十四話(二)
「失礼致します」
賽貴が戸を潜り横手の几帳を見てから御簾をさらに潜ると、桜姫はその更に奥の塗籠へと賽貴を招いた。
察するに人払いも既にされているというのに、これはいよいよ自分は彼女の手にかかるのかとも思考が巡り、賽貴はそこで首を振った。
姿を見ることも、声を発することさえも拒絶されていた相手が、ここまでしてくれているのだ。
それを素直に受け入れ、歩みを進めることにする。
塗籠の先では、流石に桜姫と賽貴を遮るようにして一つの几帳が置かれていた。女人と殿方が相対する時には、これが普通で当たり前である。
賽貴が言葉無くその場に腰を下ろすと、奥の桜姫も同じようにして円座に腰を下ろす。
「お前がここに来るということは、余程の理由があるのでしょう」
「多大なるご配慮に感謝致します。――今日は長年お話することの敵わなかった、あなたの父君の事をお話させて頂きたい。これは、浅葱さまの式神としてではなく、一人の妖としての申し出でございます」
「……聞きましょう、『王帝のご子息、天猫の賽貴』よ」
桜姫の声は、早朝にも関わらず凛としていた。突然の出来事であるはずなのに、動揺すら見せないのは陰陽師であった頃の名残なのだろうと賽貴は思った。
そして間を置かずに、彼は再び口を開く。
「本来であれば、もっと早くに申し上げるべきでした。……あなたの父君、瀞どのを手に掛けたのは、私ではございません」
「……、続きを」
「あの光景を目にされたのは、母君であられる藤の姫宮だったのでしょう。私と同じ顔、同じ出で立ちであれば、誰もがそれを私だと思うはずです」
几帳越しの桜姫の気が、僅かにだけ揺らいだ。
それを視線のみで確認した賽貴は、それでも静かに言葉を続けることに集中する。膝に置いた手が、小さく震えていた。
「聡いあなたであれば、薄々気づいておられたのでしょう。私には、双子の兄がおります」
「銀の髪の、あの男ですか。紅炎を誑かした……」
「……そうです。そしてその男こそが、瀞どのを手に掛けた張本人です」
「恐ろしい存在であると、以前から認識していました。計り知れない魔の力が、常に溢れる男だと遠目からでも充分に感じられた」
桜姫は最初から手にしていたらしい衵扇を閉じたままで、すっと前に出した。その先で几帳の端を押し上げて、視界の僅かに賽貴の姿を垣間見てきた。
それが、彼女にとっての初めての『賽貴』という存在を認める行為となった。
賽貴はそれを見て、その場で静かに頭を下げる。
「……顔をお上げなさい」
「いいえ、私自身でないとはいえども、一族の者が齎した事には変わりません。私なりの責任を取らせて頂きたい。罰なりなんなりと、私にお申し付けください」
「お前は……いえ、あなたはもう充分、罰を受けたでしょう。現に私は、一度もあなたを喚んだことがなかった」
「…………」
賽貴は僅かに頭を上げた状態で、自嘲気味に笑った。彼女の言葉が、有難かった。
「――憶えていますか。浅葱があなたを選んだ日の事を」
「!」
桜姫が、一拍の後にそんな事を言いだした。
賽貴はそれに一瞬だけ瞠目した後に、こくりと頷いて「はい」と答えた。
浅葱が五つの時に、賽貴は側付きとして彼自身に選ばれた。あの時から、浅葱は自分を好いていてくれたと数時間前に告白されたばかりだ。
「おそらく、あの時点で答えは見えていたのです。それでも私は、受け入れることが出来ないままでした。父を失くした母が『あのとおり』となり、責を負わせるべき存在も無く、支えてくれるものも無く……」
「解っております、桜姫さま。どうしようも無かったのです。誰もが余裕など皆無だったのですから。それで私が全ての怨恨を受け止められたのでしたら、良いのです」
「あなたは……」
賽貴の桜姫への敬称が、元に戻っていた。もう既に妖としてではなく、式神としての立場で話をしているのだろう。
それを受け止めつつ、桜姫は常に厳しくあった表情を歪めた。そして彼女は、衵扇を床に置いてその場で頭を垂れた。
「桜姫さま!」
彼女の姿を直に目にしているわけではないが、影と気配でそれを察知した賽貴は、慌てて腰を浮かせて彼女の名を呼ぶ。
「賽貴、……許して、ください」
「おやめください。あなたが謝られることは何もない!」
賽貴が珍しく、慌てたような口調になった。桜姫が謝罪の言葉を告げるとは、予想していなかったのだろう。
「無知は愚か者の証拠。私はずっと目を背けたままでここまで来てしまいました。まさしく、愚かでした」
「……桜姫さま」
「虫のいい話だと罵られても仕方ありません。私は、それだけの仕打ちをあなたにしてしまった。それでも、少しでも許しを得られるなら……」
「私は最初から、あなたを恨んでいたりなどしません。先程申し上げた気持ちが全てです。ですから、顔を上げてください」
賽貴の言葉は、いつもより澄んでいた。
耳でその音を捕らえた桜姫は、彼の言うとおりにゆっくりと顔を上げる。
互いに未だ、几帳越しだ。
