六話(一)
無我夢中で、その手を取った。
その直後、体が浮いたような感覚に囚われて、浅葱は目を閉じてしまった。
「――大丈夫だ。そのまま足を前に一歩出せ」
「っ!」
ビクリ、と肩が震えた。
知っている声。よく似た声。
浅葱はそのまま言われたとおりに一歩を踏んだが、瞼を上げられずに涙を溢れさせた。思わず両手で顔を覆い、俯いてしまう。
そんな場合ではないと解っているのに。
「…………」
浅葱の目の前にいるのは、銀の髪の男――諷貴であった。
彼は小さく震える浅葱を見やりながら、ため息を吐く。
「……そうしていると、女そのものだな。代わりに抱きしめてやってもいいが、お前は嫌だろう」
「ごめん、なさい……こんな、事になるなんて、思わなくて……」
「まぁ、全て俺が蒔いた種、というやつなんだろうが」
何もかもの予定が狂った。
諷貴はそう思いながら、浅葱に声をかけた。
この小さな存在を、一時は戯れに手篭めにでもしてやろうかとも思っていた。浅葱を瀞に重ねて見ていたからだ。
だが今は、そんな気すら起こらない。
――あなたは何よりあの人の血縁者だ。
賽貴の口からあの言葉を聞いた時、一気に何かが冷めたように思えた。
まさに、毒気が抜かれたかのような気分だった。
そして彼は、目の前の浅葱の頭に手を置き、静かに撫でてやる。
「……諷貴さんは、賽貴がどうしてああなってしまったのか、わかりますか?」
「大体の把握は出来てる。あれは歴代の王の座の圧力だ」
「圧力……?」
「俺も実際に体験した。王の座の拒絶っていうのは、負の感情そのものだ」
諷貴の言葉に、浅葱はようやく顔を上げた。すでに涙も止まっている。
「遠い昔から積み重なってきた、怨念みたいなものだな。それが瘴気を生み出し、影響を及ぼしてる」
「……中てられてる、と?」
「それだけとは言い切れないが……そうだな、病みたいなものだな。耐えてもいずれは飲み込まれて体が朽ちる。あいつの場合は、先に心をやられたみたいだが」
解けたままの長い髪を掻き上げつつ、諷貴はそう言った。
そこまでを聞いて、浅葱は今自分がいる場所の事を気にした。
見渡す限り、何もない。広い空間だったが、紫色の霧のようなものが常に立ち込めている。明らかにそれを吸うと良くないだろうと思っていたのだが、自分たちの周りだけ何も感じられなかった。
どうやら、諷貴が結界を施してくれているらしい。
「ここは?」
「良くわからんが、座の内部と言ったところか。俺が逆に飲み込んでやった」
「飲み込むって……いくら貴方でも、そんな簡単なことじゃ無いのでは?」
「……まぁそれは、今はどうでもいいだろう」
そんな諷貴の言葉が、妙に気になった。
改めて彼の表情を伺うと、自分を見てはいるが実際はどこか遠くのものを見ているかのような、そんな感じがした。
「ちなみに小娘だが、あそこで寝てもらってる」
「……っ、藍……!」
諷貴がチラリと視線を横に向けた。
それに釣られてそちらを見れば、繭のようなものに包まれた藍が眠っている姿があった。浅葱は慌てて彼女に駆け寄って状態を確かめるが、体に異常は無いようだ。
「主が無茶ばかりだと、仕える者たちにもそれが伝染るのか」
「……すみません」
「実に人間らしくて良いとは思うが、もう少し考えるべきだな。お前は他人に優しすぎる」
(瀞に似てるばかりか、意思まで継ぐとはな。もっともあいつは、少しばかり呆けていたが)
諷貴は心でそう呟いてから、苦笑した。
「……さて、いつまでもこうしてここにいる場合でもない。猶予は無いぞ。白狐は辛うじて無事のようだが」
「でも……ここから、どうやって? それに私は……」
「取り敢えずは、あんな状態の愚弟でも、元に戻れる勝算はある」
諷貴は躊躇いもなくそう言い切った。
浅葱はそれを見て、少しだけ驚いてみせる。
