七話(一)
時間にしては、数分前のこと。
浅葱が球体に吸い込まれた直後、残された側となる賽貴と朔羅の間では、睨み合いが続いていた。
「浅葱に助けられたな」
「……そう言うあんたもね」
賽貴が嘲笑いながらそう言うと、朔羅も負けじと言葉を返してくる。
一度は攻撃を受けてしまったらしい彼は、荒い息を吐いていた。白狐の姿から人の形に戻ってはいたが、金の瞳は戻らずのままだ。
「ひと思いに殺せばよかったのに」
「今更、負け惜しみか?」
「……違うよ。あんたならそれが出来たから言ったんだ。なんで一瞬だけ、躊躇ったの」
「――――」
朔羅の言葉に、賽貴は沈黙した。表情は変わらないままだったが、動揺しているのかもしれないと朔羅は思った。
諷貴のような風貌の彼は、それでいて完全には飲み込まれてはいないのではないか? そう、思えてしまったのだ。
(確信はない……だけど……)
「僕はこれでも自分の実力は解ってる。狂気に触れてるときだって、意識は平常だ。……今がそうであるようにね」
「何が言いたい」
「賽貴さん、完全に中てられてるわけじゃないよね? もしかして、それなりに足掻いてる?」
「――では、試すか」
朔羅はそう言って、賽貴を煽った。
すると目の前の彼は、明らかに不機嫌そうに右腕を上げた。鋭い爪が伸びて再び朔羅に向けられようとする。
「……っ、賽貴さんっ!」
「!」
朔羅は目を逸らさなかった。
斬られてもいい――そんな覚悟が、彼の金の瞳には宿っていた。
それを目の当たりにし、朔羅の声を聴いた賽貴は、やはり一瞬だけ動きが止まる。
「……、……っ」
それはやはり、葛藤なのだろうと思った。
賽貴は賽貴でならずの現在でも、その奥深い意識の中で、静かに戦っている。
朔羅は、それに賭けたのだ。
「聞こえてるんだよね。だから、僕に手を出せない。……本当はさっきだって、僕は確かに死んでたはずなんだ」
「……黙れ」
「意外と、脆いね。やっぱりヒトに関わっちゃたのが効いてるのかな。賽貴さん自身もそしてあんたも、浅葱さんという存在に触れていなければ、もっと強さを誇示出来ていただろうにね」
朔羅が多弁となった。
それに合わせるようにして、賽貴も表情を歪めていく。耳にするのが煩わしいと言った嫌悪感に満ちたそれである。
いつまでも通用するものではない。
それでも朔羅は、言葉による揺さぶりを続けた。
「僕たち妖が嘲るヒトは、しぶといよね。言い方を変えると、強かだ。短い生命だからこそ、それを気づかせてくれるものがある。後悔しない生き方、くじけない心と精神……それから、淡くて温かい愛情。『貴方』はそれを、全部知ってるはずだよ」
「お前は……、誰を見ている。その言葉は、俺に向けているわけじゃない、だろう」
「……へぇ、そう感じるんだ」
(聞こえてる。賽貴さんにはちゃんと、届いてるんだ)
朔羅の金の瞳が、そこでようやく元の水色に戻った。
そして彼は、攻撃の姿勢を解いて、普通に立つ。
「――賽貴さん」
「やめろ。お前は誰に向かって口を聞いている。俺は天上たる存在だぞ!」
「向いてないんだから、やめたら? それに貴方は、その座に就くのを嫌がっていたでしょ?」
「……ッ」
賽貴は朔羅の言葉に、完全に『歪んだ』。
何がそうさせたのかは、明確なところは分からない。だがしかし、朔羅の言葉がやはり真意を得ていたのか、『絶対』であるはずの負たる瘴気が、危ういものへと変容していっているのだ。
(忌々しい……何だというのだ!)
――それが、俺だ。
「!」
賽貴が心で毒づくと、それに応えたものがいた。
同じ声であるが、全くの別なるもの――取り込んでしまったと思い込んでいた本来の賽貴の声だ。
――朔羅の言うとおりだ。俺もお前も、浅葱さまに関わったもの全て、何かしらを感じている。
だからこそ、お前も朔羅に手出しを出来なかった。
「喧しい……ッ」
「……え……」
思わずの声に、朔羅も瞠目した。
明らかに自分に向けられたものではなかったからだ。
「何が俺だ……何故そのような浅薄な考えに至れるのだ……っ!」
――そう感じるのなら、お前は天を統べるものには成れないだろう。過去、いつかに拒絶をされたように、その思考を改めない限りは、永劫に。
「……ッ!」
『賽貴』はそこで大きく目を見開いて、歯軋りをした。まさに、内側から苦しみを感じている様であった。
「ぐ、あぁ……っ、まだだ! 『俺』はまだ……やっと、この座を手にしたと言うのに……!」
(賽貴さんと『気』が離れてきてる……? 反発が起きてるんだ)
それが誰であるのかは、朔羅には解らなかった。おそらくこの場にいるものにも、明確な名は解らないだろうと思う。
それは、『個』ではないからだ。
過去、どれだけの血筋がそうさせたのかは分からない。王を望むものは当然のごとく、溢れるほどに存在した。
力のみを誇示する者もいただろう。天猫の血すら拭ってしまおうと思った他族も多くあったはずだ。
数多の個体の、負の感情の混ざり合い。それが一つとなって、怨恨を表しているようなものだ。
「賽、……ッ」
朔羅が賽貴へと再び呼びかけをしようとしたところで、状況が変わった。
浅葱たちを飲み込んだ状態の球体が、その場で大きく膨張して見せた後、四散したのだ。
「!」
「……、っ、兄上、か……っ」
球体は四散の直後に、藍と浅葱をこの場へと戻してきた。まるで、球体自体がそうしたかのような光景であった。
「……浅葱さん!」
「…………」
朔羅は何より、主の元へ早々と駆けていた。そして彼女の体が地面につくより先に手を伸ばして、腕で受け止める。藍は浅葱が抱きしめる形を取っていたので、結局は朔羅は二人分を受け止める事となった。
そして朔羅は、やはり賽貴も気づいてはいたが、球体が『諷貴』であると何故か確信していた。
元は確かに違うものだったが、先に取り込まれているのもあり、その先で彼が何らかの足掻きを見せたのだろうと思ったのだ。
「……やめろっ」
そう言ったのは、賽貴だった。
或いは、賽貴の姿をした何者かの声だったのかもしれない。とにかくその声から焦りの色を感じて、朔羅はゆっくりと顔を上げた。
『――俺を殺せなくて残念だったな、賽貴。俺もお前たちや浅葱に手出し出来なかったんだから、お互い様、で、妥協してくれ』
「あに、うえ……、何、を……」
『こんな事になったのは、全部俺のせいだ。だから、詫びだと思えばいい』
「待っ……!」
諷貴と賽貴はそこで初めて、兄弟らしい会話をした。少なくとも、賽貴はそう思った。僅かな時間であったが、それでも。
そして目の前の球体は、賽貴の体から瘴気を『奪った』のだ。
「――兄上っ!」
賽貴の呼びかけに、諷貴は応えなかった。元より、彼の姿は見えなかったのだ。
そして球体は賽貴から全ての瘴気を吸い取った後、小さな玉になった。