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夢月夜~古都あやかし幽玄奇譚~  作者: 星豆さとる
第三夜 朔羅-昔日の面影-
31/85

五話

 そんなことは、有り得ないはずだった。


 そうだ、『有り得ない』んだ。


 なのに、どうして気配が消えないんだろう。


 僕は忘れさせて欲しいのに。


 ――とうに、忘れたはずだったのに。



「…………?」

 ふと、空気が揺れる気配を感じ、颯悦(そうえつ)は足を止めた。

 比較的何事もなく(みやこ)の見回りを終え、報告に戻ろうとした矢先の出来事であった。

 光を映さぬ茶色の瞳には何も見えないが、空気が歪んでいることがハッキリと感じ取れる。


「……何者だ?」


 形をつくらぬまま、もぞもぞと進む『歪み』を前に、颯悦は腰に刷いた剣の鍔に手をかけて用心深く声を投げかける。

 だが、何の返事もなく、颯悦の存在にすら気づいていないかのように『それ』は、ゆっくりゆっくりといびつな形を変えながら進んでいく。

 魂というよりは、念だ。

 それも怨念に近いものを感じさせるそれの気配を、神経を研ぎ澄ませて追いつつ彼は空気の震える音を聞いた。


『………、………』

「……?」


 空気の振動はあまりにも微細で、感覚の鋭い颯悦であっても注意を向けていなければそれが『歪み』の発する声だったと気づけないところだった。

 そんな彼の眉間に皺が寄る。


『……ら、……だ?』

「何……? 待て、お前……!!」


 ともすれば消え入りそうなその声を、『歪み』の発したその言葉を聞き咎めて、言うが早いか颯悦は鞘走りの音を響かせて風を切っていた。

 京に害をなすような気配こそは感じられないが、肌にまとわりつくような情念に近いものがある。これが、良くないものだと彼の第六感が告げているのだ。

 ゆらり、颯悦が向けた剣圧に『歪み』が大きく揺らいだ。


『……さく……ら』


 そうして、今度はハッキリとした声をその場に残し、『歪み』は消えていった。


「さくら……?」


 聞き間違いではなかったかと反芻するが、彼はその可能性を否定する。

 同じ言葉を二度耳にしたのだから、それは疑いようのないものなのだ。


「……早々に、報告に戻ったほうが良いな」


 ぽつり、とそう漏らした颯悦は、ゆっくりと剣を腰に戻し九条の方向へと走り出したのだった。




 凌霄花(ノウゼンカズラ)の花を添えて、浅葱のもとへと文が届いた。

 それを受け取った浅葱は、花を見ただけで差出人が誰であるか解ってしまう。


「美名さま……」


 それは、承香殿女御じょうきょうでんのにょうごからの文であった。名を、美名(みな)と言うが、浅葱を含め少数にしか知らぬ真名だ。

 彼女は今上帝が長年想いを寄せていた年上の美女で、尚侍(ないしのかみ)として宮仕えしていたのだが、今年の初めに宣旨が下り、晴れて女御となった人物だ。

 浅葱が以前内密に彼女の病を治して以来、年に数える程だがこうして文を交わすようになっていたのだ。


「符が届けられたのかな」


 添えられた綺麗な花を傍にあった水桶に浮かべて静かに文を開くと、料紙に移った微かな香が鼻をくすぐる。

 何故だかそれが気に掛かり、浅葱はもう一度深く吸い込んだ。


「……荷葉」


(そういえば、女御さまもお好きだっけ……)