こんな絶望的な状況でも彼は、勝算はあると言った。それは、大きな犠牲を伴う事ではないのか? そう感じてしまったのだ。
「双子の片割れが、何故銀の子として生まれてくるか、お前は知っていたか?」
「いえ……賽貴も、そこまでは知らないと……」
「おかしなことに、銀の髪を持つ片割れっていうのは、俺たち天猫族だけだった。それも王族の血を引くモノだけだ。父王も双子で、母もそうだった。あの人は俺と同じで銀でもあったが」
「…………」
天猫族の双子の話もその実態も、知っているつもりであった。目の前の彼がそうであったし、藍の兄である琳もそうだったからだ。
だが、その真相は、やはり浅葱もおそらく当事者たちでも、知らされることは無かったのだろう。
その全てを、諷貴は語ろうとしていた。
座に触れて取り込まれたことによって、識ることになったのだろうか? 浅葱はそう思いつつ、彼を見つめ続けた。
「……俺たち銀の者は、王たる存在の補填だったんだよ」
「っ、それは、……」
次なる諷貴の言葉に、浅葱は瞠目した。
そして、その言葉の意味を理解するのに時間が掛からずに、動揺する。
「ヒトの世界に帝が必要なように、俺たちの世界にも王帝って言うのは必要不可欠だ。こんな莫迦げた風習がいつから始まったかは知らないが、片割れには最初から未来は無かったんだよ。だからこそ、狂人にもなれたんだろうさ」
「ま、待ってください……では琳たちのような、遠縁の者たちは……?」
「もしもの時、予期せぬ代替わりが起こった時の、それこそ補充要員だな。僅かでも血を引いていれば、何の問題も無いらしい」
「……そんな……」
それでは、もし何かの間違いがこの代で起こり賽貴も居ない状況に陥っていれば、藍は強制的に座に就かなくてはならなかったのか。そんな思考を巡らせて、浅葱は青ざめた。
そして、補填という『存在』。もしもの時の王の代わりになるのではなく、もしもの時の災厄を請け負う――病であればその病を何らかの形で銀の者が受け取り、そして命を落とす。
『王』が、『王』であるために――。
「諷貴さんのお母様も、銀だったと先程言ってましたけど……」
「……あぁ、俺たちの両親はいとこ同士だったんだよ」
「では、それぞれにご兄妹がいて……王たる資格をもつ存在がいらっしゃったんですね」
「伯母は戦士だったからな。王は王たるものが継げと言い残して、当時起こっていた僻地の争いに向かい、そのまま戻ってこなかった。ちなみに父のほうは、弟が補填者だったが、大病を引き受けて死んだそうだ」
「そう、だったんですか……」
いっぺんに流れ込んでくる情報を、浅葱は必死に受け止めて脳内で整理した。
諷貴が冷静に話してくれているのだ、同じように冷静でいなくては、と思うようだ。
だが。
――銀の者は王たる存在の補填。
つまり諷貴は、賽貴の補填者だと言うことだ。彼はその立場を逆手に取るつもりらしい。
賽貴の為に。
「――――っ」
「気づいたか。さすがは陰陽師、と言ったところか」
浅葱の反応に、諷貴は浅く笑うだけだった。
そしてそれは、決意の証にもなった。
「……諷貴さん、それはダメです」
「お前はそれを言うな。……俺は今まで、あいつに何もしてこなかった。だから最後に少しだけ、兄らしいことしたって思わせてくれ」
「!」
そう言いながら笑う諷貴は、賽貴のそれを思わせるほど優しい表情をしていた。
浅葱はそれだけで、やはり彼はもう止められないし、救うことも出来ないのだと悟る。
「……でも、ダメです……っ、だって、残される紅炎は……? 彼女はあなたの子を産むんですよ……?」
「まぁそうだな。だが、あれと俺は別に夫婦となったわけじゃない。……あいつは強い。俺が居なくとも、なんとかやっていくだろうさ」
「諷貴さん……っ」
浅葱は再びその場で涙を溢れさせた。
納得が出来なかった。
こんな運命を背負わられた銀の者たち――諷貴も琳も、報われない。