番外さん:おきつねさまと小さな約束〈前〉
誰でも一度はするかもしれない、願い事。
邪心や下心のない純粋な願いを胸に抱き、
『かみさまかみさま。わたしのお願い叶えて下さい』
苔むした石垣を背景にして、小さなわたしは社に向かって手を合わせる。
色彩が幾つか欠けた古い記憶。漠然とした白昼夢のような回想だ。
あれは、何時の記憶だろう。
「笠木さん。そっちの調子どう?」
手元の生地を優しくかき混ぜながら悩んでいたら、同じ班の子に声を掛けられて顔を上げた。
「うーん。もう少し上手くできると良いんだけどね」
白くなり始めたボウルの中を覗き込んで溜息一つ。
本日の調理実習は、わたしの苦手な洋菓子作成。これが和菓子であればまだ上手く出来る自信があるのに、外国かぶれした調理実習が恨めしい。
生地を機械的に作れはしても、どうもぴんと来ないのだ。
こう、会心の出来! と、自信を持って言えないむずがゆさを作るたびに覚える。
やれやれ、得意だと胸を張れるようになるのは何時になる事やら。
「普通に出来てるよ? それより何で割烹着なのか気になるんだけど」
クラスメイトの指摘に苦笑する。確かに割烹着はわたし一人だけか。
「あー、家だとこの格好で料理するからこっちのが落ち着くのよ」
そんな物かなぁ、と首を傾げる彼女を眺めていると後ろの班から怒号と悲鳴の混じった、まさしく阿鼻叫喚といった声が上がる。
『どおおおりゃああああ!!』
『この馬鹿っ。南野の阿呆ッ! そんなに力一杯したら生地が駄目になるだろうが!』
『バターがええと。うーん? 色も近いし油揚げで代用して』
『出来るか! やめろ三科。油揚げを型にはめても出来上がるのは焼いた油揚げだ!!』
涙混じりの班長らしい眼鏡を掛けた男子生徒の制止が聞こえる。真面目そうな見かけだが、非常識な二人組相手へ遠慮も容赦もない突っ込みを飛ばしている。
原因の中心人物に大分心当たりはあるが、たかだかマドレーヌを作り上げるだけで何故こんなに混沌とした状況が形成されるのだろうか。
『なんだかボウルの中ぐちゃぐちゃ。子ぎつねさまはどう思う。
うん、そうだね。ここはやっぱりおいなりさんの定番』
『コラ待て三科。タダでさえ死んだ生地に揚げ玉を入れようとするな!』
肩に乗せた子ぎつね様と不穏な相槌を打った変人さんは、すっと懐から袋を取り出したが鋭く察知した男子生徒数名に慌てて止められた。
「なんだか後ろの班は凄い事になってるね」
「そうだねー。わたしには関係ナイナー」
心配そうに後方を見る彼女に、乾いた笑いを発して出来上がった生地を型に流し込んでいく。
「でも確か向こうの班に――おお、もう出来てる。あれ、なんだか材料多くない」
地獄の様相を見せる男子の奮闘を眺め、首を傾げた彼女も自分の担当の生地をかき回した。
わたしの手元に置いてある残りの材料に目をやり不思議そうに瞳を瞬く。
「……絶対あれらが泣きついてくるから。わたし達の分無くなるよ?」
答えつつ別に計っておいた分量をボウルに投入し、淡々と混ぜ込んでいく。
「あぁ、確かに。でも、その状況予想して持ってくるなんて用意周到というか」
オーブンの温度を見ていた別の子がニヤリと笑ってこちらを向き、
『愛だね』
班の女子全員の声が唱和した。
「たぶん、違う」
彼氏に対して愛がないとは言わないけれど、わたしが材料を用意した理由は保護者的感覚だと思う。
『あれ、何か混ぜてたらカチンコチンになったぞ。なんだこれ』
『混ぜすぎだってさっきから言ってるだろうが! 材料もうねぇよ』
『……おなか、すいた』
後方から響く南野と三科の脳天気な声と半泣きの男子達の呻き声が対照的だ。
