十七話
賽貴の生家は、とてつもなく広大な敷地で構築されていた。浅葱の九条邸を四つ分ほど足した広さである。
元々、人間界とは世界の造り自体が違う。
空は昊と書くが、妖は青いそれを知らず、統べる者の本質が色となって現れるという世界だ。
「――大叔父さまの時は、橙色だったよね」
「そうですね……そしてこれは、必然的に王帝がいらっしゃらないことを示します」
紫、灰、赤が混濁したような不気味な天を仰ぎつつ、藍と琳がそんな言葉を交わした。
人間界のような御代がわりなどがあまりないこの世界では、一生のうちで昊の色が変化することなど、まずは無い。
この双子も人間界へと行くまでは、昊の文字が意味する青の色を知らずにいた。
理由はどうしようもない事で、単なる我侭を全面に押し出した結果、二人は人間界へと行った。
そして様々な事を経験して、今は『人間』を主として式神という立場に収まっている。
この位置を二人はこの先も変える気は更々無く、こちらに戻ってくる気もなかった。だが、事情が事情なだけに、今回は慎重にもなる。
「お屋敷は、全部燃え落ちたって聞いたけど……」
「直後に建て直したのでしょう。足元をよく見なさい。焼け跡が残っています」
(池は好みませんでしたか……庭の枯山水もひどい有様だ……八握脛の景爺はどうしたのだろう)
「――琳坊!」
「!」
土とその周辺の様子を見ていたところに、そんな声が掛かった。
琳はその声をよく知っていたので、すぐさま反応を見せて藍の手を引き、そちらへと足を向けた。
かつては存在していた西側の釣殿の縁の下に、大きな蜘蛛がいた。この屋敷の庭師であった。
「景爺、無事だったのですね」
「ああ、ワシは外におったでな。そちらがお前さんのかわいい妹御さんか」
「……ええと、あなたが琳の言ってた景爺さんね?」
「いかにも、いかにも。名を景と申す、ただの蜘蛛ジジイじゃよ」
言葉の音色から、好好爺の印象を強く受ける。
ヒトらしい形は取らないようだが、八握脛はもとより知性が高い存在でも知られている。
藍はこれが初対面となるが、琳は元々彼と知り合いであるようだ。その経緯などは知る由もないのだが。
「爺の住まいは? 婆は無事なのですか」
「ああ、なんとかな。ちょいと離れた場所に隠れておるよ。近い内に賽坊かお前さんが来ると思って、こうして待っておったのじゃ」
「……諷貴さまの他に、なにか?」
「相変わらず敏い子じゃのぅ。実は――」
景はその秘密の話に、藍も引き寄せて本当に小さな声で告げるべきことを伝えた。
二人ともそれに大層な驚きを受けたが、決して表情には出さずに平静を装っている。
「――なるほど、承知しました。ありがとう、景爺。あなたもここに長居しては恐らく危険です。仮住まいに一度戻ってください。……ああ、これを使って。僕の主から預かっている、気配消しの薬です」
「おお、すまんなぁ、琳坊。しかし暫く見ないうちに、随分と立派になったもんだ。事が落ち着いたら、また会おう」
「本当に気をつけてね、景爺さん」
八握脛は琳から受け取った黒い小さな玉を口に含んで、その場を後にした。浅葱がもしもの時にと琳と藍に持たせた、気配を経つ効能を持つ薬であった。
「琳、どうするの?」
「どうもしませんよ。僕たちは賽貴さまの名代です。逃げも隠れもしません……ほら、諷貴さまも来いと仰っている」
屋敷を覆っていた結界の一つが、開かれた。その箇所を指差し、琳も藍もそちらへと足を向ける。
「すごい妖力の圧だ……藍、気をつけて」
「うん、大丈夫だよ」
中庭であった空間に面する階から、屋敷内へと進む。一歩を踏むだけで、諷貴の妖気が体を斬りつけるがごとくに全身を駆け巡る。
それでも双子たちは、少しも怯むこと無く前を進んだ。二人は人間界でそれぞれに、逞しさを身に着けたようだ。
「――もう、ここには戻らないって思ってた」
「そうですね。僕らの賜ってた部屋も、すでに無いですしね」
二人の会話は、やはり少しだけ余裕にも取れる響きであった。
恐ればかりだと思っていた相手へとこれから会うわけなのだが、それでも彼らの足取りはしっかりとしたものであった。
「……藍、こちらのようです」
「うん」
『――よく来た』
「!」
一つの室の前で、妻戸が独りでに開いた。
その奥から聞こえてきた澱んだ声に、藍も琳も表情を変える。自分たちの知る限りでは、彼は賽貴とほぼ同じの声音のはずであった。
だが今は、声が幾重にも重なったような、そして重さが増したような音がした。
『ほぅ、二人とも見違えたな』
「――あなたは随分と面変わりしましたね、諷貴さま」
その声に最初に反応したのは、琳であった。
彼自身にはある程度の予測がついていたのか、その姿を見ても藍ほどの動揺が見られない。
賽貴の双子の兄。違いは銀の髪と僅かな力の差だけのはずだ。
(……あれは本当に、諷貴さまなの?)
