十五話
琳に術を施してより、数日の後。
あのまま一晩寝込んだ浅葱は、次の日には多少の疲労は残していたもののしっかり回復していた。
諷貴の刃に倒れた賽貴と言えば、浅葱が寝ている間に意識を取り戻し以来ずっと彼の傍にいる。
浅葱回復の報を受けた藍が浅葱の部屋を訪れ、真っ赤な顔で『ありがとう』と言った時には、浅葱まで釣られてその頬を赤くしていた。
『本当に、馬鹿がつくほどのお人好しですね』
そう続けたのは琳だった。あまりにも変わらない口調に、浅葱は苦笑してしまった。
暫くの間、琳は人形を取ることは出来なくなってしまったが、それでも彼はきちんと生きている。
別れはまだ先になりそうだ。
「――えぇっ!?」
浅葱の部屋で、調子はずれな声が響いた。
自室でそれを聞いた朔羅が、くすりと笑う。
声の主である浅葱は、いつものように文机に向かっていた。右手には墨のついた筆が収まったままだ。
書きかけであった札の上に、ボタリと落ちた墨の跡。筆の先に溜まった墨が二つ目の雫を落とそうと、今も震えている。
浅葱の視線の先には、至極真面目な表情の賽貴が座していた。
――浅葱さま。脱いでいただけますか?
今しがた賽貴の口から漏れた言葉は、そんな響きだった。冗談の類などではないことは、その顔が語っている。
「……な、なんで……?」
顔が熱で帯びていくのを感じながら、動揺を隠せない声で浅葱が問い返す。
「背を向けてでも構いません。とにかく脱いでください」
真剣な表情はそのままに、眉一つ動かさずに言う賽貴には、決して折れる気配はない。
羞恥に目を回しそうになりながらも、浅葱はおとなしく彼に従うことにした。
「なに……するの? 賽貴……」
背を向けて座り、そっと千早を脱ぐ。そして袴を緩めてから薄緑色の着物の腰紐を解いた。
その際にちらりと賽貴を見やりそう言葉を投げかけるが、答えは無い。
「…………」
小さく嘆息し、浅葱はそのまま賽貴へと肩を見せた。
着物がするりと落ちきる前に、背中でそれを押さえるのは賽貴であった。そして彼は、言葉なく眉根を寄せる。
浅葱の両腕に残る跡。
諷貴に掴まれた場所に、くっきり五指の形が残っている。
「賽貴……?」
空気が変わったことに気づいて浅葱が再びの疑問を投げかけると、答えの代わりに帰ってきたのは賽貴の指先だ。
それが跡の残る場所へと触れる。
「あ……」
ズキ、と走る痛み。それに思わず浅葱は顔をしかめる。
「痛いでしょう浅葱さま。何故、黙っていたのです」
心配をかけまいと白雪にさえ言わずにいたのだが、賽貴には隠しきれなかったようだ。
「……ごめん」
結局は心配をかけることとなってしまい、浅葱は素直に反省の言葉を口にした。
賽貴は浅葱のその赤い跡につつ、と指を這わせたあと
「……少々のご辛抱を」
と、浅葱に告げ唇を当てた。
「!」
びくり、と浅葱の肩が震える。その直後、ちくりと走った痛みに眉が揺れた。
普段は秘めているが、賽貴には天猫の牙がある。それにより血の溜まった部位へと噛み付き、血を吸い出すという行為を、賽貴は何のためらいもなく遂行していた。
「……、……」
傷を治すためとわかってはいても、触れた唇の熱と感じる彼の吐息に、浅葱は首まで真っ赤になっていた。
「……荒療治ですが……これで痛みが取れるはずです。本当は腕を上げることすら、辛かったでしょう?」
「う、うん……あの、ありがと……」
唇が離されたあと、徐ろに肩に着物が掛けられたことを確認した浅葱は、そそくさとそれを整えた。そして彼から距離を取るべく立ち上がろうとしたところで、賽貴にそれを止められる。
賽貴は浅葱を、そのまま後ろから抱き込んだのだ。
「……賽……?」
「もう、無茶は……なさらないでください。お願いです」
一連の騒動に関わっていたのは兄の諷貴だ。
彼の異常さと執着心は、弟である賽貴自身が誰よりも熟知している。そして今回も何もできなかった自分――間違いなく起こるであろう近い未来の波乱に、彼は不安を隠せずにいるようだ。
祈るような小さな声に、浅葱は初めて自分を抱く賽貴の手が震えていることに気がついた。そして彼に体を預けて、瞳を閉じる。
「心配かけて、ごめんなさい。……今後も、ちゃんと気をつけるから」
そう浅葱が告げると、賽貴は確かめるようにして彼の額に唇を添えた。
くすぐったそうにそれを受け止めていると、庭先に小さな気配を感じる。
『――昼間から人目も憚らずに……。ただの恋仲が、過剰にむつみ合っているようにしか見えませんよ』
そんな声が端近のすぐ下から聞こえてきたかと思えば、トン、と小さな音と共に姿を見せるのは琳であった。
その口には何かを咥えている。
「り、琳……」
浅葱がそう言いながら慌てて身を起こそうとしたが、賽貴は動じることなく、腕の中の主を離さずのままで顔だけを琳に向けた。
『ご本家から、伝令ですよ』
琳はつい、と猫らしい歩みを寄せたあと咥えた文を浅葱に投げて、後はお好きにと言わんばかりにその身を翻して部屋を出て行った。
あれから彼は浅葱の使役として仕える事となり、なかなか良い働き振りを見せているが、さすがに性格までは変わりそうにない。
琳の去った後を呆然と見やったあと、浅葱と賽貴は顔を見合わせて柔らかく微笑み合う。
その、直後。
「あさぎー!」
遠くから聞こえる呼び声に賽貴が拘束を解き、浅葱が慌てて起き上がる。
「浅葱、ここにいたんだ。あ、賽貴さまも一緒ね」
それぞれの位置に戻ったとき、戸口からひょっこりと顔を覗かせた藍が文机の前に座す浅葱と、その傍に控える賽貴へと笑顔を向けた。
しっかりと琳とともに屋敷に居座る事となった藍は、あれ以来すっかり浅葱に心を許していた。
「あのね、浅葱。アタシちょっと行ってみたい場所があるんだけど、いいかな。一応、了解もらおうと思ってね……」
「うん、どこに行きたいの? 独りじゃ危ないから、誰か連れて行ってね」
満面の笑顔と、明るい調子の声。敵意をむき出しにしていた頃が嘘のような和やかな室内だ。
藍に対して始めは敬語を使っていた浅葱も、敬語を使うたびに藍に怒られてしまうので、今では普通に接している。
「――嵐が凪いだね」
いつの間にやら妻戸の向こうに姿を見せた朔羅が、二人を一瞥したあとに賽貴にそう言った。
「とりあえずは……一件落着、かな?」
「そうだな」
賽貴が朔羅の言葉に静かに答え、親しい友達のように楽しそうに会話する二人を眩しそうに見やる。
季節は初夏を迎え、ようやくいつもどおりの日常が戻りつつあった。
第二夜・終