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お面

作者: 宮沢弘
掲載日:2015/03/05

 朝。

 6時30分。いつもと同じ時間に目覚しが鳴る。

 妻の声。

 ……

 目を覚まし、いつもと同じように朝食をとる。

「行ってくる」

 妻に一言声をかけ、家を出る。

 7時00分。いつものように混んだ駅行きのバスに乗る。無言のままバスの奥へと押し込まれ、バスの揺れとともに振り子のように右へ、左へ……

 7時15分。駅につくとバスの中から吐き出され、人の流れにのまれ改札口へ、プラットホームへと押され、流されて行く。

 8時30分。列車から突き落とされるように降りると、やはり人の波の中を会社へ…

 5時20分。仕事が終わり、朝と同じように、ただ逆の方向へと人の海に飲まれ、家へと流される。


 毎日

     毎日

         毎日


 ずっと、こんな毎日だった。ずっと… 子供のころから同じだったような気がする。


 子供のころ、やはり朝は母の声で起こされ、バスで揺られ、列車で押しつぶされ、人の森の中いにた。学校では全てが、机、人、建物、そのほかのあらゆるものがきれいに、整然と並んでいた。それは、子供ながらにも美しいと感じたものだ。


 ただ、あの時までは…


 私が彼をはじめて見たのは、いつだっただろう?

 彼は駅のプラットホームの端にスーツを着てただ立っていた。静かに、たぶんぼんやりと。


 あの朝も、私は人に流され、プラットホームから列車の中へと押し込まれて行った。ただ押されるから。昨日までもそうだったから。そして列車は動きはじめた。

 そんな時だった。私が彼をはじめて見たのは。

「何だ? あれは?」

 彼はプラットホームの端に一人で立っていた。


 会社の帰りにも彼は立っていた。ただ一人で立っていた。夜店で売っているようなプラスチックのお面をつけて。

 次の日の朝も夜も、彼はお面をつけて立っていた。


 彼をはじめて見てから3日めの夜、私は自分でも気付かぬうちに彼に声をかけていた。

「… もしもし…」

「……」

「あの…」

「…何か?」

 ふいに彼はこちらに顔を向けた。お面を。

「あなたは何をなさっているのですか?」

 彼は少し首をかしげた。

「私が何かしていますか?」

「いえ、その、何かしているというわけじゃありませんが。その… おとといの朝からあなたを見かけたものですから。すいぶんと変わった人だなと思って」

「私が変わっていますか?」

「ええ」

「変わってはいないと思いますが?」

「いや、しかし、私たちはあなたの様には…」

「あなたは… あなた方は、お面をかぶってはいない?」

「… えぇ」


 無表情なプラスチックのお面との会話だった。私たちのような人間の中にあって、彼は異質だった。私はそのような彼をわけもなく警戒し、憎み、嫌悪した。怖くなり、彼を残し、家へと足を向けた。

 だが、それだけではなかった。強く興味をひかれた。とまどいながらも。心のどこかに、彼に共感する部分が生きていたからだろうか。


 次の日の夜、私はふたたび彼と話した。

「なぜ、あなたはそんなお面をつけているのですか?」

「なぜ? それは… あなた方と同じになりたいから」

「私たちはお面などつけていませんよ」

「そうなんですか? 私にはあなた方の仮面が見えます」

「仮面?」

「えぇ。私はこの一枚したお面をつけていない。この下には私の顔がある」

「それは当然でしょう」

「ですが、あなた方は、みんな、そう、みんなが何枚も何枚もの仮面をつけている。そして入れ替え、着け替えている。そして…」

「そして?」

「あなた方の仮面の下には… 何もない。私には、あなた方の顔が見えないのです。にもかかわらず…」

「にもかかわらず?」

「にもかかわらず… 生きている。しかも人間であるかのように」

 おそらくポカンとした顔をしていたのだろう。

「あなたにはわからないでしょう。ここにいてもしょうがありません。私も自分の家に帰ります。やはり、私はあなた方と同じにはなれない。もう、二度とあなた方と同じにはなれない」

「……」

「わからないでしょう。まだ、あなたには。まだ」


  まだ

      まだ

          まだ


 その言葉が私の耳の中で響いている間に、彼は消えていた。それ以来私は彼を見ていない。しかし、彼は今でもどこかの街角で、お面をかぶったまま立ち尽しているのかもしれない。


 彼の言葉は私の中で根をはりはじめ、語りかける。

「皆、彼と同じなんだ」

「仮面がなければ誰も生きていけない」

「私たちには顔がない」

「しかし、彼には顔がある」

……


私たちはいくつもの仮面をかぶっている。

良き会社員という仮面、

 良き夫という仮面、

  良き親という仮面、

   良き学生という仮面、

    良き子供とう仮面、

     良き…、

      良き…、

       良き…


 いつでも、何枚もの<仮面>をかぶって生きている。その<仮面>は、私たち人間が求め続けた平穏を得るためには、どうしても必要なのだろう。皆、<良き…>という<仮面>をかぶり、<良き…>という役割のもとに生きていく。この<仮面>がなければ人間は生きていけないのかもしれない。人間は<仮面>をかぶり続け、とうとう自分自身の<顔>が消えてしまった。おのれの<顔>を忘れてしまった。

 自分自身が<私>なのではなく、<仮面>が<私>になってしまった。そう。<良き…>としては機能しているが、<私>というものを失なってしまった。<私>がないのに、私たちは生きていると言えるのだろうか。

 <私>は、どこへ…


 彼は言っていた。

「私はあなた方と同じにはなれない。もう、二度とあなた方と同じにはなれない」

 そして、こうも言っていた。

「わからないでしょう。まだ、あなたには。まだ」

 彼の言葉の意味が、今の私にはわかる。今の私には<顔>があるから。<鏡>を覗き込めば、そこには私の<顔>が映る。だが、<顔>を得た私からは<仮面>がこぼれ落ちていき、私は自分自身の<顔>で生きていかなればならなくなった。


 私は今、プラットホームに立っている。プラスチックのお面をかぶって。

 ふと、私は気になった。私は、彼の<顔>を見ていない。

「この下には私の顔がある」

 彼には本当に<顔>があったのだろうか?

 彼は<誰>だったのか?


 私は立ち続けている。お面をかぶって…

 ただ一人…

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