10月23日 一
10月23日 朝
幽木は朝7時半に目を覚ました。いつものことだ。目覚ましなどかけなくても、身体がこの時間に起きるようになっている。
もう少し寝ていたいという誘惑に負けず、生温かいベッドから身体を起こし、寝室を出た。
フローリングの床を歩き、まずは玄関へと向かう。靴も履かずに家のドアを開け、ドアに備え付けられた新聞入れに突き刺さっている新聞を引っこ抜いた。
欠伸をしながらリビングに戻り、新聞を四つの足がついた四角くベージュ色のテーブルの上に広げた。
一面はスポーツ新聞か何かかと見まがうほどに、大きく海外日本人サッカー選手の移籍と、プロ野球のドラフト会議注目選手についての記事がひしめきあっていた。右端には小さく、高校生バラバラ殺人事件も載っており、少々げんなりした。
一通り新聞を読み終え、白いソファーの上に放置されているリモコンで、テレビの電源を点ける。液晶の画面に光が点る。丁度今はニュースの時間帯らしく、三十代前半くらいの男性アナウンサーが映っていた。
次々と羅列されるニュースの数々を聞き流しながら、台所のトースターの溝に食パンを2枚ほど放り込んだ。朝食を作るのがめんどくさい時はこれで十分だ。少しして、チンという終了を報せる音が聞こえ、溝から2枚のトーストが競りあがってきた。それらをつまみ上げ、丸く白い食器の上に載せてテーブルに置く。幽木自身も椅子に座り、ぼんやりとテレビを見ながらトーストを口に放り込んでいく。
ふと、見ていたテレビ画面の上に白い文字のテロップが現れた。
気になって見てみると、緊急ニュース速報と書かれたテロップが10秒足らずで次のような言葉に切り替わった。
「今日未明、皆木市の住宅街で首を絞められて殺されている遺体が発見され、遺体が皆木高校二年鮫島魁人君のものであると断定されました」
10月23日 朝 皆木署
「綺麗な死体だねえ」
村山は犬井が持ってきた、鮫島魁人の遺体写真を見て暢気に呟いた。村山の言うとおり、その遺体は衣服の乱れもなく、痣一つ見受けられない、このまま動き出してもおかしくないようなものだった。顔が青白いことを除けばだが。
「感想それだけッスか!? まだ、所轄には出回っていないのを、俺が頑張って入手したのに…!」
「そう言われてもねえ…。僕が頼んだわけじゃないし。あちっ…!」
苦笑しながら、村山は湯気が立ち上るコーヒーを口に運ぶ。コーヒーの良し悪しなど村山には分からないが、若い女性署員の入れたものなのだから、たとえ自分が猫舌であろうとも飲みきることにした。
「…うん、ありがとう舞ちゃん。とっても美味しいよ」
「あっ…いえ…」
声をかけられた茶髪の二十代前半の女性署員は、そそくさとその場を後にした。
その姿を見て、村山は不満げに首を傾げた。
「なんだろうね…? どうも、若い子に避けられてる気がするんだよね。最近」
何馬鹿なことを聞いているんだと、言わんばかりの調子で犬井は答えた。
「そりゃあ、署内でも適当、女誑しの代名詞であるアンタに声かけられて喜ぶ方がどうかしてると思いますけど?」
「辛辣だなぁ…。君さあ、僕になら何でも言っていいって勘違いしていないかい? 僕だって傷つくんだよ? 僕はガラスのハート並みに繊細なんだからさ」
「繊細な人間は会議中に寝たりしません」
きっぱりと言い切られてしまった村山は、他に何か言い返す術はないかと模索する。
「大体情報の真偽も確かめないで、僕を女誑し呼ばわりするのはよくないよ? 鵜呑みにするなんて、刑事失格だよ。僕は、まだ、署内では誰にも手を出してないのに」
「まだ、って言ってる時点で黒じゃないですか…。そう呼ばれたくないなら、手当たり次第に女性署員にちょっかいかけるのは止めて下さい」
困ったように首を振りながら村山は言った。
「冗談で言ったのに…。大体、若い子に手なんて出したら、娘に軽蔑されてしまうよ」
「えっ? 本当に娘さんいたんですか!?」
目を丸くして尋ねる犬井に、村山は不機嫌な顔になる。
「君は失礼な奴だなぁ…。これでも今年20になる娘がいるんだよ。まあ、親権は別れた女房にあるがね」
最後は自嘲気味に笑いながら村山はそう言って、会話を締めくくった。
二人が会話していると、ふと黒いスーツの男が視界の端に映った。年は四十代半ばくらいか、縁なし眼鏡の奥に見える目は、些か不機嫌そうに見える。周りを数人の部下らしき人間に囲まれており、どこぞの社長といっても通じそうだ。
男は村山を見るなり、部下の制止を振り切って近づいてきた。犬井は男を見るなり、驚いた顔をして萎縮している。村山は近づいてきた男の姿を見ると、フランクな口調で話しかけた。
「あれ? 黒ちゃんじゃん」
光景を見ていた署員全員が凍りついた。犬井に至っては、何を言っているんだこの馬鹿は、と思わず口に出してしまいそうになる。
男は目を細めながら、不機嫌そうに言った。
「今日はいたんですね」
臆することなく村山は答える。
「そりゃあね。僕はここの人間だもの」
「それもそうですね。会議中、寝ないように気をつけてください」
村山はうんざりといった調子で言葉を返す。
「会議なんて毎日やるだけ無駄だよ。減らしたほうがいいんじゃないかい? 早くしないと、まだ続いちゃうかもよ? 容疑者が未成年だから、慎重になるのもわかるけどさ」
「貴方の指図を受けるつもりはありませんので。では」
相変わらず不機嫌そうな顔のまま、短くそう言って男は去っていった。
