十四話(一)
陰陽師と契約を結んだものは皆、体の一部分に主の血文字が刻まれる。
浅葱の式神たちも全員、体にその証がある。皆がそれぞれに自身で選んだ部位だ。
賽貴の印は首の後にあった。浅葱の祖父である瀞が記したそれは、未だに鮮明に残されている。
契約主の血が絶えぬ間は、引き継がれていくものであるらしい。
サラ、と賽貴の髪が音を立てて背中を滑る。
それを横になったままで見ていた浅葱が、静かに唇を開いた。
「……髪、きれいだね」
「突然に伸びたことへの違和感と、疑問では無いのですか」
「うん、だって……賽貴の髪にはずっと呪いのようなものがかかってたの、知っていたもの……」
賽貴の黒髪は、彼の言うとおりに突然、腰の長さまで一気に伸びた。
浅葱と夜を共にした、その夜明けの出来事であった。
賽貴は元々、髪の左半分が『伸びることを拒んだ状態』であった。原因は実の兄によるものらしいが、浅葱はそれを知らないままだ。
「……もう一生、あのままだと思っていました」
彼はそう言いながら、少し億劫そうにして自分の髪を首の後で一度ゆるく括った。
「どうして、今だったのかな……」
「それは、浅葱さまに触れたからでしょう」
「……そ、そう、なの?」
「もう一度なさいますか?」
「!」
賽貴のとんでもない言葉に、浅葱は当然ながらに赤面した。そして上掛けにしていた衣を頭から被り、顔を隠してしまう。
当然のことながら、彼は床から起き上がれない状態であった。
そこから数時間前の身に起きたことを鮮明に思い出してしまい、浅葱はあっさりと混乱した。
賽貴はそれを見ながら小さく微笑み、衣越しに彼の頭を優しく撫でてやる。
「……あなたはもう少し眠りなさい」
「さい、……」
呪文のような言葉が降ってきた、と思ったときには、浅葱の瞼は重くなっていた。
おそらくは賽貴が何かしらの能力を使ったに違いないが、浅葱はそれ以上の反応を返すことが出来ずに、そのまま眠りに落ちてしまう。
「…………」
賽貴の大きな手が、主をもう一度撫でる。
静かに布を捲くると、浅葱は小さな寝息を立てていた。視界での確認をして、彼は言葉無く傾けていた上体を起こした。
伸びた髪を首より少し上の位置で束ねて、今度こそしっかりと紐で括る。少し前に朔羅が髪が長いと頭が重い、などと言っていたことを思い出して、苦笑した。
同じような長さに切ってしまえばいいだけなのだが、浅葱はおそらく、伸びたままでいてほしかったと言うだろう。瀞にも髪は切らずに、と言われていたことを更に思い出して、彼の表情は僅かに歪んだ。
――お前じゃない、俺だ。『俺』が、『瀞』に選ばれたんだ!
「……っ」
肩がビクリ、と震えた。
脳内で響いた、遠い記憶の声に反応したのだ。
右手で握りこぶしを作り、強めに自分の眉間へと当てた。それを数回繰り返した後、静かにため息を吐き零す。
兄という存在が、いつまでも自分の体に耳奥にこびりついている。賽貴は静かにそしてひたすらに、この恐怖にも似た感情に向き合っている。
――否、向き合っているというよりかは、おそらくは諦めに近いか。
朔羅にも度々注意されていることだが、賽貴は兄のことを恨むこともなく、拒絶することもなく、ある意味受け入れている。
これは『逃げ』なのだろう、と彼自身は思っていた。
「いつまでもこれの繰り返しじゃ、また朔羅を怒らせるな……」
賽貴はそんな独り言を漏らしながら、苦笑した。
旧知の友は、いつでも一歩を下がって背中を押してくれる。もっと欲しがっても良いはずなのに、彼はそれをしようとはしなかった。
浅葱のことにしても、そうだ。
恋愛ではないと否定はしていたが、朔羅は浅葱を大切に想っていた。今もなお、そうであるはずだった。
彼はこの先もずっと、この立場を守り抜くのだろう。
それが朔羅なりの決意ともとれる行動だ。
彼に比べたら、自分はなんと意思が弱いのか。
賽貴はそう思案して、また自嘲する。
そして彼は、自分の着ていた着物を整えて静かに立ち上がった。
音を立てぬようにして浅葱の室を出て、御簾を押し開ける。空の色は、まだ東が白んできたくらいの明るさであった。
当然、屋敷内は静まり返っている。
「……賽貴か」
「その体で出るのはよせ」
「解っている。ただ、朝の空気を吸っておきたかったのだ」
朝の庭で顔を合わせるのは、紅炎と決まっていた。ここ数日は、やはり体調もあってかそれが行われてこなかったが、やはり彼女も長年身についた習慣には抗えないようだ。
「お前には、辛い思いばかりをさせてすまない」
「何故、貴方が謝るのだ。貴方のせいではないだろう。それに私は……もう、大分諦めがついた」
「……そうか。ならばとにかく今は、自分を労ってくれ」
「ありがとう、そうさせてもらう」
その会話は、二人とも顔を合わせること無く行われた。
賽貴も紅炎も、庭の一方を見たまま、距離を詰めること無くの会話だった。互いが気を遣った結果であった。
そして二人は、その後は言葉無く姿を消した。
紅炎は毎日の鍛錬を行わずに自室に戻り、賽貴は廊下を進む。向かう先は、普段は踏み入ることを禁じられている区域――桜姫の室であった。
「…………」
浅葱の母である桜姫は、この屋敷の主人のようなものである。それ故に、彼女は室は北の対屋に置かれていた。
そちらへと足を踏み入れた途端、足先から一気に全身へと感じ取ることが出来たものは、神聖な霊気と憎悪の感情であった。
気を抜けば皮膚が切れてしまいそうな鋭さのそれに、賽貴は小さく困ったようにして笑った。
いつもは決して反応しないが、今日だけはと彼はその『霊気』を押し払う。
パン、と短い音が響いた。
当然、それだけで彼女にも届いただろう。
「礼を弁えた殿方でしたら、この時間は既にお帰りのはずですよ」
「――ご無礼、お許しください『桜姫どの』」
「!」
賽貴は固く閉じられた妻戸の先で膝を折り、そこで頭を下げた。だがしかし、いつもであれば桜姫様と呼ぶところを、彼はそうしなかった。
意図的なものであると戸の向こうの桜姫も感じ取り、彼女から戸を開けて賽貴を中へと招き入れてくれた。
これはおそらく、初めてのことであった。