お面
朝。
6時30分。いつもと同じ時間に目覚しが鳴る。
妻の声。
……
目を覚まし、いつもと同じように朝食をとる。
「行ってくる」
妻に一言声をかけ、家を出る。
7時00分。いつものように混んだ駅行きのバスに乗る。無言のままバスの奥へと押し込まれ、バスの揺れとともに振り子のように右へ、左へ……
7時15分。駅につくとバスの中から吐き出され、人の流れにのまれ改札口へ、プラットホームへと押され、流されて行く。
8時30分。列車から突き落とされるように降りると、やはり人の波の中を会社へ…
5時20分。仕事が終わり、朝と同じように、ただ逆の方向へと人の海に飲まれ、家へと流される。
毎日
毎日
毎日
ずっと、こんな毎日だった。ずっと… 子供のころから同じだったような気がする。
子供のころ、やはり朝は母の声で起こされ、バスで揺られ、列車で押しつぶされ、人の森の中いにた。学校では全てが、机、人、建物、そのほかのあらゆるものがきれいに、整然と並んでいた。それは、子供ながらにも美しいと感じたものだ。
ただ、あの時までは…
私が彼をはじめて見たのは、いつだっただろう?
彼は駅のプラットホームの端にスーツを着てただ立っていた。静かに、たぶんぼんやりと。
あの朝も、私は人に流され、プラットホームから列車の中へと押し込まれて行った。ただ押されるから。昨日までもそうだったから。そして列車は動きはじめた。
そんな時だった。私が彼をはじめて見たのは。
「何だ? あれは?」
彼はプラットホームの端に一人で立っていた。
会社の帰りにも彼は立っていた。ただ一人で立っていた。夜店で売っているようなプラスチックのお面をつけて。
次の日の朝も夜も、彼はお面をつけて立っていた。
彼をはじめて見てから3日めの夜、私は自分でも気付かぬうちに彼に声をかけていた。
「… もしもし…」
「……」
「あの…」
「…何か?」
ふいに彼はこちらに顔を向けた。お面を。
「あなたは何をなさっているのですか?」
彼は少し首をかしげた。
「私が何かしていますか?」
「いえ、その、何かしているというわけじゃありませんが。その… おとといの朝からあなたを見かけたものですから。すいぶんと変わった人だなと思って」
「私が変わっていますか?」
「ええ」
「変わってはいないと思いますが?」
「いや、しかし、私たちはあなたの様には…」
「あなたは… あなた方は、お面をかぶってはいない?」
「… えぇ」
無表情なプラスチックのお面との会話だった。私たちのような人間の中にあって、彼は異質だった。私はそのような彼をわけもなく警戒し、憎み、嫌悪した。怖くなり、彼を残し、家へと足を向けた。
だが、それだけではなかった。強く興味をひかれた。とまどいながらも。心のどこかに、彼に共感する部分が生きていたからだろうか。
次の日の夜、私はふたたび彼と話した。
「なぜ、あなたはそんなお面をつけているのですか?」
「なぜ? それは… あなた方と同じになりたいから」
「私たちはお面などつけていませんよ」
「そうなんですか? 私にはあなた方の仮面が見えます」
「仮面?」
「えぇ。私はこの一枚したお面をつけていない。この下には私の顔がある」
「それは当然でしょう」
「ですが、あなた方は、みんな、そう、みんなが何枚も何枚もの仮面をつけている。そして入れ替え、着け替えている。そして…」
「そして?」
「あなた方の仮面の下には… 何もない。私には、あなた方の顔が見えないのです。にもかかわらず…」
「にもかかわらず?」
「にもかかわらず… 生きている。しかも人間であるかのように」
おそらくポカンとした顔をしていたのだろう。
「あなたにはわからないでしょう。ここにいてもしょうがありません。私も自分の家に帰ります。やはり、私はあなた方と同じにはなれない。もう、二度とあなた方と同じにはなれない」
「……」
「わからないでしょう。まだ、あなたには。まだ」
まだ
まだ
まだ
その言葉が私の耳の中で響いている間に、彼は消えていた。それ以来私は彼を見ていない。しかし、彼は今でもどこかの街角で、お面をかぶったまま立ち尽しているのかもしれない。
彼の言葉は私の中で根をはりはじめ、語りかける。
「皆、彼と同じなんだ」
「仮面がなければ誰も生きていけない」
「私たちには顔がない」
「しかし、彼には顔がある」
……
私たちはいくつもの仮面をかぶっている。
良き会社員という仮面、
良き夫という仮面、
良き親という仮面、
良き学生という仮面、
良き子供とう仮面、
良き…、
良き…、
良き…
いつでも、何枚もの<仮面>をかぶって生きている。その<仮面>は、私たち人間が求め続けた平穏を得るためには、どうしても必要なのだろう。皆、<良き…>という<仮面>をかぶり、<良き…>という役割のもとに生きていく。この<仮面>がなければ人間は生きていけないのかもしれない。人間は<仮面>をかぶり続け、とうとう自分自身の<顔>が消えてしまった。おのれの<顔>を忘れてしまった。
自分自身が<私>なのではなく、<仮面>が<私>になってしまった。そう。<良き…>としては機能しているが、<私>というものを失なってしまった。<私>がないのに、私たちは生きていると言えるのだろうか。
<私>は、どこへ…
彼は言っていた。
「私はあなた方と同じにはなれない。もう、二度とあなた方と同じにはなれない」
そして、こうも言っていた。
「わからないでしょう。まだ、あなたには。まだ」
彼の言葉の意味が、今の私にはわかる。今の私には<顔>があるから。<鏡>を覗き込めば、そこには私の<顔>が映る。だが、<顔>を得た私からは<仮面>がこぼれ落ちていき、私は自分自身の<顔>で生きていかなればならなくなった。
私は今、プラットホームに立っている。プラスチックのお面をかぶって。
ふと、私は気になった。私は、彼の<顔>を見ていない。
「この下には私の顔がある」
彼には本当に<顔>があったのだろうか?
彼は<誰>だったのか?
私は立ち続けている。お面をかぶって…
ただ一人…




