二話(一)
「お祖母さまは、苦しまずに逝けた?」
「健やかなお顔をされておられましたよ。最後の最後に、微笑んでおられました」
九条邸に戻ってすぐに、浅葱は祖母の室へと足を向けた。
浅葱の祖母、かつての藤の姫宮は、小半時ほど前に亡くなった。
心を病んだまま、自分の産んだ娘を他家の姫だと思い込み、更には恋敵だと勘違いしたまま近づけさせなかった。
浅葱に至っては一度だけ面会したことがあったが、やはり孫だとは思ってもらえず更には瀞に間違われてもしまったため、それ以降は顔を見せられずのままであった。
ただ、時折に聞こえてくる箏の琴の音色だけは色褪せずに、誰もの心を癒やしていた。
最近は寝たきりとなり、侍医から長くはないと伝えられていたために、白雪にそばに居てもらったが、それも今日が最後となったようだ。
「……お祖母さま」
眠っているかのような姿を見やりながら、浅葱がそう言う。出来ればもう少しだけ時間が欲しかった。
そうしたら、向き合える機会もあったかもしれないのに。
そう思ったところで、後悔先に立たずという事は何も変わらない。
「母上は?」
「……浅葱どのと入れ違いで、お別れに参られてましたよ。言葉なく静かに、母君を見つめられておられました」
「そう……」
何となくの想像は出来た。
母は泣かずにいたのだろう。
だがそれでも、言い知れないものが多くある。浅葱には片鱗ですら分かり得ない、親子の関係性だ。歪が生じたままのその関係は、何よりも辛いことなのだろう。
「九条邸はこれより暫くの間、喪に服します。その間、私も役目を休ませて頂きます。……だからこの時間の使って、事を済ませます」
「御意に」
白雪がゆっくりと頭を下げる。
喪に服している間は、表立った依頼はこないだろう。この機会を利用しないわけにはいかないのだ。例えそれが、不謹慎だと言われようとも。
「きちんとお送りしますから、許して下さいね。お祖母さま」
老いても尚、美しい人であった。
憂いの美姫は、残す者の遺恨すら知らずに、静かに天へと登るのだ。
「素服の準備は?」
「整っております」
「そう、では母上と父上に先にお渡ししてきて」
「かしこまりました」
控えていた付き女房達にそう言えば、彼女たちもやつれているようであった。長い間、世話を押し付けたままであった。今後はもっと目にかけてやらなくてはならない。
そんな事を思いながら、浅葱は静かに立ち上がり、祖母の傍を離れて室を出た。
悲しみは無い。だが、心には小さな穴が出来たように思える。悔恨と後ろめたさ。そちらの感情のほうが、今は強く現れている。
「――藍」
この屋敷にいない、一人の式神の名を呼ぶ。
諷貴に囚われたままの、浅葱にとっては大切な家族だ。
取り戻さなくてはならない。何としても。
「みんな、私の部屋へ」
廊を歩きながら、浅葱は淀みなくそう告げた。周囲に人影はない。それでも、浅葱に従う式神たちには声が届く。
そして浅葱は、足取りも早々に、自室へと戻るのだった。
浅葱の室で揃った式神たちは、主の前でそれぞれに頭を垂れた。賽貴、朔羅、颯悦、白雪、琳の順であった。
紅炎がこの場にいないのは、身重であるために浅葱が敢えて休ませているためであった。
「琳、大丈夫?」
「はい、お気遣いありがとうございます」
琳はいつもどおり、澄んだ表情をしていた。
心の内は決してそうではないだろう。だからこそ、浅葱は敢えて彼に問いかけたのだ。
「確かに、平気ではないのです。さすがに肉親を人質に取られたこの状況ですからね……でも、僕一人じゃ何も出来ないこともよく解っているので、『大丈夫』なんですよ」
「……琳は、強いね。私もその気持ちに応えるために、事を進めるよ」
琳のしっかりとした言葉に、浅葱がそう答える。
それに呼応するかのように、他の式神たちも皆一様にして頷き、浅葱を見つめた。
「妖の住まう世に、行こうと思う」
改めての意思を、静かに告げた。
それに異を唱えるものは誰もおらず、彼らは主の次の言葉を待つ。
「――私は陰陽師です。いつもどんな時にでも、それを忘れたことはない。私の大切な家族……私だけの式神が囚われている以上、行かなくちゃならない」
「我々は、そんなあなたに全力でお応えするだけです」
浅葱の言葉の後に続いたのは、賽貴だった。
一の式神としての務めを珍しく見せた、と思ったのは朔羅だ。
だが、それを音にすることは避けて、別に意識を持っていく。
白雪も颯悦も。
そして、別の室に籠もっている紅炎ですらも。
皆がそれぞれに、余裕がない。
焦燥の色では無いが、状況が状況なだけに、緊張しているのだ。