか!?」


 なだめるように両手をふわふわと揺らす医師の目は依然として輝き続けている。「人の話は最後までききたまえ」と流し目で歩き出す医師だが、男はその後を追わない。医師は立ち止まると男を振り返る。


「南極の氷下湖の話をしよう」

「……なに? 何のことだ」


 突然医師の口から飛び出した意味不明な言葉。男は激昂しつつも目を白黒させているが、そんなのお構いなしといった様子で、医師は語り出す。


 南極の氷の下には四百もの湖が存在する。塩分濃度が濃く、生物が生存するには過酷な環境の塩水の湖である。

 無酸素な上に日の光は届かず、塩水はやや酸性で摂氏マイナス十三度。


 しかしそんな環境の中に、数千年前の生物が保存されている。そしてその生物の蘇生に成功していることは既に周知の事実。

 その湖のうちの一つを調査中に最近発見された、新種の微生物の研究が進められている。


「それがどうしたんです?」

「つまらん反応だな、未知の微生物がまだ地球上に存在しているのだぞ!?」

「興味がありませんね。それにあなたは医師でしょう? 全く話が見えないのですが?」


 その微生物の研究のため、回収したサンプルが日本に持ち込まれた。しかしそのサンプルには、研究対象の微生物とは"別の個体”も含まれていた。

 その想定外の小さな小さな訪問者は、恐ろしいことに研究者の体内に呼気と共に入り込み、その者を死に至らせたのだった。


「ふざけるな!! とんでもない話じゃないか、帰らせてもらう!!」


 つまり未知の感染症が日本にやってきたということだ。今から向かおうとしている病室にはその感染症に罹患している男がいるということ。男は怒号を吐いて踵を返すが、医師は駆け寄るとその腕を掴んで制止する。


「放せ!!」

「落ち着きたまえ、君たちにとって悪い話ではない」


 感染したのは研究者二名。二名ともこの病院に運び込まれ、死亡した。死因解明のために解剖した結果、死因はショック死。不思議なことに体内に異常は見られなかったが、それが問題だった。


「問題? どういうことだ」

「患者の一人は元々、癌治療で肝臓の一部を切除していたんだが……完治していたんだ。切除したはずの肝臓は元の状態に戻り、癌細胞は全て消滅していた」


 あまりにも現実離れした話。しかし医師の目はその話が真実であると訴えている。そのまま医師は作り話のような実話を語り続けた。


 ショック死の原因は全身を襲う、火炙りにされているような激痛。焼身自殺を計った者は、あまりの苦痛に炎に身を任すことに絶えかねて、別の方法で命を絶つという。

 この微生物が引き起こす症状で実際に発火する訳ではないが、死ぬ間際に二人の研究員は苦しみなからも自傷行為を行うという奇行に走り、炎で焼かれているようだと口にしたらしい。


「これから紹介する患者も、その症状に苦しんでいるのだよ」

「……患者は研究員なのか?」

「いや、彼は一般人だ」

「は?」


 ごく平凡な生活を送っていた一般人の患者が感染した経緯は、不幸としか言い様のないものだった。

 住んでいるマンションの階段で転倒し、骨折。立ち上がることも叶わず、救急車を呼んだわけだが、駆けつけたのは数日前研究員を乗せたものと同じ救急車。

 事前に行われた救急車の消毒後の点検では微生物の存在は確認されなかったが、生き延びた微生物は確かにその車内に存在していたらしい。


 搬送される途中で彼は感染。治療をすませて帰宅した数日後、発熱と激しい激痛に見舞われて、今度はこの病院へと緊急搬送されてきた。


「救急車に同乗していた救急隊員も一名罹患して死亡。しかし彼は……」

「死ななかった」

「そうだ。他の犠牲者に見られなかった、自己の心肺蘇生。恐らくこれも微生物によるものだが、引き起こる条件がまだわからない」


 患者は苦しみに耐えかねて自傷行為を繰り返すという地獄をその蘇生によって何百回と繰り返している。男はそれが自分の身に起こったらと想像しようとしてみるが、そんな苦しみは理解の範疇を越えてしまっている。


「暴れる彼の体内を調べたいのだが、鎮静剤も効かないのだよ。微生物が投与される薬の効果を抑制しているように思える」


 研究施設は閉鎖、救急車も今は隔離して安置してある。この微生物が拡散して集団感染が引き起こされれば、大変なことになる。

 しかしこの微生物の増殖は確認されず、単体で寄生。宿主が絶命すると微生物も死滅するらしい。間接的に他の生物に感染することはないようだった。


「だから感染はしないよ、保証する」

「信用できないな」

「やれやれ……それから、彼の体に起きた変化について説明しよう。この微生物が、彼の中のある能力を覚醒させたらしい」

「能力?」


 地球に生物が誕生し、人類がまだアメーバ状だった頃からの進化の過程で失われた能力。ほとんどの生物が持ち合わせていない、夢のようなその能力は、


「再生能力だ」


 目をくり抜き、舌を噛んで、皮膚をはぎ、打ち付けて折れた骨に損傷した内蔵。その全てが、蘇生したとき"完全に元に戻っている"。最初の犠牲者と同様に。そして完治までの時間はわずか三時間。


