十話
朔羅は、長きを生きている間に大切なものを見つけた。
『彼』に出会い、今はまた、あの子のそばにいる。
『彼』によく似た、それでも全然違う存在。
それは、朔羅の大切な、大切な――。
「浅葱……!?」
悲鳴に似た声と、ガタゴトとけたたましく床を叩く音が同時に響いた。
その場を通りかかった藍が、視界に映る惨状に驚いて持っていた巻物を落としたのだ。
「賽貴さま、一体どういうこと!?」
「…………」
説明を求めて詰め寄っても、答えはもらえない。
藍は口をつぐむ賽貴を押しのけて浅葱に駆け寄ると、その顔を覗き込んだ。
「……っ、浅葱、浅葱!!」
血の気の失せた、血だらけの顔。
傍で治療を続ける白雪の額には、珠の汗が浮かんでいる。
『藍、治療の邪魔になる。下がりなさい』
「なに呑気なこと言ってんのよ、琳!!」
尚も浅葱の様子を伺おうとする藍の着物の裾を引いたのは、猫の姿の琳であった。
極めて冷静な態度の兄に向かって藍は、そんな声を上げる。
「……血が、血が足りないの? そうだったら、アタシの使って……!」
「駄目だ、藍」
懐から小刀を取り出しつつそう言う藍に、賽貴が動いた。
治療の妨げにならないように彼女の体を浅葱から引き離しながら、そう言う。
藍はそれに、信じられないといった表情を見せた。
「どうして、賽貴さま! アタシ達の血を使えば、浅葱は一瞬で……!!」
「だから駄目なんだ。我々の血は与えられない」
「賽貴さま! 何を悠長なこと言ってるの……!?」
天猫族の血は、強力な薬となるとして妖の間では広く知られている。
まさに命の妙薬とも言えるものだ。
ただし、それは妖にとってのことであり、人間の身に与える影響は計り知れない。
たとえその身に流れる血の半分が、魔に属するものであってもだ。
「強すぎる薬は、毒になる。……わかるだろう?」
「でも、……そんな事言ってる余裕がどこあるの? ねぇ、賽貴さま!!」
藍は首を振って賽貴に詰め寄った。
彼女の瞳からは涙がこぼれ落ちている。浅葱を心底から心配している証拠だ。
小さな拳で、どん、と賽貴の胸を叩きながら、言い知れぬ不安を訴えた。
ここにいる誰しもが、藍と似たような心境を抱いているはずだ。
自分たちの主を、失うかもしれない恐怖を――。
「浅葱は助かります。落ち着きなさい、藍」
凛とした声が響いた。
室の入口に、桜姫が静かに立っている。
彼女は静まり返った室内を一瞥したあと、ゆっくりと唇を開いた。
「……現役だった頃、私も一度だけ同じことをしたことがあります。浅葱にはこの術を伝えていなかったのだけど……伝わるものなのですね」
浅葱のそばに歩みを寄せ、その額に手を置きながらそう言う桜姫。
慈愛に満ちた表情だった。藍は初めて、優しい顔の彼女を見た。
優しい人だとは思っていた。だが、それ以上に常に厳しくもあり……。
おそらくは、自分の子である浅葱にすら見せた事がないであろう『母の顔』だ。
「白雪、出来ますね?」
「……復元は、可能にございます。ですが……」
「心配することはありません。……琳?」
『はい』
治療を続けている白雪に向かってそう言ったあと、桜姫は琳に向き直った。
琳は遅れを取らずに彼女に返事をする。
「浅葱は、内裏で何を作っていましたか?」
『……形代になる、符を……』
「では、わかりますね?」
この屋敷内で、一番に動揺しているのは藍とそして琳であった。
琳は動じていないように見えるが、冷静を保っているだけで心情は藍と大差なかったのだ。
それを全て読み取っている桜姫は改めて二人に視線を送り、また言葉をつなげた。
「浅葱は、お前たちを残してどこかに旅立ってしまうことは決してありませんよ」
笑みを湛えた表情でそう言えば、どこか心が落ち着いていく気がして、藍も琳も不思議にそれを受け止めた。
そしてゆっくりと頷きを見せて「はい」と応える。
桜姫は彼らの返事を耳にしたあと、すっと立ち上がった。そして賽貴に向かい合い、そこで目つきが変わる。
先ほどとは打って変わった、厳しい表情だった。
「――言い訳は聞きません。お前、いつまで此処に居るつもりなのでしょうね? 幾度同じ罪を重ねれば気が済むのでしょうか? 私は、お前を許しませんよ」
「…………」
賽貴は言葉を返さなかった。
桜姫も当然のようにそれを求めずに、今度は朔羅に向き直る。
朔羅は少し離れた場所にいた。
ひとつの柱に寄りかかり、蒼白な顔で体を上下させている。その足元には吐瀉物が広がっていた。
「朔羅」
「……申し訳、ありません……」
普段は聞けない朔羅の敬語が、口から漏れ出た。
