一話(二)
「説明してよ、どういうこと!?」
「ら、藍……あの、これは……」
目を釣り上げて明らかに憤怒している様子の藍が、浅葱に詰め寄ってくる。
浅葱は賽貴との事を見咎められるのかと思い、焦りの色を見せて口ごもった。
「藍、浅葱どのは今お帰りになったばかりですよ。失礼じゃないですか」
「だって、琳! あまりにも不公平じゃない!!」
藍の後ろに見えた人影が、落ち着いた口調で彼女を諭す。それは、人形に戻った琳であった。
その琳に首だけで振り向き、藍は右足をだん、と床に叩きつける。少々、女子としては奥ゆかしさが足りたい行動だ。
妹のそんな様子に呆れた表情を浮かべるのは琳だ。
「……藍。僕は主殿には先に言うことがあるでしょう、と言ってるんですよ。お前は桜姫どのや白雪どのに、普段から何を習っているのですか」
「だ、だってぇ……」
「――我が妹が失礼いたしました、浅葱どの。そして、お帰りなさいませ」
藍の肩に手を置き、そして彼女をつい、と横に移動させつつ己の足を一歩進めた琳は、完璧な所作で浅葱の前で会釈をする。
「ただいま、琳。体には不調はなさそうだね」
「このとおり、どこにも変化はありません。それどころか、以前よりとても快適ですよ」
「!」
浅葱の言葉を受けて次に琳が起こした行動は、少し意外なものだった。
目の前の浅葱の右手を、自然に取ったのだ。
その場にいた誰もが、その行動にそれぞれに小さな反応を生み出す。
「り、琳?」
「……かすり傷、ですか。あなたはいつでも怪我が絶えませんね、浅葱どの」
「!!」
二度目の衝撃が訪れた。
珍しく賽貴の感情が大きく揺れて、周囲の木々がざわりと揺れる。
いつものように日当たりの良い庭の木に腰掛け、うとうとと微睡んでいた朔羅が、それを受け止めて苦笑を漏らした。
そしてゆっくりと体を起こして、問題の足元へと視線を落とす。
いとも簡単に浅葱の右手を取った琳は、そう告げたあとにその手を自分の口元に持っていったのだ。そして小指の付け根に薄く出来ていた傷へと唇を寄せて、彼は小さく笑う。
白雪も藍も、琳の大胆な行動に瞠目しか出来ずにいた。
浅葱は目を丸くしながら真っ赤になっている。
「今日は賽貴様もご同行されていたのですよね? 主殿に怪我を負わせずにいるのも、式神としての務めなのではないですか?」
「――――」
挑戦的な響きだった。
賽貴は黙ったままだったが、眉根が僅かに動いている。感情的には良いものではないと誰もが分かった。
琳のそんな態度を目の前で見て、藍は冷や汗を浮かべる。
少し前までは同じくらいの背丈であった兄は、いつの間にか浅葱の背を僅かに超えるほどになっていた。そんな彼のあからさまな態度に、動揺を隠せないのだ。
「り、琳……」
「……藍、浅葱どのにかける言葉を僕はまだ聞いていませんよ」
「お、おかえりなさい、浅葱……」
控えめな声をかければ、彼はいつもどおりの口調で藍にそう促してくる。
藍はそれに従うしかなく、たどたどしく言葉を繋げた。
「浅葱どの」
呆けたままでいる浅葱に、白雪が声をかけた。
すると浅葱は慌てて一、二度の瞬きをしたあと藍に視線をやって「ただいま」と返事をした。
「……藍は、浅葱さまに何用があったのだ」
賽貴がそこでようやく、静かに告げた。
敢えて、琳の言葉を無視した形だった。
「え、えっと……だって、琳の背が高くなって……それで……」
「ああ、それで『不公平』って話だったんだね……。私も最初は驚いたんだけど、琳も私と同じで成長期だからかな」
「だったら、アタシも同じじゃない! アタシだけ置いていかれてるみたいでイヤなの!」
藍が怒鳴り込んできた件は、琳の成長のことだったのだ。
彼女は兄が勝手に背が伸びたことに腹を立てて、納得ができずに浅葱に詰め寄ってきたのだ。
浅葱はそんな彼女の言葉を受けて、小さく笑った。決して嘲るわけではなく、藍が可愛らしいと感じたからだ。
「藍は女の子だもの。ゆっくりと女の子らしく成長していったら良いんだよ」
「…………」
ぽん、と浅葱が藍の頭の上に手を置いた。
そしてそれをゆっくりと動かして、彼女の髪をやさしく撫でながらそう言うと、何故か藍の頬が僅かに染まる。
「……おやおや、浅葱さんもなかなかのやり手だね」
自覚はないようだけど、と独り言を続けるのは高みの見物を続けている朔羅だ。
その表情はとても楽しそうであった。
「とりあえず、浅葱どのは帰られたばかりです。お着替えを済ませて休ませたいのですが、よろしいですか?」
そう切り出したのは白雪だ。
確かに、ここは車止めからさほどの距離もない廊下。そこで浅葱を出迎えた白雪にとっては、早く主を自室へと導き労いたいのだろう。
「一刻ほどの後、お部屋にお伺いします。浅葱どの」
「あ、うん。わかりました」
白雪の言葉に逆らう者は誰もいない。それが合図になり、浅葱は廊の先を進み始める。
すると琳が頭を下げながらそう言ってきた。浅葱が不在の間の様々な報告は彼の役目であるために、必然とされる言葉の響きだった。
だが。
「浅葱さまはこれよりお休みになる。要件のほうは私が聞く。いいな」
「……珍しいですね、賽貴様。あなたがそんな風に僕を牽制なさるなんて。ですが今は、解りましたと言っておきます」
「…………」
猫の姿であった頃の方が、よっぽど聞き分けが良かった気がすると感じたのは賽貴だけなのだろうか。
いつもより低い声音で琳にそう告げた賽貴であったが、あまり効果は見受けられない。
琳のより磨きのかかった高慢な態度に、賽貴の冷静さがどこまで保てるのか。外から見てる分には楽しいが、本人の心中は決して穏やかではないだろう。
「うーん、これは……僕にとっても厄介なことになるのかなぁ」
相変わらずの独り言を繰り返す朔羅の表情は、笑を含みながらも複雑そうだ。
そんな彼の視界の端に、わずかに映りこんだ影があった。京の見回りに出払っていたはずの紅炎のものであった。
移動する浅葱たちの姿を、彼女は遠巻きに見つめている。
「……紅炎?」
いつもであれば主へと報告のために歩みを寄せる仕草を見せるはずなのに、彼女はその場に立ち尽くしたままだ。
その姿に、朔羅は眉根を寄せる。
明らかに違う顔。苦しそうな、それでいて悲しいような。
そして彼女は、ふらりとした足取りでその場を後にした。自室へと戻るのだろう。
自分の立場を誰よりも理解し、その行動を違えるはずもない紅炎の意外な顔。それを偶然にも見てしまった朔羅は、ますますその眉を寄せて、音もなく木から飛び降りるのだった。