三話(一)
――視えたものは、昏い闇だった。
もやもやとしたそれは形すらハッキリとはせず、明らかに良くないものだと蒼唯は理解する。
「うん、これは……用心したほうがよそうだ」
ぽつり、と独り言の音に似たそれを口からこぼすと、朔羅が眉根を寄せた。
「何が視えたの?」
「闇だったよ。私がそれ以上を視れないということは、必然的に存在も割れてくるものだけど」
「……貴方にそれを言われると、割と八方塞がりになるんだけどね」
蒼唯の言葉に、朔羅は肩をすくめながらそう言った。その表情はあまり穏やかではない。
ある程度は予想できてはいたが、不安要素を拭えたわけではなく、むしろ増える一方のような気がする。
「若芽どころか、根の張った巨木だよ……」
「それでも、取り払うのが君たちの役目だ。……浅葱を、頼むよ」
「肝に銘じるよ、蒼唯さん」
目の前の人物が『本気』を出せば、大きな問題であってもそれを半減できる力を持ち合わせているのに。
朔羅は心でそんな思考を巡らせながら、苦笑した。
――蒼唯は、戦わない。
どんなことがあっても、彼はその能力の半分も発揮しない。
浅葱の母、桜姫と出会ったあの日から。
その理由を知っている朔羅には、全てを受け入れるしかないのだ。そして、託された責任を背負うために立ち上がる。
「――朔羅」
「なに?」
室を後にしようとしている朔羅を見上げて、蒼唯が彼を呼び止める。
朔羅は振り向かずに彼の言葉の続きを待った。
「無理はしないようにね」
「わかってるよ、蒼唯さん」
僅かに滲み出る優しさの感情に、浅葱の影を感じた。
確かに彼は、自分の主の父親なのだ。
それを改めて確かめつつ、いつものように唇に薄い笑みを湛えて蒼唯の室を離れ、そして浅葱の下へと足を向けた。
賽貴にだけは、先に伝えておくべきだと判断したためだ。
目に見えなくとも、じわりじわりと確実に。
自分たちに関わる現実すべてを、侵食されていくかのような予感は静かに広がっていく。
「なんでこうも色々と起こりたがるかなぁ、ヒトの界隈っていうのは……」
そんな独り言漏らしつつ、朔羅は深い溜息を吐いた。
目まぐるしいのは人の世だからこそ、と彼は思う。だがそれでも、こういう展開は好みの色合いではないとも思うのだ。
――であれば、なおのこと。
「…………」
朔羅が足早に歩みを進めると、浅葱の室内にて座している賽貴がゆっくりと顔を上げた。
「……浅葱さま、少し席を外してもよろしいですか」
「あ、うん。大丈夫だよ」
「すぐに戻ります」
変わらず文机に向かっていた浅葱の背へと、賽貴は静かに言葉をかけた。
浅葱は一度手を止め、彼を振り返ってから返事をする。
それをきちんと目に留めたのち、賽貴は静かに立ち上がって傍の御簾を片手で押し上げた。そこからするりと身を滑らせ廊に出た直後、朔羅の姿を視界に入れる。
「…………」
視点が合った二人は、どちらからともなく目配せで庭の方角を示した。浅葱からはなるべく距離を取った方が良いと判断したのだろう。
そして音もなく、彼らはそれぞれの場所から庭の奥へと移動した。
「何かあったのか」
「まぁね。僕が蒼唯さんに能力を使わせたのは、わかってるんでしょ? 浅葱さんも気づいてたと思うし」
「……ああ」
中池の傍へと足を下ろした二人は、静かに会話を始めた。
その池に視線を落としつつ、賽貴は朔羅の言葉に答えていた。
澄んだ水の向こうには、美しい色合いの魚が自由に泳ぎ回っている。
「――『闇』が象徴するものって、なんだと思う?」
「それが……蒼唯さまが視たものか」
賽貴は朔羅の問いかけに答えなかった。その代わりに、先に確信へと触れる。
朔羅はそれを目の前で受け止めて、苦笑した。
