五話
「紅炎さんって、前からあんな感じだった?」
手習いの上達具合を見てもらいつつそう問いかけたのは、藍であった。
そばで筆の入りを音で確認していた颯悦が、僅かに瞳を揺らがせる。
「…………」
最初は、騒がしいだけの少女だと思っていた。
だが、ここに来てからの彼女は変わりつつあった。あれだけ嫌がっていた『人間』である桜姫には薫物や作法を習い、白雪からは裁縫を教わりそして、自分からは知識と書を習っている。
そんな藍には天性の洞察力があった。兄の琳にも備わっているものなので、血筋なのかもしれない。
「元からあんまりお話とかしないけど……なんていうか、元気がないっていうか……」
「そうだな、それは私も気になっていた」
「浅葱は気づいてるかな?」
「……いや、浅葱さまには気づかれぬようにしているようだからな」
会話をしている間にも、藍は目の前の書をきちんと書き進めていた。基本は出来ているので、飲み込みも反映も早い。
行儀はあまり良いとは言えないが、それでも颯悦は会話を止めることはしなかった。
紅炎本人を除く式神の誰もが、彼女の小さな変化にそれぞれに気づいていた。
どうしたものかと模索しているところに、きっかけを与えてくれたのが藍であったために、颯悦もそれを利用したようだ。
「あれは自尊心も高いから我らにもあまり自分のことを進んでは話たがらん。それゆえに内情を詳しく知ることも難しい。一番近しいのは、桜姫さまだが……」
「うーん、余計に言わなさそう。紅炎さんって、最初の主が桜姫さまでしょ? だったら絶対、言わないと思う」
「……なるほど、それもそうだな」
琳と共に人間界に来て半年ほどであるが、よく見ていると颯悦は思った。おそらく無意識に観察しているのだろうが、そこからの記憶力と知識欲が並以上だ。
「まぁ、あたしが悩んでも仕方ないんだけどね。なんか、気になっちゃって」
「本人の問題だからな。だが、家人がこれほど気にかける事態になってしまった今では、隠し通せるものでもない。浅葱さまに報告しておいたほうがいいだろう」
「うん、そうだよね。紅炎さんは浅葱の式神で、戦闘になったらあの人が一番動けるしね」
彼女はそう言いながら、課題の文字を書き上げてそっと筆を置く。
最初はふらふらとしていた筆跡も、大分立派になってきた。まだまだ兄の琳には到底及ばないが、数ヶ月続ければ追いつくくらいまでには成長できるだろう。
「浅葱も、こうやって颯悦さんに書を習ったの?」
「ああ、そうだ。ほんの数年前までは傍でお教えしていた」
ふー、とゆっくり足を崩しつつ藍は颯悦を見やった。
光を映さない茶色の瞳。最初から何も見えないとは聞かされているが、彼はきっと様々な感覚を視てきたのだろう。
空気を感じ世界を視て、ヒトを視て、『主』を視て。
「――颯悦さん、浅葱のこと好きなんでしょ?」
「……っ」
藍の的確な言葉に、颯悦の肩が震えた。
滅多に見られない動揺の証だった。目の当たりにした藍は、その動揺に小さな笑みを浮かべる。
「……笑っただろう」
「うん。だって、可愛いなって思ったから」
「大人に向かって、可愛いはないだろう」
藍の口元の変化に気づいた颯悦は、若干不満そうであった。
あっさりと自分の気持ちを言い当てられた事もそうだが、そんな自分を可愛いと言ってのける彼女を理解できないようだ。
「まぁ颯悦さんから見ればあたしはまだまだお子様だろうけど、これでも浅葱より長く生きてるし、その分ヒトよりはちょっとだけ勘は良いと思ってるんだけどな」
「お前は素直すぎる」
「一人ぐらい、そう言うのが居てもいいじゃない」
リン、と鈴の音が室内で響く。
藍の髪を束ねている組紐からの音だ。彼女が横に首を傾けたその時に響いたのだが、颯悦はその音色にはっとした。
純真で純粋な、一人の少女の本音。
