十四話(二)
「僕は死にたくなかった。死ぬのが本当に怖くて……妹を殺せば生きられると、諷貴さまの甘言を鵜呑みにしました。だから……憎んでいたはずなんです、藍のことは。……でも、本当は……ただ純粋に、羨ましかっただけなのかもしれません」
「琳……」
掠れたような声音でそう言葉を吐くと、その傍では藍が手のひらの血を零さないようにして軽く握り締めた拳に、額を擦り付けて泣いていた。
「…………」
どうしようもなく我侭で単純で、素直な妹。
共に生まれながら、自分とは正反対の『生』を生きるもの。ひたすらに愚かだと蔑みながら、心のどこかに憧憬が無かったと言えるだろうか。その答えこそが、今の現状である。
藍の胸から溢れる血は、すでにその流れを止めていた。
先程の浅葱の術は、この為であったのだ。短刀に付着していた自分の血を薬に転化させ、傷を塞ぐ。
その点で言えば、運が良かったのだろう。もし藍が、全く別の刃物を使っていたのであれば、彼女の傷を癒すにはもっと時間が掛かっただろう。
「……生きてくれていて、良かった」
藍の無事を確認した琳は、静かそう言った。その瞳には、うっすらと涙が溢れている。
彼は藍の手を取り、手のひらの中にわずかに残っていた彼女の血をぺろりと舐めて口に含んで見せた。
「馬鹿でかわいい僕の妹。お前の兄で幸せでした。……ありがとう」
「……っ、さよならみたいな事、言わないで!」
その温もりを確かめるように、藍が琳に抱きついて強い口調でそう告げる。
そんな彼女の背に手を回して、琳は小さく頭を振った。
「さよならだよ、……藍」
「いやっ!!」
ぎゅ、と耳元に響く囁きを否定するかのようにして、藍の腕に力がこもった。
それを体で感じつつ、琳は浅葱を今一度見上げる。
「……僕は罪を犯しました。断罪はあなたの役目です、陰陽師どの。暗闇に落とすなり冥府に送るなり、お好きにどうぞ」
琳は浅葱に向かいそう告げたあと、一度口を閉じる。
そして、またゆっくりと開き、
「僕はもう、ここには残れません……」
と、聞き分けのない妹を諭すような声音でそう続けた。
「……貴方を救える方法は……」
浅葱は静かに琳の前の片膝を付きながら、言葉を告げる。
正面から視線を合わせられた形となる琳は、その真っ直ぐな視線を何故か見返すことができずに、僅かにずらして口を開いた。
「無理ですよ。この身体は……、もう保ちません。それに賽貴さまは、哀れむ必要はないと仰られていませんでしたか?」
――琳への同情心は、お捨てください。
琳の言葉に浅葱は少し前の記憶を呼び起こす。琳の言うとおりで、確かに賽貴にそう言われた。
だが。
「……死にたくないのでしょう?」
「そう思っていましたが、不思議と未練は残っていないのですよ。……妹のことくらいで」
「――では、藍さんのために」
浅葱がすらり、と右手を差し出した。
自然と会話はそこで切られて、琳は彼の指先を見やる。その直後、意識がふつりと途切れた。
そして琳の身体は淡い光を放ち、ゆっくりと形を変えていく。
「り……っ!」
かくり、と支えを失う形となった藍は、自分の腕の中の兄が変容していくその様子に驚きを隠せないようだった。
前に差し出すようにして慌てて腕を伸ばすが、その先の行動を止めたのは朔羅だ。
「落ち着いて、藍。浅葱さんのすることをよく見ててごらん」
狼狽する藍の腕を掴み琳から少しだけ距離を取らせると、彼は彼女を立たせてそう言った。
「何を、するの……?」
「君のために……まだ琳と一緒にいられるようにしてくれるってさ」
「――オン サンマヤ ザトバン……」
浅葱の唇から、凛とした声音が響いた。
彼の指先にいるのは、黒猫の姿となった琳だ。天猫族の本来の姿であるが彼はまだ成人を迎えていないためなのか、普通の猫と同じくらいの体躯だった。
(――普賢を使うのか。負担が大きいな……)
主の術の響きを耳にして、朔羅が眉根を寄せつつ心でそう呟いた。