それであるのに、二人とも相手が見えているかのように布の向こうを見つめて、笑顔を作る。
「……今更になりますが、私はあなたをこの家の式神として認めます。今後ともあの子を、浅葱を守ってやってください」
「お言葉、しかと胸に。繰り返しますが、己の天命尽きるまで、精一杯お仕えさせて頂きます」
自分が初めて浅葱に伝えた言葉を、再び発する。静かでありながらも力強いその響きに、桜姫は満足そうに微笑んでくれていた。
長い間、埋めたくても埋められなかった溝がようやくひとつ、埋められた瞬間でもあった。
そして賽貴はもう一度頭を下げた後、桜姫の塗籠を後にする。
襖を開けたその向こう、桜姫の昼の御座となっている場には、彼女の夫である蒼唯が笑顔で座っていた。
「……ようやく、視界が開けましたね」
「蒼唯さまにも、長らく事を黙っていて頂けたこと、感謝致します」
「賽貴さまや朔羅……藤の姫宮のお悩みに比べれば、私が一時を耐えることなど、何も苦痛はございませんでしたよ」
蒼唯は、いつもどおりの優しい笑顔を湛えたままであった。そして彼は、後は任せろと言わんばかり、賽貴を素直に室から出させてくれた。
「――蒼唯さまは、ご存知だったのですね」
数秒遅れて塗籠を出てきた桜姫が、賽貴の気配が遠ざかるのを確かめてから、そう言った。
「賽貴から、黙っていて欲しいと頼まれていたからね」
蒼唯はそう答えつつ、妻に手を差し出してやった。
桜姫もそれを拒むこと無く、歩みを寄せて彼の手を取り、その場に腰を下ろす。
「頑なであった私を、呆れていたのではございませんか?」
「どうして? 私はそれら全てを一括りに、貴女という存在に惹かれたんだよ」
「……相変わらず、狡い人ですね」
蒼唯の言葉に、思わず頬を染める桜姫。
それを見て満足そうに微笑むのは、青い瞳の妖だ。
桜姫の選んだ伴侶もまた、妖であった。息子である浅葱も同じようにして同じ存在を選んだのには、少なからずの影響もあったのかもしれない。
ひどく拒絶をしたこともあったが、それでも今は、こんなにも晴れやかに現実を受け止められている。
「……本当はね、一度に全ては、無理かとも思っていたよ。だけどそこは、貴女の賢さに軍配が上がったようだね」
「それは、褒めてくださっているのですか」
そんな会話を交わす間に、蒼唯は妻を優しく抱きしめていた。
そしてその温もりを確かめつつ、また言葉を紡ぐ。
「賽貴はあれでいて、私からするととても高貴な方だ。持ち合わせる力もとても強いし、普段はかなり制限しているんだよ。本来ならば、人間界にこんなにも長く滞在してて良いはずもないのにね」
「銀の髪の男よりも、ですか」
「同じくらいだとは思うよ。ただ、諷貴どのには狂気が勝っている分、それを恐怖と感じてしまうのだろうね」
蒼唯の語る言葉は、いわば賽貴の補足のようなものであった。それほど、腕の中の妻が賽貴を拒絶していた期間が長かったのだ。
だから、自分の知る限りの全てを、静かに伝える。
「……賽貴は、いつまで我々の味方ですか?」
「少し前……昔に、同じことを聞いたことがあるよ。彼は天命尽きるまで、と言っていただろう? あれに偽りは無いらしいんだ。それで、あちらの世界での長の座が約束された身なのに、と重ねて聞いたんだ」
「…………」
「彼はね、唯一の我侭をお父君にぶつけたらしいんだ。貴方が死ぬまでは、『陰陽師の式神』であることを辞めないと」
「それはその……とても大変なことなのでは?」
「そうだね。私は一度だけ、彼の父君……つまりは王帝に会ったことがある。とても豪胆な方でね。だからおそらく、それで良しと賽貴に言ったんだろうね」
「……私どもの世界では、侭ならない事ばかりのような気がします」
桜姫は蒼唯の腕の中で、ただひたすらに驚きの連続であった。それでも必死に考えを纏めて、言葉を返している。
彼女が聡いのは、この辺りで証明される事であった。
「賽貴は普段、抑えた力をどのように消化しているのでしょう? 制御したままで長い間は、いられないように思うのですが」
「彼の場合は、結界力にそれを向けているみたいだね。だから彼の結界石は、とても強固なものなんだよ」
「そう、なのですね」
「……私は元よりそれほどの力もないから、貴女への愛情で発散させているけどね」
「な、何を仰っているのです……!」
蒼唯の表情が、悪戯っぽいものに変化した。
より深い思考へと沈みかけた桜姫を感じて、そこで冗談交じりの言葉を重ねて、やめさせたのだ。
案の定、桜姫は蒼唯にしか見せない反応で、頬を赤くする。
彼女の滅多に見られない表情は、蒼唯だけの特権だ。
「貴女をずっと、信じていたよ。私達は私達で出来ることで、浅葱を守っていこうね」
「はい」
夫婦は身を寄せ合ったままで、新たな決意を確かめ合う。
時に厳しく、そして包み込むような愛情を。
それが浅葱の両親の、出来る限りの気持ちの現われであった。
「――賽貴様に火急の報せを出せ!」
同じ頃、妖たちが住まう空間では、大火に覆われる屋敷があった。
それは、賽貴の生家であった。