 香を焚き染めた衣に身を包み、穏やかに微笑む女御の姿を思い浮かべながら、文に目をやった。


「……!?」


 流麗な文字で書かれいたのは、短い言葉だ。


『たすけてください』


「――誰か、誰か!」


 微かに震えた軌跡を描くそれを見て、浅葱の心がざわりと騒いだ。

 反射的に立ち上がり家人を呼びつけ、妻戸で頭を下げる女房に向かい、


「御使者さまを、此処へ――」


 と、言いつけて手にしたままの料紙の内側をもう一度見やった。

 筆跡から滲み出る、切なる感情。

 ゆっくりと指でそれをなぞりつつ、浅葱は苦渋の表情を浮かべた。

 なぜあの時、主上(おかみ)からの申し出を頑なに跳ね除けてしまったのだろう? もう少し考えれば、この『現状』にもっと早くにたどり着けただろうに。

 本家に赴いた際、そこに現れた今上帝の誘いを受けなかった事に、今さらの後悔が脳内を支配する。

 女御は危ないかもしれない。

 浅葱は祈るように内心で「お願い、間に合って」と呟いた。そして眉間にしわを寄せて瞳を閉じる。


「浅葱どの、どうなされた?」


 主の声を耳に止め、ただならぬ事態を察知したのか白雪が姿を見せた。

 そんな彼女を振り返り、浅葱は意を決した口調で次の言葉を投げかける。


「白雪、準備を。――内々にですが、これから参内します」


 浅葱のそんな言葉に、白雪は黙って頭を下げる。彼の厳しい表情に、ある程度を察したのだろう。

 そして彼女は主の着物の準備に取り掛かり、刻が動いた。




『浅葱どの、お待ちしていた』

「……ごめん、(よう)。もっと早く気づくべきだったのに」

『いや、これは我らの落ち度だ』


 内裏内には、密使の招きによりすんなりと入ることが出来た。

 普段なら身に着けることのない直衣(のうし)に着替え、取り急ぎ駆けつけた浅葱を出迎えたのは、一匹の大きな犬であった。

 名を(よう)と言うこの犬は、代々に賀茂の本家に仕えてきた高貴な存在で、人語を解し話すことが出来る。

 狼ほどの体躯と神聖な空気を放つ『彼』は浅葱の言葉に緩く首を振ったあと、静かにそう告げた。


隆信(たかのぶ)さまは?」

『当主は陰陽寮に篭られたきりだ。お忙しくてな』

「……そうだろうね。だから、燿がここにいるんだよね」


 浅葱はそう言いながら、周囲の気配を探る。

 後宮は物々しい空気に包まれていた。承香殿の周囲は人払いされていて出歩く者の姿は見えないが、多くの僧都が読経をしている声が漏れ聞こえてくる。表向きの『女御の御為』なのだろう。

 祈祷に使う護摩が濛々(もうもう)と空気を漂い、目の前を濁しているようにも思えた浅葱は、そこで眉根を寄せた。

 あまりにも無意味すぎるそれは、今の状況を考えると良いものだと感じ取れなかったからだ。


「……護摩を控えさせて」

『了解した』


 静かに言葉を燿に伝えると、彼は素早く頷き返事をくれる。


「それに……。いや、これは……このままで」

『……そうだな』


 低く響いてくる読経へと耳を傾けつつ浅葱は口を開くが、途中で言い淀む。

 燿はそれに、まるで同じ思いだと言わんばかりの言葉を返した。

 本来であれば、この読経もやめさせたいくらいなのだ。だが、彼らにも『大義』がある。例え望みがなかろうとも。

 実際、この件は完全に『陰陽師』の領域であり、効果は何も望めないと状況が告げているのだが、こちらから下手に口を出して対立してしまうのもまた意味のない事になりかねない。

 それ以前に今は、女御自身の状態が気がかりだ。

 足早に廊を進んでいくと、女御付きの女房らしい女が姿を見せた。浅葱を目に止めた直後、静かに頭を下げて『こちらへ』と導いてくれる。

 燿はそこで足を止め、先を進む浅葱の背を見送った。


「……美名さま」

「……!」


 御簾を潜り抜け一つの室に身を進めたあと、几帳の向こうにいるであろう承香殿女御の真名を浅葱は静かに読んだ。

 すると遅れることなく、布の向こうから気配が揺らぐ反応があった。怯えたように息を飲む音が聞こえ、


「浅葱さま……!!」


 一瞬のあと、几帳をなぎ倒すかの勢いでまろび出てきた女御の姿を見て浅葱は言葉を失った。

 記憶の中の『美名』は、誰よりも美しく輝いている女性だった。聡明で優しく穏やかな彼女に、浅葱は密かに憧れもしていた。

 だが、目の前の美名は別人と思える程に憔悴していた。

 血の気の失せた痩せこけた頬がそれを一層、浅葱の視界に色濃く映りこんでくる。


「浅葱さまっ、……どうか、お助けください……! あなたしか……あなたにしかお頼みできません! どうか、どうか……!」

「み、美名さま、落ち着いて……」


 浅葱にすがりつくようにして、ガタガタと震える女御の姿。その背中に流れる長く艶のあった黒髪も、今はくすんで見える。

 そんな女御を落ち着けようと背中にそっと手を置きながら、浅葱は周囲の気配を読んだ。


「…………」


 まず考えられることは、権力争いの中で呪詛を掛けられたかもしれないという事だった。

 貴族にはそういう事を考える者も少なくはない。そして、闇の陰陽師や僧都などは、そういった貴族に飼われていることが多かった。

 帝の寵愛を受けたい人間が、あるいは自分の娘に帝の寵愛を受けさせたい者が美名に……ということは充分に考えられる。

 だが、微かに感じる異質な気配に、(まじな)いの色が見えることはなかった。そうなると、呪詛の類ではないと判断できる。

 じっとりと絡みつくような重い空気。確かにこんなものを感じ続けていれば、常人では発狂してしまうかもしれないのだが、その正体がどうにも判然としない。


「美名さま……何があったのか、お話くださいませんか」

「……浅葱さま、わたくし、恐ろしくて……!」


 女御はまだ震え続けている。

 浅葱の着物を強く握りしめて決して離さないと言わんばかりで、まともに話を聞くのは難しい様子だった。

 どうしたものかと思っているとそんな状況を見かねてか、傍に控えていた女御付きの女房が膝を進めて頭を下げた。


「――僭越ながら」


 そういう彼女に浅葱はしっかりと頷いて、女房の口から何があったのかを聞き出すことにするのだった。

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