おかえり
「あなた、おかえりなさい」
リビングのカーペットに座った由奈が、どこかで聞いたような言葉を喋った。
「ただいま」
レイちゃんは返事をして、ふたりが向かいあうように座った。
「ちょっと待っててね。もう少しでごはんできるから」
「うん」
由奈は手許で食事の用意をしている。レイちゃんはそれを黙ってジッと見つめていた。
「あなた、今日のお仕事はどうでした?」
「取り引きが上手くいってたくさん儲けたよ」
「それはよかったですね。じゃあ夕御飯にしましょう」
脈絡のない会話で夕御飯がでてきて、ふたりはそれに手を付けた。
「今日のおかずはあなたの好きな、コロッケですよ」
「由奈ちゃん・・・、私コロッケ嫌いなんだ」
「えっ、どうして?コロッケおいしいよ」
「中に入ってるグリンピースが食べられなくて」
「一緒に食べちゃえばわかんないよ。でも、それならおかずはハンバーグにしようか」
「うん。ハンバーグなら好き」
そのやり取りのあとで、ふたりは食事をするように手を口に運んだ。
「おいしかったです。ご馳走さまでした」
レイちゃんが手を合わせて言った。由奈も一緒に手を合わせた。
「ご馳走さまでした」
食事を終えると、レイちゃんはおもむろにテーブルの上にあったテレビのリモコンを取った。それをテレビに向けて、指を動かしながら溜息をついた。
「今日は野球やってないみたい。残念だなあ」
「あなた、野球を見るときはCMのあいだだけにしてくださいね。それと、今日は夕方から子供たちがアニメを見たがってます」
「わかったよ」
レイちゃんは渋々といった表情で、リモコンをテーブルの上に戻した。すると由奈が、食堂の席に着いている私のところまで来て、のぞき込むように見上げた。
「パパ、その新聞ちょっと貸して」
「ん、ああ、はい」
私が広げていた新聞を畳んで渡すと、由奈は「ちょっとでいい」と言って一枚を抜きだして持っていった。
「はい、あなた。新聞」
「ありがとう」
レイちゃんは新聞を広げて、胡座をかいて読むふりをしている。
「あなた、お風呂はいつにしますか?」
「あとで入るよ」
「じゃあ私が子供たちと一緒に入りますね」
「うん」
由奈は部屋を出て、廊下のおくの風呂場へいってしまったようだ。私は彼女達の演技のディテールの深さに感心したが、無言のままレイちゃんと新聞をにらみ合うこの状況に落ち着かなかった。
しばらくの沈黙の後、戻ってきた由奈が言う。
「あなた、お風呂空きましたよ」
「ねー、由奈ちゃん。わたしもお母さんの役やりたい」
読めない新聞を読むのに飽きたのか、レイちゃんは主役を望んだ。
「えーっ、わたしもお母さんの役がいい」
「由奈ちゃん、さっきからずっとお母さんの役だもん。もう交代しようよ」
「でもわたし、お父さんの役やりたくないもん。お母さんのままがいいな」
そのとき私は、解体工事に使うハンマーで頭をおもいっきり殴られたような、衝撃と不快感にさいなまれていた。
「ずるいよ、由奈ちゃんだけ。わたしもお母さんやりたい」
「わたしもお母さんがいい。お父さんはやだ!」
由奈・・・、お父さんは明日からどんな気持ちで会社に行ったらいいんだい?
「う~ん、どうしよう」
「そうだ!ちょっと待ってて」
思いついたように由奈は、駆け足で部屋を出て、足音をたてて階段を上ったかと思うと、すぐに戻ってきて抱えた人形を差し出した。それは私が1年前にプレゼントした、等身大のクッキーモンスターのぬいぐるみだった。
「この子をお父さんにして、わたしとレイちゃんでお母さんやろう」
どうやらここは日本ではなく、アフリカにあるサバンナのど真ん中だったらしい。クッキーモンスターは屈強な黒人の成年で、ふたりの幼妻を養うドゥンゴゴ族(だかどこかの部族)での便宜的な戸籍上の夫だった。
「うん、わかった。そうしよう」
「じゃあわたしは、買い物にいってくるから、レイちゃんはごはん作ってて」
「うん。いってらっしゃい」
由奈はまた部屋を出ていった。残されたレイちゃんは寡黙な夫に話しかけながら料理を作っている。こころなしかさっきより会話が弾んでいる。お母さんであることに満足しているのかもしれない。その光景を傍から見ていて、私はレイちゃんのことを不憫に思ってしまった。
「あなた、晩ご飯はなにがいいですか?・・・じゃあカレーにしましょう。にんじんは少なめにしますね」
だんなさんは多くを(というか何も)語らず、ただ微笑んでいた。ふたりの関係はとても親密そうにみえたが、夫はうわのそらだし、お互いにまったく別のことを考えているみたいだった。献身的な妻が求めたのは、ゆいいつ夫の口元だけにうかんでいる笑みだった。
「ただいまっ。ねえ、いいもの持ってきたよ」
戻ってきた由奈はいくつかの小道具を抱えていた。
「これを赤ちゃんにして、わたしの子供にするね」
ちいさな人形を握り締めて言った。赤ちゃんは手の中から身をのり出してうなだれている。
「こっちがレイちゃんの赤ちゃん」
脇にかかえられた人形をみせて言った。レイちゃんは人形を受けとると両手に収めて、慈しむように笑顔をむけた。
「それじゃあ赤ちゃんはお父さんに見てもらって、夕御飯にしよう。今日のごはんは何?」