そして頭を下げる彼に、桜姫が目を細める。
「お前らしくもない……。辛かったのはお前でしょう、朔羅。行動を褒めることはできませんけど、よく頑張りましたね」
「……気休めの言葉は要りません。僕は、主を手にかけた……!」
言葉にするだけで蘇る、温かい肉の感触。
手に残る臓腑の柔らかさと罪悪に、こみ上げてくるのは再びの嘔吐感だった。
そして彼は耐えられなくなり、その場で体を折る。
「何を言っても、お前の自尊心が許さないのは知っています。……けれど、結果を選んだのは浅葱自身です」
「桜姫、さん……」
桜姫もそこで膝を折り、そして朔羅にそっと手を伸ばして彼の背をさすった。
彼女の声音は優しかった。それ以上の言葉はなく、ただ頷いて優しく微笑むだけ。
「申し訳ありません……ッ!」
朔羅は、溢れ出る涙を止めることが出来ずに、その場で泣き崩れた。
――だいじょうぶ、だよ。
頭に響く、浅葱の声。
弱々しくも、確かなものだ。
朔羅はそこで、目を見開いた。
トクン、トクンと耳に届けられるものは小さな鼓動。
再生されたのは、心臓の音だ。
「あ……」
小さく漏れた声は、朔羅のものだった。
浅葱を見やりながら、肩を震わせている。視線の先の主は、未だに横たわったままだ。
だが、次の瞬間には胸が光り、その身体がふわりと浮いた。
「浅葱――」
桜姫が小さく何かをつぶやいて、浅葱に向かい数珠のひと玉を投げつける。陰陽師にとっての数珠玉は、霊力の源のようなものだ。
それが浅葱の上でとまり、すぅ、とゆっくり胸の中に溶けるようにして消えていく。
その際、光も吸い込まれるようにして、共に消えた。
光の影は以前に垣間見た浅葱の形に似ていると、その光景を目の当たりにした藍は心の中で思った。
それを半ば呆けて見ていると、宙で支えを失った浅葱の身体ががくん、と落ちてくる。彼女は慌てて腕を伸ばして体を受け止め、同じようにして傍にいた白雪も、浅葱の体を支えていた。
「――――」
ドクン、と大きく跳ねる心臓の音がする。
それと同時に、浅葱の口が開かれた。
「かはっ……」
気道に溜まった血を吹き出しながら、ぜいぜいと息をする。
「……ッ、浅葱さん!!」
弾かれたように駆け寄った朔羅が、藍を押しやって浅葱を抱きとめた。
背中をさすりながら血を吐かせてやり、自分の着物で口元に残るそれを拭ってやる。
「さ、くら……」
小さな声音が聞こえた。
自分を呼ぶ声――聞きなれていて、愛おしい響きそのものだ。
朔羅はそれを間近に感じて、涙腺を再び緩ませる。
「浅葱さん……っ」
「泣いて……るの……?」
「ごめん、浅葱さん。……ごめん」
謝罪の言葉を繰り返す朔羅に対して、浅葱は弱々しく笑っていた。
そしてゆっくりと腕を上げて、朔羅の涙を拭う。指先に触れる雫が、温かかった。
「大丈夫だって、言ったでしょ……? 泣かないで……」
「ん……」
浅葱の言葉に朔羅はゆっくり頷き、そして彼の体を強く抱きしめる。
形代により、浅葱は蘇った。それは賭けのような事柄であったが、彼は白雪の治癒能力を信じて、選択したことだった。
「……また、無茶しちゃった。ごめん」
「今は何も申しませぬ。……肝が冷えましたが、ようございました」
朔羅の腕の中に収まりながら、浅葱は小さく白雪にそう伝えた。
傍にいた白雪はゆっくりと首を振りながら、答えてくれる。
藍も琳も、周りの者たちも皆、大きく安堵のため息を零していた。
「…………」
一層強く、自分に注がれる視線に気がつき、浅葱はきょろりと瞳を動かした。
その先にいるのは、賽貴だ。
彼は浅葱の視線を感じたその時に、己の視線を思い切り逸らしてしまう。
「……賽貴」
浅葱はゆっくりと顔を上げて彼の視線を追おうとするが、それは適わなかった。
小さく名前を呼べば、遮るように視界に入り込んできたのは母の桜姫だったのだ。
「触れることは許しませんよ」
「母上……」
厳格な、逆らうことを許さない声音だ。
浅葱が伸ばしかけた手は、その声に押されて朔羅の肩の内に収まっている。
「お前は式神符に戻りなさい。今後、浅葱に触れることはできません」
「――解りました」
桜姫の放った言葉は、あまりにも悲しいものだった。
賽貴は自嘲気味に小さく笑ったあと、彼女に従いその場から姿を消す。
「待って、賽貴……!」
浅葱の声は、彼には届かなかった。
否、届いてはいたが応えられなかった。
そして、ひらりと宙に舞う一枚の符。後に残ったのは、ただそれのみだ。
「賽貴!!」
浅葱はもがく様にして手を伸ばして賽貴を呼んだが、それに応える声は無かった。