六話(一)
ガタンと大きな音を立てて、燈台が倒れた。
浅葱が内裏で女御付きの女房から話を聞き始めた頃合が、ほぼ同じの九条邸である。
その燈台には火は灯されてはいなかったが、倒れたと同時に油がこぼれ落ちじわりと床に染みを作っていく。
――ドクン、ドクン。
そう脈打つのは、朔羅の体の中をめぐっている血だ。
「朔羅」
「こ、ないで……危ない、から……」
見るも無残なほどに荒れ果てた部屋の中、彼の目の色は金色に変容し、荒い息を吐いている。
どうしても拭えない体の重みと、まとわりつく気配。
体中の血が沸騰しそうなほどにそれに反応し、暴走しようとしている己の身を必死に抑えつつ、朔羅は賽貴の呼びかけに答えた。
――この衝動に身を任せてしまえたら、どんなに楽だろう?
そんな自分の中の甘美な誘惑にさえ、気持ちが揺らぐ。
それでも朔羅は、ギリギリの理性を保とうと必死にもがいていた。
「朔羅。……俺は大丈夫だ、掴まれ」
「だめ、だよ」
手を差し伸べる賽貴に、口の端をあげて首を振る。
こんな状態の自分には、近づけさせてはいけないのだ。それが賽貴であっても。
だから彼は、拒絶の姿勢を見せる。
「……朔羅」
「だめ、だ。……もう、ほんとに……いっぱいいっぱい、なんだよ。あなたを、殺しちゃうかも、しれない……ッ」
尚も近づこうとする賽貴を、朔羅は遠ざけようと必死だった。
腕を振って拒絶し続けるが、その手は途中で賽貴に掴み取られてしまう。
「賽貴さん……! 離し、て……!」
賽貴が触れた部分から、新たな衝動が生まれようとしていた。
この男は、どんな血の色をしているのだろう?
――どんな、歪んだ表情を見せてくれるのだろう?
金色の視界に映る賽貴の姿。
誰よりも何よりも信頼を置いている存在でさえ、今の朔羅には蠱惑的なモノに見えてしまう。
ああ、もういっそのこと全て。
そう、この屋敷ごと全て。
自分の手にかけて、潰してしまえたら。
――朱に染めてしまえたら。
自制をかければかけるほど後からこみ上げてくる感情は、朔羅の気持ちとは正反対の危険なものばかりだった。
それを知っているからこそ、自制しなくてはならない。
「……っ、く……ッ」
ギリ、と思わず歯を擦り合わせれば脳内でそれが鈍く響いて、さらに朔羅の気持ちを危ういものへとしていく。
「朔羅、大丈夫だ」
「……っ」
どう見ても『異常』でしかない朔羅を、賽貴は顔色も変えずに自分へと引き寄せた。
そして、ゆっくりとその体を抱きしめてやる。
「大丈夫だ」
賽貴はその言葉を、もう一度繰り返した。自分の腕の中でビクリと大き体を震わせる存在は、未だに抵抗の色を見せている。
彼の内情を、『朔羅』の事を知り尽くしているのは、賽貴だけ。
暴走した朔羅を止めることができるのは、『彼』が居ない今では、賽貴以外にいないのだ。
「大丈夫だ。大丈夫だから。……俺が信じられないか?」
「さい、き、さん……」
「……大丈夫」
呪文のように繰り返す言葉に、朔羅はようやく落ち着きを見せ始めた。
あれほど荒かった息も、ゆっくりとではあるが元に戻ろうとしている。
「はぁ……」
しばらくのあとに大きなため息を吐いた朔羅は、賽貴の背中に手を回した。
そして、その体は瞬く間に女性体に変容していく。
「朔羅?」
「……このほうが、様になるでしょ? 少しだけ甘えさせてもらうよ」
朔羅の変化に対して賽貴が僅かに表情を動かしてそう呼べば、本人は薄く笑っている。肌に滲んだ汗を賽貴の着物に擦り付けて僅かに首を傾ければ、『彼女』の髪が細い肩でさらりと流れた。
「本当に、浅葱さんには見せられないよね」
「嘘をつく身にもなってくれ……」
いつもどおりの楽しげな声音でそう言えば、賽貴からもため息が溢れて呆れたような返事がある。
女性体になり、身長差的にもちょうど良い角度で賽貴の腕に収まっている朔羅は、それを利用して表情をうまく隠していた。
呼吸も今は、通常通りだ。
「……ごめん」
その響きは賽貴と。そして主である浅葱へと。
自分がこんな状態であるがゆえに、今日も浅葱に付き従うことができなかった。
今頃、彼はどうしているだろうか。危険な目には遭ってはいないだろうか。他の式神たちが付いているとは言え、心配は尽きない。
「浅葱さまが戻ったら、今度こそ見てもらったほうがいい」
「うん、わかってるよ……」
賽貴の言葉にゆっくりと返事をしたところで、朔羅はぐったりと体の力抜いて眠ってしまった。
すでに限界値を超えていたのだろう。
「…………」
――これ以上は、どうにもならない。
そう賽貴は思った。
自分は朔羅の暴走を止めることは出来るが、根本のものを取り払ってやることは出来ないからだ。
そしていつかは、浅葱にも悟られてしまうだろう。隠し通せる事柄ではない。
朔羅は『わかってる』とは言ったものの、おそらくは浅葱には伝えることはしないだろう。彼の性格上、必ず隠し通すはずだ。
賽貴はそう考えつつ、朔羅の呼吸が安定していることを今一度確かめてから彼女をそっと寝かせて、静かに荒れたままの部屋を片付け始める。
油の染みは、なかなか落ちそうにない。
そうして粗方片付け終わったのち、彼は黙したままで朔羅の周りに結界石を突き刺した。
床に穴が開くことはなく、突き刺さったあとに石は空気に溶けるようにして消えていく。それは賽貴だけが持ち合わせる能力の一つだ。
「オン キリキリ バザラバジリ ホラマンダマンダ……」
「!!」
室の外で、結界法の印を切る気配がした。
浅葱は今、ここには居ない。だとすれば――。
――パシン。
空気が弾けるようなそんな音がしたあと、室内に結界が二重に張られたのが気配で察した。
(……桜姫さま)
「主なしに、事を片付けようとするのではありません。浅葱が何も気づいていないとでも思っているのですか」
「…………」
締め切られた御格子の向こうに映る影。それは浅葱の母親である桜姫のものだった。
言葉を返すことを嫌う桜姫を気遣い、賽貴はただ黙ってその場で頭を下げる。
気づかれてはいるだろうと思ってはいたが、この場に足を向けられるとは、さすがの賽貴ですら予測は出来ていなかったらしい。
「何のための浅葱の式神ですか。自覚なさい」
(――解って、います。桜姫さま)
桜姫の口調は相変わらず、厳しいものであった。
彼女はそれだけを言うと、その場を離れて行く。賽貴は桜姫の足音が遠くになるまで、ずっと頭を下げ続けていた。