「カレーだけど、まだできてないよ」
「じゃあ材料買ってきたから、これを使って」
由奈は片手にさげられたブリキ缶を渡した。中には積み木がはいっているはずだ。
「それからこれも」
なぜか由奈は動物図鑑とうちわとスリッパを持ってきていた。それを受けとって、レイちゃんは即座に理解したのか、難なく使いこなした。
トントントントン
動物図鑑をまな板にして、うちわでスリッパを切っている。短冊状に切られただろうスリッパを、ブリキ缶のナベに入れて、ものさしでかきまぜながら積み木と一緒に煮込んだ。「グツグツ」という様子ととともに、「ドロドロ」という擬音も聞こえてきそうなカレーだった。
「はい、あなた。カレーができましたよ。めしあがれ」
そう言ってレイちゃんが持っていたのは、あきらかにカレーではなくスリッパだった。クッキーモンスターはその表情をひきつらせて、口元に運ばれたスリッパを見ないように努めていた。彼は顔面を蒼白にして、全身まで青くしていた。
「あなた、おいしい?カレー好きですもんね」
クッキーモンスターが好きなのはクッキーだけだ。スリッパだけは間違っても食べたりしないだろう。
「まだたくさんあるから、おかわりしてくださいね。はい、アーン」
スリッパで喉元をつつかれ、それでも許してもらえないクッキーモンスターはいつ解放されるのだろう。ナベの中身は一向にへらない。
「よしよし、赤ちゃんたちにもあげるね」
赤ん坊を抱えて、由奈は積み木を与えながら微笑んでいた。その悪意のない笑みは不気味でもあり、真正なものでもあった。赤ん坊たちはすこしでも父親に貢献しようと、いっしょうけんめい積み木をくわえていた。そのとき私は、ここが拷問部屋ではないかと錯覚したほどだった。食事をするパートはなぜかやたらと長かった。
「ごちそうさまでした」と彼女たちは人形の手をあわせて、一緒に言った。「食べ終わったら赤ちゃんを寝かさないと。それまで本をよんであげるね」
人形をふたつ、カーペットのうえに並べて、そのあたまのとなりにまな板を広げた。母親たちは動物に関係するくわしい説明をしていた。毎晩同じように授けられる驚きと喜びを、そのままつたえるように。
「キリンはね、とーっても背が高くて、2階の屋根にとどくくらいおおきいんだよ」
「それから空を飛んで、ちゅーごくに住んでるんだよ」
それは麒麟だった。なぜ由奈はそんな入れ知恵をされたのだろう。
「そうなの?しらなかった」
「うん。パパがいってた」
そういえばビール(一番搾り)を飲んでいるときにそんなことを話した気がする。私は広げた新聞で顔を隠した。
ふたりは本のページをめくりながら、お気に入りの動物を解説していた。やがてそれは外見におよんで、お互いの意趣の違いをあらわした。図鑑にのる写真を指さして、知っていることを迷わずに披露していた。いくつかの誤解もそのまま披露された。
「もう寝ちゃったみたい。そろそろ私たちも寝ないと」
「そうだね。もう夜遅いし」
北欧に半年のあいだ訪れる白夜でもやってきたのかもしれない。窓からはさんさんと陽光が差し込んでいたし、時計の針も4時を示していた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
家族(2世帯)は並んで寝ころんでいた。人形の両どなりを母親たちが、レイちゃんのとなりに父親が寝た。二人は天井にむかって目をつぶっていた。父親だけは放心しているようにみえた。
「ねぇ、もう寝ちゃった?」
「まだ。起きてるよ」
沈黙のあとで簡単な会話が交わされて、それが何度が続いた。ふたりは相手をのぞき見たり、返事を遅らせたりしてじゃれあっていた。小さな笑い声と短い会話がきこえて、しばらくすると静寂があたりを包んだ。
ふたりは本当に寝てしまったようだった。リビングにはちいさな体と、無邪気な寝顔があった。私は広げた新聞をたたんで机の上におき、頬杖をついてその光景を見守っていた。うららかな日差しが休日の午後を淡く染めていた。安らぎと幸せを感じた。この瞬間がいつまでも続けばと思った。やがて失われる願いだとしても、今だけはひたっていようと思った。
彼女たちが望んだように、私もこの一瞬を求めていた。それは私たちが変わらずに信じ続ける希望だったのかもしれない。いつの日も変わらない真実だったのかも、私はそう思ってひとりごちした。
外から車のエンジン音が響いた。私は立ちあがって、子供たちを起こさないようにゆっくりと歩いた。廊下に出て玄関までくると、ドアが開かれるのを待っていた。やがて物音とともにドアノブが回って、買い物袋を手にさげた妻が帰ってきた。
「おかえり」
「どうしたの?出迎えて。ただいま」
私は妻から買い物袋を受け取った。
「子供たちが居間で寝てるんだ。起こさないように行こう」
「ああ、そうなの。わかった」
私は廊下をさきに歩いて、気がついたことをふり返って口にしてみた。
「今日の夕飯はなに?カレーじゃないよね?」
「カレーがいいの?」
「いや、カレー以外がいいんだ」
「なにそれ。今日はお刺身です」
リビングではクッキーモンスターが放心していた。魂が抜けたみたいにぐったりしていた。