(3)
逃した。大きなチャンスを。
落胆は大きかった。連絡手段もない。運行手段もない。歩いてあてもなく戻ってみるか。いや、そんなの危険すぎる。途方にくれた私はとりあえず車中へとまた戻る事にした。
転んだ体を持ち上げ、衣服の汚れを払った。その時、手が不愉快な感触を捉えた。何か水気を帯びたしっとりした感触が私の胸の当たりから腹部にまで広範囲で染み渡っているようだった。不可解だったのはその出所だ。最初それは地面に残った雨水か何かかと思ったが、確認しても大地にその様子はない。あまり気は進まなかったが私はべっとりとしたその手を自分の鼻へと近づけた。匂いが鼻腔を刺激した瞬間、私はすぐに手を遠ざけた。
鉄のような匂い。この匂いは……。
咄嗟に私は自分の衣服をまさぐり胸や腹など素肌の状態を確かめる。
問題はない。何も。ならばこれは……。
その瞬間思った。私は何か、大事な事を、とんでもなく大事な事を、忘れてしまっているような気がする。
私はふらふらと前へと進む。車に戻らず、そのまま橋の方へと。ほとんど本能的に。
橋は人二人通るには狭いが、一人通る分には少し持て余すほどの幅でおよそ50m先まで続いている。どうやらその先はまた別の山の中へと続いているようだった。橋には鉄製の手すりが備え付けられていたが高さは腰のあたりまでしかなく、安全性は決して高いと言えるものではなかった。
ぎしぎしと足元から木製の軋む音が伝わってくる。この先に答えがある。そんな気がしてならない。しっかりと一歩一歩、確認するように足を動かす。
気のせいだと思っていた感覚が遠ざかり、違う感覚が身を包んでいく。
橋の真ん中まで来た辺りで私は足を止めた。いや、止まった。
ここだ。ここなのだ。
誰かが直接私の脳に記憶チップでも差し込んできたかのように、データが急激に流し込まれてくる。
なんでこんな大事な事を、私は平然と忘れてしまえていたのか。
私は、彼女を。静絵を。
殺した。