藍が思わず心で呟く。
目にしている光景が、信じられないようだ。
室の内部全体を覆うかのような糸のようなものは、かろうじて彼の髪だと分かる。だがそれを辿れば、異形とも取れる姿しか見えない。
几帳があり、脇息もある。円座の上に座しているということも分かる。
黒い肌に赤く不揃いに伸びた爪。髪の隙間から覗く表情は、口は裂け白目は黒くなり、瞳は血のような色となっている。
こめかみあたりから伸びて見えるのは、角なのだろうか。
『なんだ、そんなに俺のこの姿が珍しいか?』
「珍しいも何も、こんなに悪を前面に出したかのような姿は、あなたの父君もなさらなかったでしょう」
『……はは、そうか。そうだったな。これは王の座が俺を否定してる結果だ』
「……っ!」
琳と藍が同時に体を震わせた。
聞いたことのない話だった。だが、実力こそがすべてだと思われがちなこの世界も、皇族だけは世襲制だ。
だからこそ、『王帝たる者』は一族を大切にしてきた。銀の髪を持って生まれ落ちたものであっても、それは同じだった。例え世間からは疎まれそう見なされていようとも、救済が無いわけではないのだ。
琳と藍はほぼ同時に両親を失ったために一時は一族をたらい回しにもされたが、最終的にはこの屋敷に居を与えてもらえた。
辛く悲しい時期も確かにあったが、それを上回るものを与えてもらったのも確かだった。
(……諷貴さまに、その恩恵が無かったわけではない。少なくとも……)
『お前はもうすっかり、銀の記憶は捨てたか』
「捨てられるわけがないでしょう。あなたとは違い、僕は前を見ているだけです」
『相変わらず、減らず口を叩く小僧だな』
琳の思考を遮るようにして諷貴が言葉を投げかけてくる。その音を受け止めるだけでも、呪われそうだと感じてしまう。
――『王の座』の否定。
王帝にふさわしくない者は、拒絶される。諷貴の今の状態がそれにあたるのだろう。
父を理由なく手にかけた代償、とでも言うべきなのだろうか。
『実はこっちに戻ってきても、存外暇でな』
「――きゃっ!?」
「藍!」
座ったままの諷貴がその言葉の後、とある行動に出た。
自身は動かずのままであったが、室内に伸びた銀の髪がまるで生き物のようにうねり、藍の体に巻き付いたのだ。
「何をなさるのです、諷貴さま!」
『……ククッ、いいねぇ、お前のその顔』
「ちょっと、離して!」
藍がそう言いながら、手足をバタつかせた。彼女は僅かに地面から浮いており、それにより体勢が僅かに傾いた。
それを好機とした諷貴の髪は、彼女の全身を覆ってしまう。
「藍!」
隣にいながら何も出来ずとなってしまった琳が、声を張り上げる。
そんな姿を見て、諷貴は嗤った。それは楽しそうに、嗤っていた。
『ハハハ! やはり誰かがこうして俺を憎む感情が何より心地いい!』
「き、貴様……ッ!」
『そうだ、もっと怒れ!』
琳は諷貴に煽られるようにして、床を蹴った。そして護身刀として持っていた小刀を諷貴に向け、突き進む。
『アハハハハ!』
――琳、ダメ!
「っ!」
あと僅かで切っ先が届く。そんなところで、藍の声が琳の脳内に響いてきた。
――アタシは平気だから、落ち着いて。早くその場から離れて!
『余計な進言はするなよ、小娘!』
「ううっ!」
藍の体を縛り上げている髪が、ギシリと音を立てた。そしてその中から、彼女のうめき声が聞こえてくる。
「藍!」
琳は妹の言う通り、一旦は諷貴から距離を取っていた。御簾の間近まで下がり、そこで名を呼ぶ。
最悪な状況とも取れるが、諷貴が藍を殺す理由がない。そう思い辺り、小刀を仕舞う。
『……どうした、もう終わりか』
「藍を離してください」
『そう言われて、俺がこいつを解放するわけ無いだろう? ……ああ、そうだ。浅葱をここに連れてこい』
「!」
諷貴の次なる言葉に、琳の気がまた乱れた。
よりにもよって、浅葱を要求されるとは思わなかったのだ。
「あなたは……!」
『前にまた来る、と約束したままだったのを忘れてた。こんな状態じゃ人間界には行けないしな、お前がここに浅葱を連れてこい。それで妹を解放してやる』
(その気など無いくせに……!)
交換条件など、なんと意味をなさない響きだろうと琳は思った。
それでも今は、藍を取られている以上、どうしようもない。
「――わかりました。あなたの要求、受け入れましょう」
『三日だけ待ってやる』
「……ッ!」
諷貴の言葉は、それが最後だった。
彼がゆらりと腕を上げたかと思えば、次の瞬間には風圧が訪れ、琳の体は吹き飛ばされてしまったのだ。
琳の体はそのまま背後の御簾を破り、廊を抜けて庭に転がった。
傷は負ってはいなかったが、地面に叩きつけられた衝撃が少しだけ強く、琳は僅かにその場で体を曲げる。
「くっ……」
体を横たえたまま、彼は頭を上げて諷貴のいる室を見た。自分の背中が破った御簾は、もとに戻っている。そして、強固な結界が二重三重と張られていくのを、肌で確認する。
浅葱をここに連れてくるまでは、あの結界は解かれないのだろう。
「……くそぉっ!」
琳には珍しく、乱れた言葉が唇から落ちる。
よろめきながらも体を起こし、何も出来なかった自分の拳を呪いながら、彼はその場で暫く濁った昊を睨み続けていた。