六話(二)
「……では、ひと月ほど前からずっと?」
座して女房の話を聞いていた浅葱が、思案するようにしながら口を開いた。
その傍らで疲れて眠る女御は、浅葱の着物を固く握り締めたままだ。
「はい、ほぼ毎日このような空気で……。わたくし共ではどうする事も出来ず、主上の御計らいで色々と手を尽くしては見たのですが……」
「わかりました」
女房の言葉に、浅葱がそう告げる。すると女房は静かに頭を下げ、控えるようにして彼の前から下がっていった。
「……琳」
浅葱がぽつり、とその名を呼んだ。
すると黒猫の姿である琳が、軽々と端近へと上がり姿を見せる。彼は常に、浅葱が行動するその傍にいるようだ。
「どう思う?」
『……それを僕に訊くのですか』
浅葱の問いに琳はふぅ、とため息を吐いてから彼の膝の上に乗った。
そこが、現在の琳の特等席であるらしい。
『貴方のことです。何かを掴んでいるのでしょう?』
見上げるように琳が首を上げると、小さな鈴の音がちりん、と鳴った。それは浅葱が琳へと与えた、首輪に取り付けられているものであった。
「……うん」
琳の言葉を受けて、浅葱がそんな返事をする。まだ僅かに思考の波の中にいるのか、声音は弱い。
チリ、と燈台の中の灯芯が燃え進む音がした。
浅葱がそれに気づいて視界を動かせば、煙たいほどであった護摩がいつの間にか控え目になっている。燿が取り計らってくれたのだろう。
「九条殿。何か、お持ちいたしましょうか?」
「ああ、では白湯をお願いできますか。この子にも」
「かしこまりました」
先ほどの女房からの申し出に浅葱は、膝の上にいる琳の背を撫でつつ、そう応えた。
『九条殿』とは浅葱のことを指す敬称だ。浅葱が九条邸の主であるということから、そう呼ばれることも珍しいことではない。
所作も優美に浅葱に頭を下げた女房は、静々と白湯を用意するために室を出て行く。
それを見送ったあと、浅葱は女御に視線を落とした。
至上の美姫と謳われた彼女の、やつれた寝顔。恐怖のために泣き止む気配が見られなかった女御の意識を、半ば強制的に落としたのは浅葱だ。
眠っている今でも、眉間にしわが寄っている。
「…………」
夜な夜なに訪れる気配。
女御を悩ませる声と、形無き存在。
「颯悦の報告の件と、ぶつかるな……」
『そのようですね。ですが、承香殿どのには関わりはないでしょう……。彼女自身には、どこにも接点が見当たらない』
「強い思念……生霊なのかもしれないけど、女御さまは誰かに間違われてるんだと思う。接点は、きっと……」
そこまで告げて、浅葱は言葉を一旦切った。
数日前の颯悦の報告を思い出しつつ、結ばれようとしている思考のかけらたちを脳内でゆっくりと繋いでいく。
幸いと言うべきか、九条邸には良くない空気が淀めいている。そして、式神の一体の波長がそれに合わせるかのようにして乱れたままだ。
『どちらにしても、今日はここに留まるんですね』
「うん。……状況もわかったし、此処で炙り出すよ」
室内を満たすのは、荷葉の香だ。
女御の好む香りであり、衣にもしっかりと燻らせてある。そして浅葱はこの香を好むものを、もう一人知っている。
かたり、と女房が白湯を持ってきた物音が合図になったかのように、浅葱はそこで一度深呼吸をしたあと、気持ちを改めて薫物の用意を願い出るのだった。