「自力で再生することが不可能な臓器までも、短時間で再生するという奇跡が今我々の手の中にある。彼の体内を調べたい、その再生能力の秘密を、微生物の力を解明したいのだ」


 南極の氷の下で眠っていた未知の生物によってもたらされた奇跡。もし苦痛を取り除き、患者の持つ再生能力だけを取り出すことに成功したのなら、人類は進化の階段を一つ上ることになる。


「治療の術が無い怪我や病に苦しむ人々を救うことができる。人類の未来は明るいものになるぞ」


 人類の肉体が死を克服する。しかしその奇跡を全ての人々にもたらすというわけにはいかない。エデンへの移住も実験段階を越えた後、正式な選別を行うことになる。


「人間の肉体から死を取り去ることは混乱を招くことになるでしょう」

「エデンを開発している君がそれを言うのかね?」


 エデンは肉体からの解放によって魂の不死をもたらす。医師が研究しようとしているのは肉体を捨てることなくもたらされる不死。しかしそれによって起こる弊害も数多くあるだろう。


「世界の人口増加が加速することに……」


 人口増加が加速することになり、それにともなう地球の温暖化まで比例して加速する。男はそれを最後まで言い切る前に、目を大きくして医師の顔を見る。医師はその様子を見て笑い、廊下を再び歩き始めた。帰る気など完全に失せた男はその後を追う。


「さて、増えすぎた人類をどうする? 火星にでも送るかね?」


 火星への移住計画は実際に研究されているが、今のテクノロジーでは実現は不可能。必要な二酸化炭素が宇宙空間に拡散してしまい、火星へ大気を作ることができないという研究論文が発表された。


「将来的にエデンへの移住可能条件を緩和する気が君たちにあるのなら、跳ね上がる需要によって莫大な富を得ることができる」


 現状でも人が死ぬ以上、エデンに需要があることは確実だ。医師の話は少し気が早いようにも思えるが、開発を成功させた先の未来を思うと、医師の提案を無碍にできない。


「なるほど。その未来のために、死ぬことができない患者の魂をエデンに送りたい」

「ようやく理解したか。我々はその生命体にエリクシールと名付けた」


 現状解っているのは、エリクシールが低温で活動を休止するということ、再生能力を付与するということ、そして特定の条件での蘇生の付与。患者を苦しめる炙られるような感覚は、微生物が高温を必要として引き起こすものではないか、という医師の見解を聞きながら廊下を歩いていると、


「があああああああ!!!ああアァァァ!!!」


 突然廊下に響きわたる叫び声と、暴れているような騒音。突然のことに男は目を丸くしている。医師は「始まったか」と呟いて、気にした様子もなく病室へ向かっていく。


「おいおい、何なんだ?」

「蘇生した。前回の心肺停止から三時間だ」


 蘇生の原因は未だに不明。三時間も酸素供給が中断されるにも関わらず、彼の脳はダメージを受けない。チアノーゼ(酸素不足によって皮膚や粘膜が青黒くなること)のような反応も見られない。エリクシールは患者に奇跡と地獄の業火の両方をもたらしたのだ。


 なるほど。こうも暴れられては困るということか、と男はやかましい騒音に顔をしかめながら理解した。

 ようやく病室の前に着くと、医師はドアノブに手をかける。


「そう怖がらなくていい。ガラスで仕切ってあるから、噛みつかれたりはしないよ」


 この男は患者を人間として見ているのだろうか?そんな疑問を抱きながら医師に続いて開かれたドアに足を踏み入れる。前面に広がるガラスの向こうには、固定されていない上肢を力の限り揺さぶって、己の双眼を両手で潰している最中の、血塗れのミイラのような患者の姿。


「あぁ、クソ!!」


 男は目をそらして毒づいた。面白がるように破顔した医師はそんな男の顔をのぞき込む。


「拘束衣が引きちぎられている、とんでもない力だ。あんな調子で暴れられるのは本当に困るんだ」

「その気色悪い顔を止めてもらえませんかね」

「エリクシールの研究が上手くいけば、再生医療は再び新しい進歩を遂げる。もちろん君たちにも礼はするよ」


 礼とはつまり金だ。エデン開発の糸口を掴んでからというもの、組織は選別された世界中の有力者にのみ秘密裏に情報を開示。

 選別された者は完成したエデンへ転移する権利を得る。世界中の財閥から莫大な資金が投資されているが、それでも足りない。

 医師の申し出はうれしい限りだが、今は、それ以外の問題にも直面していた。


「確かに開発の資金はいくらでも欲しい。エリクシールの研究に役立つなら喜んで協力したいところだ。だが、我々はある問題の早期解決を迫られている」

「問題?」

「エデンの住人と連絡がとれない」


 ここ数ヶ月間、エデンに起きた不具合に組織は頭を悩ませている。六十年間続いた研究は着々と成果を生んできた。

 しかしここまできて、既にエデンの中で生活している者達との連絡がとれないという緊急事態に陥った。

 エデンの本来の目的は、才能ある人間の永久保管。死を克服した偉人による助言はこれから先、国の運営をしていく上でも貴重なものとなる。電子世界との通信ができないというのは重要な機能の一つが失われたということ。