「……そんな事、出来るの……?」
不安そうな表情でそう問いかけてくるのは、藍だ。
浅葱の力を体感したことが無いためなのか、不確かである事柄に信じきることが出来ないのだろう。
「出来るんだよ。……でもそれは、自身の危険と隣り合わせだ。本当ならさせたくないけど、浅葱さんは聞いてくれないからね」
朔羅は藍の問いに答えつつ、周囲に目配せをした。
するとほかの式神たちは言葉なく頷き、浅葱の周りを囲むようにして歩みを寄せる。
「……え?」
それを目で確認しつつ、朔羅も移動を開始する。藍の腕を引いたままだ。
当然彼女は新たな驚きを見せて、首をかしげる。
「賽貴さんが動けない分、君に協力してもらうよ。ここに立って、浅葱さんに呼吸を合わせて同調するだけでいい。そうすれば、きっと琳と一緒にいられる」
朔羅はそれだけを藍に告げて、自分の立つべき場所へと移動した。他の三人も、既にその態勢に入っている。
「琳と……」
藍は戸惑いながらも小さく呟き、中心で印を組む浅葱へと視線を送る。
額にびっしりと汗を浮かべ、時折その表情が苦痛に歪んでいた。立つこともできず膝をついたままの姿勢で、それでも必死に呪を唱えている浅葱は、確かに藍と琳のためにその行動を実行していた。
(琳……)
藍は意を決したようにそこで目を閉じ、祈るように胸の前で手を組んだ。
すると、耳に届くのは浅葱の呼吸だ。
合わせるべき波長……それを感じ取ることができた彼女は、無意識に己の気をふわりと放つ。
(あったかい)
不思議に心が満たされていく感覚が、藍を包む。
これが陰陽師の力なのか、とぼんやり遠くで考えつつ琳を思う。
「……バザラユセイ ソワカ……」
浅葱の口から力ある言葉が吐き出され、それにつられるようにゆっくりと瞳を開くと柔らかな光が浅葱と琳を包んでいた。
時間にしては、数秒のこと。
だが、藍にはそれがとても長い時間に感じられた。
「…………」
光は徐々に収束していき、静寂が落ちる。
琳の身体は横たわったままで、浅葱の荒い息だけが響いていた。
「……琳っ!」
藍が思わず琳に駆け寄る。
そして猫の姿の兄を抱き上げて、その小さな体を揺さぶった。
「琳、……琳ッ!」
「…………」
浅葱の体には、確信はあった。それでもやはり少々の不安もある。
呼吸を整えながら、じっと藍の腕に抱かれた琳を見つめていた。
やがて琳の耳がピクリ、と動きその目がゆっくりと開かれる。
「……らん?」
視界に飛び込んだ藍の顔に、戸惑ったような琳の声。
「琳っ!!」
それを間近で確認した藍の声には、歓喜の色が溢れ出ているようであった。彼女は再び涙を零しながら、琳をぎゅっと抱き直している。
「何故……? 息が苦しくない……」
事態をあまり理解できていない琳は、呆然としながら妹の腕の中に収まっていた。
「よ……かった……」
そんな二人を見やりつつ安堵のため息を吐いた浅葱は、ゆっくりと意識を放棄した。
倒れゆく浅葱の体を後ろから抱きとめ、朔羅がほっと息をつく。他の式神たちも主に駆けより、その先を僅かに出たの白雪が白く細い指を伸ばして、浅葱の体の様子を確かめる。
「相変わらず、我らの主は無茶をする……。だが、今は疲れて寝ているだけのようだの」
苦笑しつつの白雪の言葉であった。
失血の影響も無いとは言えないが、今は彼女の言うとおりに疲労が一番の要因なのだろう。
「これなら、寝ていれば回復するであろう」
治癒の必要はないと判断した白雪は、ゆっくりと立ち上がった。そして袿の裾を翻し、屋敷内へと一足先に戻っていく。
おそらくは浅葱の寝所の用意をさせるためだろう。
それを見やってから、自分の腕の中の浅葱へと視線を戻した朔羅は、満身創痍な主をやれやれと言わんばかりの表情で見つめる。
頬に掛かる髪をそっと払ってやりつつ慈しむように抱き込みながら、
「……お疲れ様」
と、浅葱の耳元へ、小さく囁いたのだった。