「鳥人族の視る力は計り知れない。だけど蒼唯さんは見えたものは闇だったって言ってた。……はっきりと形にして見えなくて、でも闇だとすると……思い当たるのはごくごく近しい人しかいないんだよね」
「そうだな」
軽い口調だった。
ただ、二人共視線は厳しいものであった。
そこで一度、会話が途切れる。
朔羅も賽貴も、次の言葉を発することに躊躇いを抱いているのだ。
――ざぁ、と一陣の風が舞った。頬に感じるそれは、ひどく冷たいものだった。
「――諷貴さん、来るかもしれない」
「…………」
――また来る。
数ヶ月前、彼は確かにそう言っていた。
浅葱に興味を持った以上は、避けられない現実だ。
自覚すると、賽貴の瞳がゆっくりゆっくりと、自然に曇っていく。
それを見た朔羅は、眉根を寄せて再び口を開いた。
「賽貴さん、見失っちゃダメだよ」
「!」
語気の強い声音に、賽貴はぴくりと右頬を引きつらせる。
そして数回瞬きをして、ゆるく首を振った。
「あなたはあの人が絡んでくると、不安定になる。それを浅葱さんに気づかせちゃいけない。それから、身を引いたり諦めたりもしたら駄目だからね、絶対に」
「……ああ」
賽貴の返事は、いつもより低い音だった。そして心なしか、弱い響きでもあった。
それに納得ができない朔羅は、彼の肩に手を置く。
「賽貴さん、しっかりするんだ。ちゃんといつものようにして。あなたが揺らいでどうするの。……僕らのそれぞれの誓いはそんな簡単に歪んでしまうものじゃないでしょ」
「解ってる。……いや、俺はそんなに……情けない顔をしているのか?」
「あの時と同じ顔をしてる。恨んでいるはずの相手に、どうしてあなたはいつもギリギリの所で身を引いちゃうの。血がそうさせてしまうの?」
兄弟だから。彼は賽貴の兄だから。
朔羅の言葉は、それを意味していた。
賽貴にはそんなつもりはさらさら無かったのだが、自覚がなかっただけでそうだったのかもしれないなどと、思えてしまう自分も確かにいた。
――あの時は、ことのほか。
諷貴が自分の兄だからという理由ではなく、『彼』が自分ではなく諷貴の手を取ったから――。
――でも私は、賽貴が好き……。
脳内の記憶が呼び起こした音は、浅葱の声音だった。
無意識に右手の指先が額に行き、表情を隠すようにして彼は俯いてしまう。
「賽貴さん」
朔羅が追い打ちをかけるようにして、言葉を続けた。
あの時のあの場面を共に見てきたからこそ、彼だけが賽貴に厳しくなれるのだ。
「僕と改めての約束をして。何があっても、浅葱さんの手を離さないって」
「……その約束を違えたら、お前が浅葱を攫ってしまうのか」
「賽貴さん、それ本気で言ってるんだったら……怒るよ?」
瞬時に、その場の空気が一変した。
ざわりと冷たいそれが広がり、わざわざ距離を取ったにも関わらずに浅葱にまで届いてしまう始末であった。
賽貴は自嘲気味に笑うのみであったし、朔羅も彼の言葉にあっさりと腹を立ててしまい、瞳の色が金色に変わるまでになっている。
「二人共、どうしたの?」
空気の大きな変化を感じ取った浅葱が、二人の傍へと駆け寄ってきた。
賽貴も朔羅も、互いに顔を背けて言葉を繋ぐことをやめてしまう。
思うところは、同じこと――。
彼らは彼らなりに、目の前の主を大切に思っている。
だからこそ譲れない感情があって、許せない感情もある。
「……浅葱さん、ちょっと僕と一緒に出かけようか」
「え? えっと……」
「夕刻までに戻れば大丈夫でしょ。急ぎの依頼があるわけでもないし、僕に付き合って」
朔羅は半ば強引に、浅葱の右手を取った。そして彼の返事を対して聞かずに、その腕に主を抱いて地を蹴る。
見上げる賽貴の表情は、複雑そうであった。だが彼は、朔羅の行動を止めることなく見送るのみだ。