男が去ったことで、止まっていた署員たちが慌しく動き始める。
男が去った後、犬井が小声で村山に尋ねる。
「黒田本部長と、どういう関係なんスか?」
暫し考えたように天井を仰ぎ、村山は誤魔化すように答えた。
「古くもない知り合いだよ」
10月23日 朝 皆高
幽木のクラス内は騒然としていた。理由は語るまでもなく、鮫島が死んだことだ。
昨日まで鮫島を犯人ではないか、などと疑っていた人間は、顔を俯かせており、一目で分かる。いつもはうるさいナベですらも、今日は静かに自分の席に座っており、それだけで現状の異常さを物語っていた。
実際それらは関係があるのかないのか、確かめる術を彼らは持たない。
幽木は雑音に耳を塞ぎたくなりながら、自らの冷たい机に突っ伏してみるが、うるさくて眠れそうもない。逆にひんやりと冷たい机のせいで、眠たくなりそうもなかった。
めんどくさくなり、しょうがなく身体を起こす。そして、制服の右ポケットから白いケータイを取り出した。画面が表示されたところで、担任が入ってきたので慌てて机の下に隠し、メールBoxを見ていく。
途中で村山という名があり、なんだっただろうかと思い覗いて見るが、何のことはない。ちゃんと届いたかの確認メールだった。
どうでもよくなったところで、ふと何か分かったことはないかと考えてみるものの、何も浮かばなかったので、そのままケータイを放置し、どうでもいいSHRに耳を傾けていった。
10月23日 昼 皆木署
会議終わり、村山が時計を見ると既に時刻は12時を回っていた。
――会議ってやつは、本当に時間の無駄だねえ…。黒ちゃんも本部長になってから初めての大きな事件だから、テンパるのも分かるけどさぁ…
後輩の身を憂いつつ、時計を眺めていると、一緒に出てきた犬井が声をかけてきた。
「関係あると思います?」
「何が?」
「今回の殺しとあのバラバラ殺人ですよ。容疑者の一人に上がってた害者が殺されたんですよ? 何か関係あると思いません? しかも、挙がっていた容疑者の中で、唯一、その日不審な目撃情報があった害者がですよ?」
興奮気味に真剣な様子で尋ねる犬井に、村山はどうでもいいといった調子で曖昧に答えた。
「さあねえ? そんなこと分からんさ」
「でも、殺し方が違いすぎますし…。今回のは別…? どう思います?」
「分かんないよ。僕になんか分かんないって」
これ以上意見を求めることを諦めかけた犬井に、ただ、と前置きして村山は続ける。
「どちらにせよ、今暫くかかりそうだね」
「それはまたどうして?」
「挙がってる容疑者が全員未成年だからねえ。逮捕するにも慎重になるだろう。まさか、捕まえておいて間違えましたなんて、言えないだろう? そんなことしたらマスコミの格好の的さ。成人でも間違いは許されないけど、相手が未成年となると成人の倍以上の反響が待ってるだろうからね」
聞き終わった犬井は驚いたような顔をして、呟いた。
「案外色々考えてるんスね…」
「君は僕をなんだと思ってるんだい…?」
10月23日 昼 皆高
昼休みを迎えたクラス内は、ある程度の平穏を取り戻していた。表面上は。大体の人間はそれが、仮初の空元気であると気づいていたが、それを口にする者はいない。クラス内を停滞した空気が未だに包んではいる。
幽木にとって、このクラスの元気の象徴――ナベは、朝の憂鬱はどこへ行ったのか、相変わらずうるさい。
切り替えが早いというのか、それともこれも空元気なのか、幽木には判断がつかない。
「さてさて、ここで名探偵オレの出番だよ! 必ず解き明かしてみせる! ばっちゃんの名にかけて! というわけで、今回の殺人事件をおさらいしてみようぜ」
こんなことを言っているのを見る限り、切り替えが早いのだろうか。
そんなことを考えつつ、呆れ顔で目の前の机を陣取るナベを見つめる。
「まず、第一の事件だ。根元とかいうカスが殺されたやつだな」
「ひどい言われようだな」
「警察の公式発表とか、ニュースでの報道を見た感じ、どうやら鈍器で何度も殴られて殺されて、その後にバラバラにされたらしい」
「…そう、らしいな…」
幽木の眼に死体の記憶が蘇り、若干暗い調子となるが、ナベは気にした様子はない。
「そんな残忍な殺し方から見て、殺害の動機は怨恨で間違いないと名探偵ナベは推理したわけですよ」
「おっかしいなあ…。色んな新聞とかテレビで、皆そんなこと言ってた気がしたんだが」
「で、だよ」
「無視かい…。まあ、いいけど」
幽木のツッコミを無視して、ナベは続ける。
「根元を怨んでそうな人間をサーチしてみた。これがそのリストだ」
そう言って取り出したのは青いケータイ。画面をタッチしてメモ帳のアプリを開く。そこには三人ほどの名前が記されていた。そして、鮫島魁人の名前も。後の二人は他のクラスなのだろう。幽木の記憶にはなかった。
「ここの人間に共通してるのは、根元を主とするグループにいじめられてたってことだ」
「お前はいじめられてた全員を容疑者にするつもりかよ…。大体、鮫島も死んでるんだから、それは当てはまるか怪しくないか?」
「あくまで可能性の話だ。よっし、容疑者はこの二人! 後は追加捜査をしなきゃな」
変な方向に張り切るナベを冷めた眼で見ながら、幽木はある事を考えていた。
よく言われる話だ。イジメとは、いじめられている人間を見てみぬ振りした人間も同罪だという。
であれば
――この学校は全員同罪だろう。根元の死の遠因の一つには、見過ごした俺たちもいるんじゃないのか…?