九話(二)
「……浅葱さま」
「あ、……ごめん、なに?」
蒼唯との短い会話を終えた賽貴は、思考の淵に沈む浅葱を現実へと引き戻す。
それに瞬きをして浅葱は返事をし、顔を上げた。
「琳への同情心は、お捨てください。あれはまだ幼いですが、それでもあなたにとって、良い存在ではありません」
「……優しすぎるのは、時には危険に繋がるよ、浅葱」
静かに目を開いた蒼唯が、賽貴のあとに続いた。
浅葱は二人を見やりつつ、困惑の表情を浮かべる。
「でも……」
「浅葱さま。狂気の中にいる存在を、我々と同じに考えてはいけません。あなたは陰陽師なのですから」
「うん……」
念を押すように賽貴にそう言われ、小さく頷いてはみるが、どうしても割り切れないようで浅葱はまた俯いてしまう。
再び、その場に沈黙が訪れようとしていたその直後。
「――ところで、浅葱」
蒼唯の少し明るめな声が、重い空気を振り払った。
「はい」
「薬湯は飲んだかい?」
話題が切り替わったことに安堵した束の間、浅葱は傍らに置きっぱなしにしていた椀の存在を思い出した。
「……まだ、です」
「好き嫌いは、いけないよ」
「はい……」
少し憂鬱な気分になりつつも、父の言葉に逆らうことができない浅葱は、そっと椀に手をかける。そしてそれが、膝元に移動したのを見計らって、蒼唯が次の言葉を紡いだ。
「それから、その瘴気」
「……え?」
「取り除きなさい。それが、命取りになる」
「え、……で、でも……」
ぴ、と自分を指さしつつ言う蒼唯の科白に、浅葱は困惑した。
体を診てくれた白雪は何も進言しては来なかった為に、自身では確認することができない。
「意図的に、付けられたんだろうね」
『あの時』よりずっと、浅葱をうっすらと取り巻いている瘴気。浅葱に感じ取れないだけあって、今すぐどうにかなるような物ではなかったが、蒼唯には不快であるようだ。
賽貴もそれには気付いていたが、敢えて申し出ることはしなかった。
蒼唯の言う『意図的』が、最終的には自分に繋がるような気がして、言い出せないのだ。
「今のうちに、取っておいたほうがいい。そろそろ『元に戻る』時分でもあるだろう? その時に障りでも出たら、また倒れてしまうかもしれないしね」
蒼唯はそう言いつつ、ゆっくりと立ち上がった。
「……父上?」
「お邪魔だろうし、私は退出するから。賽貴、頼みましたよ?」
「え?」
不思議そうに父を見上げる浅葱。
蒼唯はにっこりと笑みをたたえつつ、賽貴を一瞥した。
視線を向けられた賽貴はその意味を察しているのか、押し黙ったままだ。
「父上?」
「……ここから、吸い上げてもらうのが一番なんだよ。妖気が強いものであれば、なお良い」
「!?」
とん、と軽く浅葱の唇の上に置かれたものは、蒼唯の人差し指だった。
その行動と言葉の意味を悟った浅葱は目を丸くし、頬が桃色に染まる。
「ち、父上……っ」
「いい機会だ。気持ちを確かめるには、一番の方法だよ」
こっそりと浅葱に耳打ちする蒼唯の顔は楽しそうだった。
反対に浅葱は目を回しそうになり、両手に収めていた椀を再び傍らに慌てて置いていた。
「では、父さまは失礼するよ」
「……と、父さまッ!」
楽しそうに微笑みながらいそいそと部屋を後にする蒼唯へ、真っ赤な顔をした浅葱が非難の声を上げる。
だが彼はするりと御簾をくぐり、瞬き一つの間に姿を消してしまった。
「……………」
二人残された室内で、去っていく蒼唯の足音を聞きながら、浅葱は先程までとは違う意味で俯き沈黙した。
「浅葱さま……?」
「は、はいッ」
賽貴が覗き込むように声をかけるとそれに過剰反応した浅葱は、極度の緊張のために声が裏返っていた。
瘴気の事は嘘では無いだろうが、それは口実だったのではないだろうか?
そう思わずにはいられない。
「…………」
硬直したままの浅葱を見て、珍しく賽貴が表情を緩ませた。
そして。
「――失礼します、『当主』」
わざとらしい呼びかけに、浅葱は思わず顔を跳ね上げる。
「賽貴ッ、その呼び方は嫌だって、……ッ……!」
はめられた、と気づいたときには既に遅く、浅葱は賽貴の腕にしっかりと抱かれ唇を塞がれていた。
「ん、……っ」
腕の中、もがいてはみるものの力が入らない。そもそも賽貴とこうした触れ合いも久しぶりのことであるので、頭の中は既に真っ白な状態だ。
幾度か繰り返されたあと、ゆっくりと解放される。
賽貴の着物をぎゅ、と握り締めながら、浅葱は小さい言葉を紡いだ。
「……、ばか……誰か、来たら……」
「時間がありませんでしたので」
賽貴が言う時間とは、浅葱が元の姿に戻るまでのことを指している。それをあっさりと答える様に、浅葱は頬をふくらませた。
自分だけが動揺していると言うことに、不満を抱いたのだ。
「ご迷惑でしたか?」
「もう……賽貴のばかっ!」
涼しい顔で改めての問いかけを投げられた浅葱は、真っ赤な顔のままで、瞳に涙を浮かべつつそれを吐き出してそっぽを向く。
賽貴は小さく、笑みをつくるのみだ。
「…………」
僅かな間を置き、浅葱がちらりと視線を戻す。
するとそれに気づいた賽貴が、そろりと右手を伸ばして浅葱の頭にそれを静かに置いた。
そして二人には、久しぶりの笑顔が戻るのであった。