「壊れてしまったのか?」

「ここまできたんだ、意地でも直すさ」


 そのとき、二人の耳に入った心電図のアラーム音が患者の心肺停止を告げる。再び蘇生すると聞いていても、男はこの音に物悲しさを覚えた。


「さぁ、来てくれ」


 医師はおもむろに患者がいる奥の部屋へのドアノブをつかむ。男は患者の無惨な姿をガラス越しに見て、アレに近づくのかと首を横に振った。


「何を怖がっている?」

「こういうのは慣れてないんだ、抵抗があるのは当然だろ?」


 医師に続いて患者の部屋へと足を踏み入れる。男は鼻を突く生々しい嫌な臭いに、胸焼けを起こしてしまった。そんな男を見かねたように医師は手招きする。


「近くで見てみたまえ!」


 この医師はいかれている。再び爛々と目を輝かせる医師を見て、男にはそうとしか思えなかった。

 意を決して、腕で口と鼻を覆うと医師の横に並ぶ。初めは顔を歪めていた男だが、その光景に唖然としてしまう。


「なんだ……どうなってる」

「言っただろう?エリクシールの奇跡さ」


 患者によって無理矢理広げられた胸の傷が塞がっていく。くり抜いた眼球がゆっくりと生成され、次は瞼が作られ始める。

 まるで魔法のようだ。ありえない光景に、男はあとずさった。


「そんな……信じられない」

「人が自力で再生不可能な器官の再生、そしてこの再生スピード。恐らく腕ごと切り落としてもすぐに再生するだろう」


 それを試したくて仕方ない。とでも言いたげだな、そう思いながら、男は患者に手をかざしてみる。


「すごい熱だな」

「さっき伝えたように、エリクシールが原因の発熱だ。早く調べたいものだね」


 爆発してしまいそうなほどの高温を患者から感じる。しかし発火することも、そんな予兆も見られない。


「彼が希望になると言った理由がわかっただろう?」

「ああ……だが、無事にエデンに入れるかどうかはわからない」

「エデンに入れなくても、それでも救いにはなる」

「何?」

「彼はこの地獄を終わらせたがっている」


 エデン行きが失敗し、患者の魂が終わりを迎えても構わない。それは彼らが判断することではないだろうが、確かに患者にとって今の状態は耐え難い拷問と言える。


 "ファラリスの雄牛"と化した己の肉体から解放してやりたい。嘘のような現実を目の当たりにして、男は決意する。


「それが彼にとって救いとなるなら、試してみても良いだろう」

「彼は私に懇願したんだ。殺してください、お願いします。とね……しかしそれでは余りに報われない。彼が人類にもたらす功績は計り知れない。エデンの中で生きていける可能性があるなら、そうしてやるべきだ。十分すぎるほど、彼は苦しんだ」


 哀れみの表情を患者に向ける医師の顔は、先程までの狂人じみたもので無くなっていた。それが男を説得するための演技なのかは判断が付かない。


 男はジャケットに手を入れ、スマートフォンを取り出すと操作して耳に当てる。その様子を見て、医師は嬉しそうに何度も頷いている。


「……私だ。患者を確認した。そちらに移送する。………構わん、早急に転移の準備に入れ」


 このエリクシールの発見は世界を変え、この国、そして人類の助けとなるだろう。国からの恩返しが楽園での生活となれば、これ以上の喜びはないはず。異常事態のエデンへと、無事にたどり着ければの話だが。そう思い、男は高速再生を続ける患者を見下ろす。


「君を楽園へ招待する」







 □ ■ □ ■ □ ■





 こうして彼は不具合を起こしているエデンへの転移資格を得る。理由はその体を大人しい研究対象とするため。彼の意思は一切無く、権力によって身勝手な措置を施される事となった。

 隔離病棟から移送され、組織の施設でスーパーコンピューター『エデン』の中に転移したのだった。




 何もない、見知らぬ真っ白な空間で目を覚ました彼の心に広がるのは、苦しみから解放された喜びではない。


 「……ふざけんな」


 彼の心を埋め尽くすのは、自分に降りかかった残酷な運命に対する怒りだ。


 そして彼は知らない。このエデンはもう、かつての楽園ではない。彼は自分の意志とは関係なく、"作られた異世界"へとその身を投じられる。

 彼が広げる波紋はその異世界を揺るがす。これから彼の第二の人生が始まる。


 彼は楽園の特異点。


 『ルシアス・ラズキエル』として生まれ変わる。


 

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