5:おいなりさん
イチョウが黄色い羽を落とし、吐いた息が白くなる。
腰をかがめて落葉をすくうと口元まで巻き付けたマフラーがずり落ちかけて、冷たくなった指先で引き上げる。
日課の買い物は最近の趣味の一つ。踏みしめた足が小石を幾つか跳ねさせた。
――こんびに。小さく口の中で呟いて、爪先を踏み出すと、映画館の暗幕みたいにガラス戸が静かに開く。
外の冷気と暖房が混ざり合って不思議な暖かさが頬を撫でる。
時代も進歩した物だ、現代人らしくない感想を抱きながら三科は右肩から店内に入り込む。
「いっ……いらっしゃいませ!!」
妙に気合いの入った声に首をすくめ、ふらふらいつものコーナーに向かう。
「油あげ」
と、特大サイズの油揚げに伸ばした指が止まる。
思案げに眉をひそめ、指先で油揚げのパックを掴んで側にいる店員に近寄る。
「…あの」
「は、はいっ!?」
とてとて無造作に近寄ってきた割に音がたたない事に驚いたのか、女性店員はびくっと身体を震わせこわごわと三科を眺める。
「女の人っていなり寿司好き?」
「は?」
突拍子もない質問に間の抜けた呻き。戸惑いがありありと辺りに伝わるが人気がない事もあり手を貸そうと現れる者は居ない。
「油揚げより、いいよね?」
「え、ええ。油揚げよりはいなり寿司が良いんじゃないでしょうか」
答えに満足したのか少しだけ顔をほころばせ、
「そう。じゃあ、そうする」
呆けた店員を置き去りに天井をこわごわ見上げた後レジへ音を立てず向かっていった。
静かに空気を切断する自動ドアを気にしながら肩の埃を払う。
「今度は別の所で買お」
天井に張り付いていた禍々しい空気を思い出して身震いする。指先に引っかけた買い物袋が歩くたびに揺れる。
視界の端に見知った気配を感じて顔を上げた。
擦れたジーンズにラインの入ったセーターの上から黒のジャケットを羽織ったラフな格好の幼馴染みの姿があった。
「良二」
「よっ。陸これから何処か行くのか?」
小さく呟くと返事代わりに良二は片手を上げ、気安く笑う。
尋ねられて瞠目し、眉を寄せた。特にアテがあるわけでもない。
アテがあるわけでもないのに何故か目的の人物が居ないと困る品物まで買ってしまった。その事にも眉が寄る。
「とくには。あ……公園、かな」
考えに考えあぐねた結果、絞り出した答えはその程度のもの。
「この寒いのにあんな寒いところに行くのか」
「うん。なんとなく」
頷いて、視線が自然と手元に落ちる。白いビニール袋はぷらりぷらりと所在なげに揺れていた。
「それ油揚げ? 今日は休みだろ」
「そうだけど。なんとなく――」
口の中で呻いて、ぶら下げたビニールを弄る。
確かに親友の仏頂面ももっともで、上手い返答が出来ない。
肩を撫でる冷たい空気に混じる暖かな匂いに振り返る。公園の方向だ。
「用事思い出したから行く」
「あ。陸」
呆然とした良二の声を背に、ふっと空気が軽くなるのを感じながら小走りでその元へ掛けていった。
そんなに遠いはずでもなかったのに小刻みに唇から白い吐息が漏れる。
「笠木」
名前を唇から吐き出して、少しだけ空気を吸い込むと息苦しさはマシになった。
柔らかな空気をたたえた対の狐を肩に載せ、彼女が驚き混じりに微笑む。
「あっれ、三科。偶然だね」
「うん」
ぽわ、と見つめてしまうのは神秘的な両の狐のせいだと思っていた。横にいると暖かく、静かな落ち着いた気持ちになれる。
本人に自覚症状はなくても、コンビニの天井で見てしまった黒々とした不気味な物は彼女に近寄れない。
半ば生き神社か寺になっている少女は肩の重さを気にするように首を曲げ、近場の石に腰掛ける。
優美な狐が居座る彼女の側は、暖房の効いたコンビニよりも暖かい。
「おきつねさまに会いに来たの? 三科も好きだよねおきつねさま」
「うん」
出会いもおきつねさま、何かあればおきつねさま。流石に呆れられているのか、苦笑された。
「いくら暖冬っても公園の中は寒いね」
「……うん」
何となく頷く。頭の中が半分ほんわりと暖かくなって思考回路は上手く働いていなかった。
「三科。うん以外言ってくれると嬉しい」
「そう、だね?」
希望通りうん以外告げては見たが、彼女の表情を見る限り期待には答えられなかったらしい。
「まあいいや、今日もおきつねさまは元気そうなの?」
「元気そう」
首を縦に振る。見た限り、初めの頃よりも毛艶は良いし、体積も増している。
