十八話
「――――」
賽貴が何かを感じ取り、顔を上げた。
手元には僅かばかりの私物をまとめた物がある。彼は静かに身辺整理を行っている最中であった。
「僕との約束、違えるつもり?」
そんな彼に声をかけたのは、朔羅だ。
振り返らずとも分かる、苛つきの感情。隠さずにそれを背中へとぶつけてくるのは、賽貴のこれからを否定する朔羅の精一杯でもあった。
――約束をして。何があっても、浅葱さんの手を離さないって。
それを言われたのは、半年ほど前のことであったか。賽貴の脳内で蘇るその響きは、未だに鮮明なものであった。
「お前は、故郷より浅葱さまを選べと言うのか?」
「興味ないって言ってたの、賽貴さん自身でしょ」
「……いい加減、その趣味の悪い盗み聞きはやめてくれ」
朔羅はやはり怒っているようだった。
そんな彼を振り返らずに、賽貴は手元の荷物を風呂敷に詰め込み始めつつ、そんな返事をする。
「向こうの状況が、思っていた以上に芳しくないらしい」
「それは、わかってるよ。琳たちもそろそろ戻るはずなのに、戻ってこない。門を開けた白雪が様子を見に行ってくれてるけどね」
朔羅自身も、良くない事態になっていて個人的な感情は捨てるべきだと、十分理解しているのだ。
それでも彼は、賽貴が浅葱の傍を離れることを反対し続ける。自分だけにしか出来ない事だからだ。
「……諷貴さんは、あちらを制圧して、どうするつもりだったんだろう」
「あの人の性格上、この先は支配するつもりは無いだろう。屋敷の襲撃も、単なる暇つぶしに過ぎない」
支配欲があれば、とうの昔にそうしていたはずだ。それは、賽貴も朔羅も同様に感じたことだ。
諷貴という男は昔から、物には大して執着しなかった。
彼が何より求めていたのは、『瀞』という存在だけだったのだから。
「それで、話し合いなんてものも成立しないって解ってるのに、戻るの?」
「王帝が『不在』であるならば、俺は戻らなくてはならないからな」
「頑固だね――これでも、行ける?」
「…………」
チリン、と鈴の音色がした。
一瞬の行動であったが、賽貴はきちんとそれに反応して、静かに顔を上げる。その直後、彼の手元の平包が中身ごと四散した。
朔羅の操る鋼の糸が、引き裂いたのだ。
「お前、いま本気で俺を殺そうとしただろう」
「いや? 致命傷くらいだったらとは考えてたけど」
本音かどうかも解らないほどの言葉が、交わされる。
その空間内に幾重にも張り巡らされた糸は、朔羅が手を引けばいつでも賽貴の肢体をも引き裂ける。鈴の音がしたのは、鋼糸の先に括り付けられたそれが鳴ったためだ。
滅多に見せない手の内をわざわざ見せつけてまでの行動は、やはり朔羅の感情の乱れからくるものなのだろう。
なぜ彼は、ここまで賽貴と浅葱を第一に思うのか。それを今、問うことは出来なかった。
「――ええと、喧嘩でもしたの?」
ふいに、緊張をほぐす声がした。
姿を見せたのは浅葱だ。それを確認して、朔羅は糸を解除して、器用に片手のみで片付ける。
「知ってはいたけど、初めて見たかも。朔羅のその武器」
「あれ、そうだったかな。このろくでなし男を懲らしめようと思っただけだったんだけどね」
何気に酷いことを言いつつ、朔羅は浅葱に微笑んでみせた。そして彼はわざと浅葱を手招きして、実に自然に自分の腕の中へと招き入れる。
「……別に、喧嘩じゃないんだよ。僕は、賽貴さんをあちらに帰したくないだけ」
「ああ、そっか……うん、ありがとう、朔羅」
浅葱は朔羅の言葉と行動に、僅かに驚きつつもそう言って微笑んで、彼の温もりに甘えた。
