二話(一)
人気のない古びた屋敷の一室に、小さく灯る炎があった。
ゆらりとそれが揺れれば、ひとつの影が動いた証となる。
「――帰るのか」
言葉なく着物を着込むしなやかな肢体の女の背中に、そんな声がかかった。
声の主は寝転んだまま、口元に笑みをたたえている。
「用は済んだのだ。これ以上居座る理由はないだろう」
「少しは名残惜しんで見せたらどうだ」
女は声には背を向けたままで、手早く着付けを済ます。最後に手を伸ばした先には、金の輝きが入り込んだ黒の帯があった。
「あなたは私にそれを求めることは無いだろう。だから私もそうしないだけだ」
「くく……相変わらずな女だな。まぁ、しつこい奴よりかはお前は何倍も良い存在だよ」
女の背後にいるのは長い銀髪の男だった。
にたりと笑みを浮かべたまま女の言葉にそう答えると、彼はだるそうに腕を動かしてその場に散らかる一つの布を引いた。
「……用は済んだのだろう」
「そう言うなよ。もう少しだけ此処に居ろ」
男が引いた布は、女の着物の一部だった。
紅色の布に深いしわが食い込み、より一層の濃い赤が広がる。
女は、そんな男の要求に否定の色は出せずにいた。
「あなたは、ずるい人だ」
女の唇からそんな言葉が漏れる。
愛欲があって招かれるわけでは無いこの行為に、彼女は心で憂いでいるのだ。
――いつも、いつでも。自分はこの男の心には届かない。
何度も心根で呟いた言葉。
いくら欲しても目の前の男には届かない。こんなに傍に居るのに、気持ちを掴むことができない。
最初はこんな醜い感情など抱くはずもなかったのに。
「……ずるいひとだ」
心が通わない行為ならいっそきっぱりと決別してしまうべきだと思いながら、女はその男の腕から逃れることができずにいた。
ひらり、と黄色い紅葉が一枚、縁に落ちてきた。
音のみでそれを感じ、身を屈めたのは颯悦だった。
「……黄金……いや、山吹に近い色か」
指の感触のみで色を確かめる。生まれつき光の宿らない瞳には、実際の色は解りえないが彼の言い当てる色は大抵は正しい。
生きる上で身につけた才能の一つなのかもしれない。
「――ねぇ、だったらこの色はわかる?」
そんな彼に声をかけたのは藍であった。右手には一枚の落ち葉が収まっている。
「こちらに。触らねばわからん」
「うん」
突然の声だったが颯悦は露ほども驚いた表情を見せずに、ゆるりと藍を振り向いた。
そして空いている手を差し出して、藍の持っている落ち葉を受け取る。
「……紅鳶だな」
「どうしてわかるの?」
「長年の感覚と……色には匂いがある」
「匂い……」
俄かに信じがたいと思える回答だったが、それでも藍は真面目に反復した。
何事にも真摯に向き合い、虚言などは一切言わない彼だからこそ素直に受け入れられるのかもしれない。
そんな颯悦は藍にとっては書の師範でもあった。
「それは、鳥人族だからこそわかるものなの?」
「わからん。私はほとんど鳥人族とは接したことがないからな。近しいと言えば蒼唯さまくらいだ」
颯悦は、ヒトと鳥人族との間に生まれた『半妖』だ。鳥人族といえば博識なものが多く、どの種族よりも頭脳が優れているとされる。
彼も例に漏れずで頭の回転も早く、高い知性の持ち主だ。
だから藍は、わからないことがあれば颯悦に質問することが多いのだ。
「……颯悦さんの父上は……っ、あ、ご、ごめんなさい」
「いや、構わんよ。私の父は鳥人族としては誇れる存在ではなかった。それは誰より私が知っている事実だ」
質問を繰り返すうちに聞いてはいけないことまで聞いてしまった藍は、慌てて口の口元へと手をやった。
いつも厳しくある颯悦だが、そんな藍の姿に珍しく笑みを見せる。
「何か、他に聞きたいことがあるのでは無いのか?」
「あ、ええと……うん」
「では、室で聞くとしよう。書の上達具合も確かめたいしな」
妙にしおらしい藍に対し、颯悦は柔らかく瞳を細めた。
彼女の姿をその目で確かめることは出来ないが、空気だけで想像は容易いようだ。
そして彼は、そっと藍の背を押して縁からの移動を提案した。
藍は素直にこくりと頷き、颯悦と並んで歩みを進める。
そんな意外な組み合わせともとれる二人の姿を遠巻きに目にしていた朔羅が、欄干に肘をついてふうう、と息を吐いた。
「……なんだろう、最近意外な事が多いな。なにかの前触れだったらイヤだなぁ……」
歪んだ口元がそんな言葉を漏らす。
傍から見れば微笑ましいと思えることも、朔羅の目に映る分には若干の違和感があるらしい。
先日の紅炎の表情といい、気になることがあるのだ。
満月のあたりから少しずつ少しずつ、この屋敷内で誰もが気づくことなく何かが崩れているような、そんな小さな不安だ。
「……イヤだな」
朔羅はもう一度、同じ言葉を繰り返す。
どこかで憶えのあるような気がするのだ。それを明確に探ることが出来ずに、もどかしさすら感じる。
「あんまり気が進まないけど、蒼唯さんにお願いしてみるかな」
彼はそう言いながら、ゆっくりと腰を上げた。