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夢月夜~古都あやかし幽玄奇譚~  作者: 星豆さとる
第四夜 招かねざる命
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六話

 何とも言えない悪心が、紅炎(こうえん)の体を襲っていた。

 食欲不振と嘔吐感。

 それがほぼ毎日続き、体力も落ちていく。

 原因がいまいち解らずに、彼女は一人で苦しんでいた。


 ほかの式神たちにもこの不調は既に気づかれている。あとは主に知られるのも時間の問題といったところであろう。

「くそ……」


 そんな言葉が彼女の口から直接漏れた。

 もどかしさが伝わる声音だ。

 自室で自分の体を抱き込みながら、紅炎は震えていた。

 寒い。

 ――体も、心も全部。

 不調が続くと精神も弱るためか、彼女の気持ちには少しの余裕も見受けられなかった。


「紅炎」

「!」


 名を呼ばれるまで、その気配にすら気付かなかった。

 丸くなっていた背がビクリと震えて、紅炎は激しく瞠目する。

 彼女の背後に立つのは白雪(しらゆき)であった。肩ごしに振り向けば、若干の厳しい表情を湛えており、無視も出来かねない状態だ。


「そなたから言い出すまではと待っておったが……それもそろそろ限界だ。浅葱どのも僅かであるが気づいておる」

「…………」


 白雪は静かに歩みを寄せて、紅炎のすぐ隣で膝を折った。

 そして彼女の反応を待たずに白い指を差し出して、肌に触れる。


「やはり、熱があるではないか」

「……大事無い」

「強がりを申すな。まともに立つことも出来ておらぬではないか」


 白雪の言葉に、紅炎はまともな言葉を返せなかった。

 彼女を見やることすら出来ずに、視線を低くする。

 白雪は構わず彼女の手を取り、確かな体温と脈を測り始めた。

女子(おなご)は体を冷やしてはならぬ。温石(おんじゃく)と火桶を――……」


 そこまでを言って、白雪はピクリと眉を動かした。そして指先から伝わる感覚に、顔色を変える。


「白雪?」


 その様子に首をかしげたのは紅炎だった。

 彼女は本当に、自身の不調の原因を知らないままのようだ。


「――そなた、月の障りが来ておらぬだろう。いつからだ?」

「……、……」


 紅炎の瞳が大きく揺れた。

 一瞬して生まれる逸る心と、焦りの感情。あっさりと繋がった線に、表情が歪む。

 まさか、そんな。

 有り得ない。

 震える唇はそれを音に載せることができずに、彼女はゆるく首を振った。


「紅炎……」

「なにかの間違いだ」


 白雪の言葉を遮るようにして、紅炎はそう言った。

 とても喜んでいるとは言い難い表情だった。目の前でそれを確認した白雪は、眉根を寄せる。


「まさかそなた、誰かから乱暴されて……」

「いや、そうではない。合意の上だったさ。……愛、などと言う感情はいっさい無いがな」


 彼女の吐き捨てるような言葉に、白雪は益々眉根の皺を深めた。到底、理解の出来ない言い分だった。

 易々と問いただせるものでもない。

 紅炎の身に起きている事は、それほど重要なことでもあった。


「白雪、あなたは……あなたには、身を焦がすような恋の記憶などはあるのか?」

「突然、何を申すのだ。(わらわ)のことなど……」

「聞かせて欲しいんだよ、それがどんなものなのか。私にはおそらく一生、巡り会えないものだからな」


 羽織っている着物を一度きつく握り締めたあと、紅炎は静かに言葉を並べた。

 凛々しく逞しい女の、普段は見ることも無いであろう哀しい笑顔。

 痛々しいくらいのそれに、白雪はかける言葉を見失う。

 そして彼女はゆっくりと溜息を吐きこぼしたあと、再び唇を開いた。


「――妾には、ただ一人と決めた方がおる。浅葱どのも知らぬ方だ。今、この世にはおらぬゆえに紹介も侭ならぬがな」

「想い合っていたのか」

「そうだな。あの方は今生では病弱であったがゆえに、手を繋ぐくらいの触れ合いしか適わなかった。それでも、今でもこの心を満たしたままでいてくれる不思議なお方だ」


 白雪は紅炎から僅かに視線を外したその先を見つめ、言葉を繋げた。

 彼女の言葉ぶりから、高貴な存在であっただろう『あの方』はすでにこの世を去っているらしい。人間であったのなら時間の枠という大きな差がある以上、どうしても避けることのできない別離だ。