賽貴はその光景を、少しだけ面白くなさそうな表情を作り上げて、見上げている。
その数秒後、彼らのいる場所で一つの空間が歪んだ。
「!」
朔羅も賽貴も身構えるが、直後にそれは白雪の生んだものだと理解して、具現化を待つ。
「――失礼いたします、浅葱どの!」
沈着冷静であるはずの白雪の口調が、乱れていた。彼女は戻らない琳たちの様子を見に行っていたのだが、状況はますます悪化を辿っているのだと誰もが悟る。
そして、姿を見せた彼女の傍らには、薄汚れたように見える琳がいた。
「……琳、何があったの!」
朔羅から距離を取り、浅葱は琳へと駆け寄った。明らかに、良くない展開だと察知したからだ。
「申し訳、ありません……藍を、奪われました」
「……っ!」
それに激しく反応したのは、賽貴だ。
手に取るようにして分かる。その経緯がどのようにして行われたのかを。
「変わりに何を差し出せと言ってきた。俺か? 浅葱さまか?」
「――浅葱どのです。三日待つと言われました」
膝を付き、下を向いたままで琳はそう言った。
浅葱はそんな彼の言葉を聞き、肩をわずかに震わせた。そして数秒思案した後、琳の肩に手を添える。
「当たり前だけど、行くよ」
「……っ、いけません!」
浅葱の言葉を間近で聞いた琳が、そこで漸く顔を上げて声を荒げた。金の瞳がいつもより冴えた色をしていると感じたのは、気のせいだろうか。
「藍を取り戻さないと」
「そうですね、と、僕が頷くとでも?」
「……琳」
「明らかに罠だと解っていて、あなたを送れるわけ無いでしょう!」
叫ぶようにして、琳がそう言った。
焦燥の色があるのに、それでも彼もまた、主である浅葱を優先しようとする。
それを受け止めて、浅葱は苦笑した。
(琳だけじゃない……朔羅も、賽貴も、みんな――)
心で小さくそう呟いてから、また口を開く。
「もう一度、言うよ。私は、諷貴さんに会いに行く。でも、私だけじゃ無理だから、賽貴も朔羅も一緒に来てほしい」
「……全く、賽貴さんも浅葱さんも頑固なところはそっくりなんだから。あなたがそう言ってしまったら、僕は頷くしか出来ないじゃないか」
「朔羅」
「賽貴さんは、元から戻るつもりで居たんだから、今更文句言わないよね」
朔羅はそう言いながら、やれやれと肩をすくめる。そして、何も言わない賽貴に先回りで釘を差すことも忘れない。
その言葉を言い切ってから本人へと視線を送れば、やはり賽貴はどこか迷ったような表情を浮かべていた。
だが、首を横に振ろうとはしなかった。
「浅葱さま、あちらはあなたが思っている以上に危険なところです。それはお覚悟の上ですか?」
「賽貴が守ってくれるでしょう? だから私は行こうって言えるんだよ」
「――わかりました」
浅葱の言葉を聞いて、賽貴は軽くため息を吐きながらそう言った。
主の意思の固さは昔から知っている。言い出したら、決して揺らがない。
少しだけ離れた位置で彼らを見守っていた白雪は、そこで静かに室を出ていった。彼女は彼女なりの準備と支度がある。この場に居ない紅炎や颯悦へ事を報告するのも、彼女が務めるだろう。
そして琳は、黙ったままで俯いていた。体力を消耗しているのもあり、これ以上の苦言は出せないようだ。
「三日、と言っていたね。じゃあ少しだけ時間を貰って、やるべきことをやっておかないとね」
「具体的には?」
「色々あるけれど、何より重要なのは――」
浅葱と賽貴と朔羅を中心に、そんな相談事が始まる。
九条邸全体で、ここに住まうもの全てが動き始める。そんな気配がしていた。
第四夜・終