嘘をつけないからこそ、思ったことを素直に吐露する。
曇りのない涼やかな響きは、生真面目な男の心を僅かにくすぐったのだ。
「……そうだな、悪くはない」
「でしょ?」
藍は文机の前で足を伸ばしながらそう言う。若干痺れていたのかもしれない。
ちらりと颯悦を見やれば、彼はやはりいつもよりかは気まずそうな表情をしていた。
「浅葱さまのことは、……その、内密に頼む」
「伝える気はないんだね。なんでも出来る颯悦さんでも、恋は不器用なんだ」
軽く肩をすくめつつ藍はそう言う。
すると颯悦は、益々の困り顔になった。
普段崩れることのない整った顔を、藍はもっと崩してみたいと純粋に思った。
「し、仕方ないだろう。後にも先にも私が心に誓ったのは浅葱さまだけだ」
「――じゃあ、あたしに誓えばいいじゃない」
天井を見上げながら、さらり、と何でもないことのようにして藍は言う。
そしてまた、横目で書の師を盗み見た。
颯悦は返事を忘れるほどの衝撃を受けているようだった。その表情は、おそらく浅葱にも見せたことはないのだろうと彼女は察する。
「どう? あたしに誓ってみない? ちょうど、空いてるよ」
「し、しかし……お前は……」
「うん、賽貴さまのこと……今でも少しだけ、引き摺ってる。完全に吹っ切れたわけじゃないんだ。確かに家の事情で北の方候補として育てられて、その通りにしようって思ってたけど……それじゃ、ダメだった」
藍はそこで膝を曲げて、両腕で抱え込んだ。
そして、僅かに抱いていた恋心を思い起こして、寂しそうに笑う。
「……賽貴さまのことは、もう一人の年の離れた兄様っていう感じだった。向こうにいる時、一族の半端ものとして扱われてたあたしに唯一優しくしてくれたのが賽貴さまだったから、それで勘違いもしてた。……でも、いいんだ。賽貴さまの想い人が浅葱だったから。浅葱じゃないとダメで、そんな『兄様』を見ることが出来たから、もう満足してるの」
「藍……」
彼女は決して、同情心を買うためにそう言っているわけでなかった。
想い人の行く末をきちんと見極めて、気持ちに答えを見いだせたからこその言葉だった。
颯悦にも、似たような整頓された思いがある。自分は随分と時間がかかったものだがと、心の奥で呟くと彼は音もなく口元に笑みを浮かべた。
「お前の良いところは、その前向きさだな」
「惚れちゃうでしょ?」
ふふ、と彼女は笑いながらそう言った。
――叶わない思いをずっと抱いたままではなく、転化させていく。
そんな藍の姿を、颯悦は羨ましいと思った。
「……まぁ、成長を見続けるのも悪くない。だが、私はお前を見ることは出来ないんだぞ」
「でも、颯悦さんはあたしがわかるもの」
「…………」
颯悦にはわからなかった。
他の式神たちに比べれば、自分には特記すべきものが何もない上に目も見えない。どちらかといえば日陰者であると思っていただけに、藍が自分に興味を持ったこの今の現実を理解し難いようだ。
「あのね。あたしにも、わからないんだ。……だけど、誰でもいいってわけじゃない。ただ、もっと颯悦さんの色んな顔を見てみたいって……そう思ったの」
藍のその言葉が、妙に心に突き刺さるかのような気がした。
そして、痛感したことがあった。
「――私に埋められると思うのか、お前のその寂しさを」
「颯悦さんには、私の『色』を見つけてもらえれば、それでいいよ」
颯悦に見えない藍の表情は、どんなものなのだろう。
笑っているような空気は小さなものにしか感じられなかった。
だが、向けられる気持ちが例え一時の迷いのようなものであっても、跳ね除けてしまってはいけないようなそんな気がした。
だから彼は、次の言葉をこう繋げるしかなかった。
「お前には、敵わないな」
それをハッキリと耳にした藍は、そこで小さく笑ったのだった。