班長さんは、悟りを開ききった僧侶のような達観した眼差しで二人を見つめ、重い溜息を吐き出した。
お疲れ様です。
出来上がった生地を悲観に暮れる男子一同に提供したら、班の連中から泣いて拝まれた。
「女神」や「慈母」はともかく、「三科共々変な人間だと思っていた。悪かった」と真剣に謝りに来るのは止めろ。
三科と纏めて扱われるのに慣れてきていても、正面から言われると色々な意味で傷つく。
てんやわんやの騒ぎはあったが、何とか落ち着き室内には焼き菓子の甘い香りが漂っていた。
コン、と耳元から聞こえた薄い鳴き声に後ろを振り向くと、白い包みを大事そうに両手で持ち上げている変人――否。我が彼氏様が居た。
「かーさーぎー。あげる」
「うん、ありがと三科」
ちょこちょことわたしに近寄って、捧げてくる簡易な紙の包みを受け取り目の前にある黒髪をおざなりに撫でてやる。
「ん」
やや乱暴に髪をかき回してもにこにこと嬉しそうに笑う変人さん。四方八方から生暖かい視線が突き刺さるが無視する。
『ええと、彼氏と彼女の甘い会話。だよ、ね』
『ふ……不純異性交遊はんたーい!』
『そこの男子、あれの何処が不純よ。あれが不純なら小学生同士のお出かけは警察に直行するレベルじゃない』
ついでに声も聞こえたが黙殺して包みを開く。
「三科、なんか穴だらけだよこれ」
ほかほか焼きたてマドレーヌが顔を出すが、こんがり付いた焼き目の表面に無数の穴が開いている。
変人さんの性格を知らない時であれば新手の呪いの儀式かと疑いたくなる。
覗き込んだ数名が、不吉な想像を巡らせたのか顔面蒼白になってしまった。
「うん、しろっぷある?」
明らかに引いてしまった周囲に全く頓着せず首を傾げる変人さん。肩に掴まった子ぎつねさまも真似して首を横に向け、バランスを崩して滑り落ちかける。
「ん、一応作ってあるけど」
毎度の事ながらのマイペースっぷりにはもう突っ込まず、生地か乾燥した時用にシロップを作ってあったので視線で示す。
「ハケで塗ってみて」
なんで? と尋ねる事すら面倒になってきたので素直に言う通りにハケでシロップを塗りつける。
問答を繰り返すより無心で塗る方が早い。
ぺたぺたと液体を染み込ませていくうち、マドレーヌが徐々に湿っていき焼き色が濃くなっていく。
「ん? んん……うわなにこれっ」
浅く傷つけられた表面にシロップが溜まり、焼き菓子の表情が変貌していく。
マドレーヌの表面に描き出されたものを見てわたしは思わず包みを取り落としそうになった。
「授業今日は家庭科じゃなくて芸術の科目だったか」
わたしの手元を見つめていた男子がしみじみと頷く。
その台詞も当然。シロップがかかって浮き上がったのは、写実的な小さな黒い狐の姿だった。
爪楊枝か竹串で穿たれた穴を利用し、潤んだ大きな瞳や艶やかな毛並みを上手く表現している。
モデルとなったらしい子ぎつねさまが『どうだ』とでも言いたげな澄まし顔で尻尾を揺らす。
「三科。すごいね……凄い才能の無駄遣いを見たわ」
確かに凄い。凄いよ三科。力を入れる方向性がおかしいけど。
どうしてキャンバスでその腕を振るわないんだ!
「そう? 喜んで貰えて良かった」
満足感一杯にやり遂げた顔で微笑む変人さん。
隣に来ていた幼馴染みの南野が、またやってるのかと言った目で苦笑した。
「陸は絵が上手いよなー」
躍動感溢れるこの絵を見てその感想だけなんて。常識人を気取っている南野だが、数多の三科の奇行により非常識に足を踏み入れかけている気がする。
「南野。これ、上手いどころの話じゃない気がする」
疲れたわたしの呻きに被さるように、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。