第九章:灰燼の都、最期の肖像
第九章:灰燼の都、最期の肖像
一九五四年二月。北進を続けていたB国軍の前に、突如として地鳴りのような進撃を開始したD国軍の影が立ち塞がりました。その圧倒的な兵力は、まるで雪崩のように北の地を飲み込み、再建を始めたばかりの「北の都」は、再び戦火の最前線へと引き戻されようとしていました。
軍司令部からは、非情な撤退命令が下されます。しかし、後方にはまだ避難しきれていない数千の市民と、動かすことのできない負傷兵たちが残されていました。
「中隊長、俺たちが残ります」
沈黙を破ったのは、ジャックでした。彼の言葉に、生き残っていた第10中隊の隊員たちが次々と頷きます。
「この都を再び地獄にするわけにはいかない。俺たちがここで時を稼ぐ。中隊長、あんたは市民を連れて逃げてくれ」
エランは、部下たちの顔を一人一人見つめました。共に泥をすすり、氷の川を渡り、死線を越えてきた家族同然の男たち。エランは静かに首を振ると、自らの銃を強く握り直しました。
「勘違いするな。俺も残る。……全員で、一人も欠けずに、この戦いを生き抜く。それが、第10中隊の唯一の軍令だ」
その夜、彼らは空になった酒瓶を回し飲みし、瓦礫の隙間で固く手を握り合いました。それは、死を覚悟した者の絶望ではなく、未来を繋ごうとする者たちの静かな決意でした。
翌朝、北の空が赤黒く染まりました。D国軍の猛烈な砲撃が市街地を叩き、奪還されたばかりの建物が、乾いた音を立てて崩れ落ちていきます。
「来たぞ……撃て! 撃ち続けろ!」
エランの怒号と共に、第10中隊の防衛戦が始まりました。路地裏の一つ一つ、建物の階層の一つ一つが戦場となり、鉄と血の匂いが街を支配します。多勢に無勢。それでも、第10中隊は「亡霊」のように粘り強く戦い続け、D国軍の進撃を数時間にわたって食い止めました。
しかし、戦況は残酷な結末へと向かっていました。市街地は炎に包まれ、視界は煤と煙で遮られていきます。
「エラン! エラン、どこなの!」
混迷を極める市街地の広場に、場違いな白い影が飛び出しました。監視を振り切り、避難民の波を逆走してエランを捜しに来たセシリアでした。彼女の手には、あの日エランが調達した古びた救急箱が握られていました。
「セシリア! なぜここに! 戻れ、早く戻るんだ!」
エランの声が響いた瞬間、広場を横切るD国軍の狙撃兵の銃口が、白い影を捉えました。
「だめだ……セシリア、伏せろ!」
乾いた銃声が一度、二度。
セシリアの体は、糸が切れた人形のように宙を舞い、冷たい石畳の上に崩れ落ちました。真っ白だった白衣に、見る間に紅い花が広がっていきます。
「ああああああっ!」
エランは理性を失い、遮蔽物から飛び出しました。彼女の元へ駆け寄ろうとしたその瞬間、彼の肩と脇腹にも鋭い衝撃が走りました。
崩れ落ちる膝。視界が急速に狭まり、雪の冷たさが頬に触れます。数メートル先で倒れているセシリアの手が、弱々しく自分の方へ伸ばされているのが見えましたが、その指先が触れ合う前に、彼女の瞳から光が消えていくのを、エランは確かに見てしまいました。
「セシリア……待ってくれ……行かないでくれ……」
エランの視界は、そこで真っ暗な闇に閉ざされました。
エランが次に意識を取り戻したとき、体は激しく揺れていました。
「……死ぬな、エラン。死なせてたまるか!」
耳元で叫んでいたのは、転属したはずのカイルでした。彼は前線への移動中、D国軍の急襲を知り、独断で部隊を率いてこの都へと引き返してきたのです。カイルは、血まみれで倒れていたエランを担ぎ上げ、降り注ぐ弾丸の雨の中を、遮二無二走り続けていました。
「カイル……放せ……セシリアが……あそこに……」
「黙れ! 彼女は、もう……!」
カイルの声が詰まりました。その言葉の続きを、エランの脳は拒絶しました。
救護所のテントに運び込まれたエランは、傷の痛みすら感じないほどの虚無感に襲われていました。彼の右手には、彼女に触れることができなかった虚しさと、彼女の鮮血の温度だけが残っていました。
「セシリアは死んだのか? 答えろ、カイル!」
カイルは、エランの問いに答えることができませんでした。ただ、血に染まった彼女の救急箱を、静かにエランの傍らに置きました。
その瞬間、エランの中で何かが音を立てて壊れました。
これまで彼を支えてきたのは、どんな過酷な戦場であっても「生きて彼女に会う」という一筋の光でした。その光が、今、目の前で永遠に消え去ってしまった。
「ああ……あああああああ!」
エランの叫びは、救護所のテントを震わせ、夜の戦場へと消えていきました。
彼は、生きながらにして魂を失った、動く屍と化してしまったのです。
数日間、エランは一言も発さず、食事も取らず、ただ一点を見つめ続けました。
第十中隊の部下たちが代わる代わる見舞いに来ましたが、彼は誰の言葉にも反応しません。
「中隊長、しっかりしてください。俺たちはあんたについてきたんだ」
ジャックの涙ながらの訴えも、今のエランには遠い異国の言語のようにしか聞こえませんでした。
カイルは、そんなエランを殴り飛ばしたい衝動を抑え、テントの外で独り、夜空を見上げました。
「エラン……君が壊れてしまったら、私は誰と競えばいい。誰に詫び続ければいいんだ」
雪は降り続き、すべてを白く覆い隠そうとしています。
エランが描き続けた「セシリアの肖像」は、今やそのモデルを失い、未完成のまま永遠に凍りついてしまったかのように見えました。
しかし、戦火は止みません。D国軍の影は、すぐそこまで迫っていました。
自失したエランの指先が、偶然、傍らに置かれた救急箱に触れました。その中には、あの日、エランが彼女に贈った血染めのスケッチの切れ端が、大切に仕舞われていたのです。