 永きを生きている白雪には、それまでにも数え切れない程の出会いと別れがあったはずだ。その中で彼女もまた、儚い恋をしていたのだろうか。


「……あなたはそれで、良かったのか」

「何を良しとするかは、己の気持ち次第だ。妾にはあの方だけが最初で最後の人であった。……転生まで待たねばならぬが、それでも淋しいとは露ほども思っておらぬ」


 ――最初で最後の人。

 この永劫かとも思える世界で、彼女はただ一人だけを静かに待ち続けている。いつどこで、その魂が繰り返されるかもわからないというのに。

 寂しくは、無いのか。

 自分だったらどうだ。それほどまでに自分の心を相手に捧げることができるのか。

 少なくとも『彼』には、必要もないと笑われるのみだろう。

 紅炎は脳内でそんな言葉を並べた。すると途端に、自分の胸が苦しくなる。


「う、……っ」


 ぐぅ、と喉にこみ上げてくるものがあった。

 彼女は口元を押さえて、身を縮める。

 白雪はそんな紅炎の背に静かに手を添えて、ゆっくりとさすってくれた。


「――そなた、産む気は無いと思っているのだろう」

「当たり前……だ。浅葱どのに……、これ以上の迷惑は、掛けられない……」


 彼女の言うことは、間違ってはいない。

 紅炎は浅葱の式神の中で一番速く行動し、一番に戦える存在だ。式神としてあるべき姿を、そして使命を全うするべきだ。

 ――だが。


「紅炎は、後悔しているの?」

「!!」


 ゆら、と現れた気配と声に、紅炎の肩がビクリと大きく震えた。

 白雪もその気配を気づけなかったようで、僅かに驚いたような表情をしている。

 紅炎が戸惑いながらも動かした視線の先には、彼女たちの主である浅葱本人が立っていた。


「勝手に、ごめん。……話も、大体立ち聞きしちゃった」

「い、いえ……」


 彼はそう言いながら歩みを進めて、紅炎の傍でゆっくりと腰を下ろす。

 白雪が気を使って円座を差し出すが、浅葱はそれを手で制して紅炎へと向き直った。


「…………」


 否応なしに訪れた沈黙が重く、紅炎は思わず主から顔を背ける。

 そんな彼女に、浅葱は困ったような笑みを浮かべながら手を差し出した。そしてそれを紅炎の手の甲に重ねて、ゆっくりと握る。


「聞いて欲しいんだ、紅炎」


 浅葱は穏やかな口調でそう切り出した。

 指先から伝わる温もりに、紅炎の体の震えがじわりと和らいでいくのがわかる。

 白雪は二人から僅かに離れた場所に静かに座り、前を見据えた。


「紅炎と相手の方にどんな事情があるのかは判りかねるけど、私は産んでもらいたいと思ってる」

「……それは、……私が、受け入れられません……」

「好きなんでしょう?」

「…………」


 ――好き?

 私が、あの男を。

 紅炎は瞠目したまま、顔を硬直させた。


「それでも駄目なのです、……浅葱どの。私は罪を犯した」

「紅炎……?」


 震える唇でそう言えば、じくりと目頭が熱くなっていくのがわかった。

 浅葱は紅炎の変化に少し慌てたような表情で見つめてくる。

 そう、この優しい瞳に絆されてはいけないのだ。

 今、自分の腹の中にいるのは、決して産んではならない子なのだから。


 ぽつ、と浅葱の手の甲にひとつの雫が落ちる。


 それは紅炎の瞳からこぼれた涙だった。


「産んではいけないのです。……不義の子は、必ず不幸になります。そして私は……この子をきっと愛せない」

「どうして……?」

「……私が、あの男を好いているからです。あの男をずっと、……今でもっ、愚かだと痛感しつつも、私はもっと欲してしまう……!」


 紅炎は身を乗り出し浅葱の腕を掴んでそう言ってきた。

 普段の彼女からは、想像もできない行動であった。

 瞳からは後から後から大粒の涙が溢れてこぼれ落ちていく。

 最初は驚いていた浅葱であったが、直後にそんな紅炎の体を優しく抱きしめてやった。


「その人のことを、本当に愛しているんだね。だったら尚更、産むべきだよ。育てられないというのなら、私が育てよう」

「浅葱どの、……何を、言って……。私は、罰せられる立場にあるはずで……っ」

「妾より、よっぽどそなたのほうが情熱的で身を焦がすような経験をしておるではないか。浅葱どのの言うとおり、子は残したほうが良い。そなたの身体のためにもな」


 鈴が転がるようにして笑ったあと、そう言ってきたのは白雪だ。

 浅葱も白雪も、紅炎には笑みを向けるばかりである。彼女がこれほど嫌がっているにも関わらず、彼らは子を産めという。

 相手が誰であるのか、そしてそれを知ってしまった時、同じ事が言えるのかと紅炎は心の奥で一人つぶやく。

 その心は、ますます曇っていくばかりだった。


「……では、生まれてくる子が賽貴(さいき)と似ていたとしても……浅葱どのは同じことを私に言ってくださいますか」

「え……?」


 浅葱の表情に歪みが生まれた。素直な反応だった。

 それを間近で確認した紅炎は、薄く笑う。そして同時に、自分はこんなにも浅ましい女だったのかと心で思ったりもした。

 だが改める気持ちも今はない。

 ――紅炎の脳裏にある男の顔が浅葱たちを哂っているかのような感覚に陥り、軽い眩暈すら覚える。


「浅葱どの。この子は必ずやあなたの足枷になりましょう。なぜならこの子の父親は、賽貴の兄なのですから」

「!」


 紅炎の放った響きは、あまりにも予想外であった。

 おそらく誰も、賽貴ですらもこの事実を知らないままであっただろう。

 白雪もさすがに驚いているらしく、整った眉が僅かに歪んでいる。


 ――賀茂家の陰陽師は、代々変わり者ばかりだ。

 本来の精霊との契約を交わさずに、敵である(あやかし)と手を取り合った。

 それを良しとするものは、全てを受け入れ理解するものは一族のみであり、その他の陰陽師からは未だに異質で愚かな行為だと思われている。

 浅葱もまた、そんな変わり者に属する存在だ。

 だからこそ、彼は微笑みを絶やさない。どんな時にでも。


「――紅炎、もう一度言うよ。あなたは子を残しなさい」


 そう言ってにこりと笑う彼の表情には、一点の曇すら見えなかった。

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