九話(一)
燈台の上の炎がゆらり、と揺れた。
静かに自室に座していた賽貴がそれに気がつき、言葉なく顔を上げる。
「……浅葱」
無意識に唇から漏れ出た言葉は、己の主の名前だ。
こちらに向かっている彼らの気配を感じとったのかもしれない。そしてその表情は、決して明るいものではなかった。
今度こそ、朔羅のことを主に打ち明けなくてはならない。
だがそれ以前に、大きな問題を抱えて浅葱はこの九条に戻ってくる。
膝の上に置かれている握り拳が、さらに握りこまれた。
良くない気配と、ざわつく心。こういう時は必ずと言っていいほど、憂いごとが重なる。
「…………」
一度、深い溜息をこぼしたあと、賽貴はゆっくりとまぶたを閉じた。
色を失ってゆく世界が僕にはあった。
擦り切れてゆく心――その先にあるのは、繰り返される悪夢と、戯れだ。
白狐族は五人に一人の割合で、両性体が生まれてくる。
これは病気でもなんでもなくて、連綿と繋がれてきた血の歴史だ。
そんな中、僕も両生体として生まれた一人だった。
成人を迎えるまで、男でもなく女でもない身体で育てられる。
僕はそれなりに高い地位にいて、生まれた時から許嫁と言う存在がいた。
結局、僕には女としての『道』がすでに引かれていたんだ。
だって、僕の相手は男だったから。
両性体は成人後、伴侶となる相手の性別一つで身体をつくりかえる。それは自然のままに。
どちらの性にでもなれる体質ではあったけど、伴侶との離別以外で変化する者は少なかった。
僕は、成長しても男よりも骨格が細くて色素も全体的に薄かった。
それが、最初から女となることを周りから決められていたせいかは分からないことだけど。
僕の許嫁は、黄絽と言って、快活な男だった。
幼馴染でもあったので、小さな頃は毎日遊んだりもした。
僕は黄絽に好意を持っていた。
少なくとも、好きではあったんだ。恋愛感情なんてものは、もちろん抜きで。
一族で定められた掟があった。
厳格に守られてきたそれらのしきたりの中でも、両性体に関するものは特に厳しいものだった。
『成人を迎えるまで、男女の関係を持ってはいけない』
それは、僕のように許嫁がいる者も同様だった。
いや、相手が存在する時点でより厳しく監視の目が置かれていた気もする。
――なぜ?
そう問うものは、白狐族の中にはいなかった。
変化前の身体は非常に繊細で、少しの衝撃でも死に至ることがある。
そして、変化ができないまま、成長が止まる可能性も少なくはない。
二割という高確率で生まれる両性体。
種族を守るために必要とされた当然の掟。
僕にとってはそれが当たり前で、同じように黄絽も理解していると、カケラほども疑うことはなかった。
成人を迎える一年前。僕はひとりで月を眺めていた。
月を見上げるのは大好きだった。
成人間近の両性体は、体のことを考えて隔離される。
その間は誰にも……もちろん許嫁とも会うことは出来ない。
僕はそれを寂しいとは思わなかった。
……恋愛というものを理解していなかった僕には、狂おしいほど誰かと求めるという気持ちも知らなかったから。
中庭の池に足を浸しながら、僕はずっと月を眺めていた。
ボンヤリしすぎて、結界が破られたことを察知できなかった。
気がついたときには黄絽は僕の目の前にいて、それでも僕は、いつもと変わらぬ調子で彼に話しかけた。
「黄絽、ここは立ち入り禁止だよ?」
「朔羅……」
何が起ころうとしているのか、事が始まるまでわからなかった。
無垢と無知は紙一重なんだと、今となっては思うけど……。
黄絽は禁忌を犯した。
人間が動物に対して言うところの、発情期みたいなものだ。
彼はそういう状態に陥っていて、僕はあっさりとその手に落ちた。
――僕は、成人の年になっても、成長の兆しが見られなかった。
自分から変化することは、怖くて出来なかった。
でも、黄絽が裁かれることは無かった。
僕より位は高かったし、何よりも『男』であったから。
対照的に、未来の無くなった僕への救済は何もなく、お役御免とばかりに母共々に打ち捨てられた。
そして、それを哀れむものは一族にはいなかった。
寄る辺を失った僕を待っていたかのように黄絽が現れ、僕をそばに置いた。母はその後、どうなったかわからない。
『哀れな朔羅……』
歪んだ笑みを浮かべながら、黄絽が言った。
下卑た笑みだった。
そうして――。
僕は逃げることも適わないまま、黄絽の好きなように扱われた。
毎日毎日、飽きることもなく繰り返される行為。痛みしかない悍ましい行為。
『情けをかけてもらい、ありがたいと思え』
『傍にいれば、何不自由ない暮らしを約束してやる』
黄絽は暴れる僕に、いつもそう言い聞かせてた。
彼が僕を愛しているのは、よく分かっていた。
たとえ、相手を支配することでしか満たされない歪んだ感情だったとしても、それは確かに愛だったのだろう。
他に正式な妻を娶るかと思えば、それをしなかったのだから……。
黄絽は、おかしくなっていたんだと思う。
僕が成人前に隔離された時、彼は変わってしまったと言っていた人がいたけど、それが誰だったのかは知らない。
僕の意思を無視して注がれ続ける屈折した愛情。
そこから逃れる術も知らず、日々は繰り返される。
僕は、いつしか抵抗することをやめていた。
自分の身体が悲鳴を上げているのは解っていたけど、心の方がもう疲れていて、このまま飼い殺しでもいいと思えるようになっていたんだ。
ある日を境に、僕の体は食べ物を受け付けなくなっていた。
口に含むまでもなく、匂いだけで吐き気がして、水さえも飲めない日々が続いた。
黄絽は僕を労わることはせず、衰弱していく身体を弄び続けることに興じていた。
自分さえよければ、それでよかったんだ。
だから僕は、全てを終わらせようと思った。
死が避けられないものなら、解放されてから死にたかった。
そこから先の記憶は、紅。
深紅が視界を支配していた。
――紅。
――紅。
――紅。
床も、壁も、調度品も、何もかも。
僕自身も紅く染まっていたし、黄絽も全身を紅に染めていた。
その日の僕には、空に浮かぶ月さえも紅く見えた。
死んだ、と。
殺したと。
信じて疑わなかった。
……嬉しかった。
自分の手で黄絽を殺せたことが? 解放されたことが?
わからない。
けれど……。
何か、快感に近いものを感じたんだ。
だから――。
『――だから、人に知られたくなかったんだね。ううん、私に知られたくなかった……』
――誰?
『辛かったんだね。……ごめんね、気がついてあげられなくて』
――謝ることは無いよ。
『ごめんね』
――どうして謝るの?
『私はあなたの主として、何が出来るのかな……』
何も望まないよ。
何も、いらないんだ。
ただ、君にはどうしても、知られたくなかった。狂気に彩られた僕の過去を。
「――浅葱、さん」
「さく……ら……っ、めん、なさ……!」
「……ッ!? 浅葱さん、……まさか、本当に……!?」
朔羅には、何が起こっているのか解らなかった。
急に過去の記憶が頭を巡ったかと思うと、突如として浅葱の声が聞こえて目の前で大粒の涙を零している。
その現実を受け入れるのに、数秒を要さなければならなかったのだ。