霊力が上がるのは良いことなのに、近頃笠木の表情の端々に疲労の色が見える。
三科からしてみれば不思議でしかない。休日にもかかわらず、気怠げな様子で彼女は肩を叩く。
柔らかな毛並みを突き抜けて、肩とおぼしき場所を一通り探り息をつく。実体が無い(と思う)おきつねさまに彼女が触れることはない。
その手の物に免疫のある三科としては触れるかも知れないので触ってみたいところだが、おきつねさま自身からお許しを貰っていないので触るに触れない。
下手な毛皮より暖かそうな二匹に包まれていても、笠木は寒そうに両手を合わせ、自分の手の甲に息を吐きながらビニールを目で示す。
「マメだね。油揚げ?」
手探りで目的のパックを探し当て、差し出す。もう慣れたのか、うんざりとした様子もなく彼女は油揚げを受け取った。
残った品を渡すのは、なんでか躊躇われて唇を動かすのに時間がとても掛かった。
「それから……これ」
両手で掲げるように渡すと、少女はキョトンと瞳を瞬いた。
「いなり寿司」
がさがさとビニールを覗き、不思議そうに三科を見つめる。
「笠木にあげる」
何だか無性に気恥ずかしく少しだけ俯いて、呟いた。
「へっ。わたし?」
酷くうろたえる彼女。虫の羽音みたいに小さい声だったが、何とか聞こえたらしい。
「どうして」
どうしてと問われても、三科自身もよく分からないので心の中で首を傾げる。
「……なんとなく。笠木に食べて貰おうと思って」
そう思っただけだから。心の中で付け足す。
考えると、おきつねさまに捧げものは数あれど、少女へ贈ったのは初めてだ。
元々出会いからしておきつねさま繋がりで、笠木へは深く関わったことはなかった。心変わりの理由は未だによく分からないが、受け取って貰えて少しだけ安心する。
初めてのもらい物をまじまじと眺め、彼女が顔を上げる。
「み、三科。わたしがここに来るのまで予知してたの!?」
心なし引かれた。
「気が付いたら買ってた。会えて良かった、渡せたから」
タダのプレゼントで何故そんなに身構えるのか、釈然としない。そんな能力があれば便利だとは思うが、よく分からないモノ達をみる事は出来ても未来まではのぞけない。
「そ、そっか。貰って良いの」
「食べて」
頷き掛けた彼女の動きを三科自身が止めた。意識に反してお腹が空気も考えず大きく鳴った。
「三科、もしかしてお昼まだ?」
そう言えばもう昼なのか。
「ひょっとしたらひょっとしてすると朝食べてない?」
こく、と頷く。気が付くとコンビニに居たから、多分食べてない。
「わたしは一つで良いよ。三科、後は食べて」
「でも」
「気にしない気にしない。わたしの胃の方がちっちゃいし!!」
「うん」
「でもそれだけじゃ足りないでしょ」
鷲掴んだいなり寿司を口に押し込んでぶるぶると首を横に振る。
「そんな事、ない」
めいっぱい頬を膨らませたままがっついている姿では全く説得力はなかった。
「正直にいいな?」
笠木の微笑みに何かを感じたのか、口に含んでいた寿司を飲み下し、素直に頷く。
「うん。たりない」
「よおーし、じゃあわたしが美味しい料理を食べさせてあげよう」
「れすとらんヤダ」
「三科も結構贅沢というか、遠慮無いよね」
「コンビニも。今行ったばっかりだから」
「そんな金の掛かるところ行かないってば」
ポケットから黒の折りたたみ式携帯を取り出して、番号を押す。この間見たときは何かの尻尾だったストラップはおきつねさまからご不興を買ったのか、狐のキャラクターに変わっていた。
「あ、お母さん。今から腹すかせた男子連れて帰るから。そうそうキャベツ食べて生きてる奴。真横にいる」
「きゃべつだけじゃ。だいこん以外の生きゅうりとか」
揺れているマスコットへ爪先でちょっかいを出しつつ、失礼なやり取りに思わず口を挟む。
「はいはい。というわけで――手みやげは油揚げだからきつねうどんでいいかな」
流された。文句を言うのも面倒なので、むぐむぐと唇を動かしてぽつりと希望を漏らす。
「外食じゃなきゃ、なんでもいい」
「ん?」
上手く聞き取れなかったのか、首を傾げる笠木を少しだけ恨めしげに見上げて。
「ううん。それがいい」
溜息混じりに頷いた。
「そうだよね、何しろ油揚げお化けサイズだよ」
「うん――」
楽しそうに笑う少女をぼんやりと眺め、唇を動かす。
『笠木と食べるなら。なんでもいい』
三科の呟いた台詞は、幸か不幸か電話をしていた楓の耳には届かなかった。