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境界の肖像 ―紅き指先と凍てつく再会―  作者: 水前寺鯉太郎


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第八章:審判の天秤と、沈黙の雪原

第八章:審判の天秤と、沈黙の雪原

一九五四年、一月。北の都を包む空気は、刺すような寒気から、どこか湿り気を帯びた重苦しいものへと変わっていました。都の奪還という狂乱の陰で、戦争が残した負の遺産——「思想」と「忠誠」を巡る冷徹な戦いが幕を開けようとしていたのです。


瓦礫の中に奇跡的に焼け残った旧裁判所の庁舎。その冷え切った法廷に、セシリアは立っていました。彼女に突きつけられた罪状は「A国軍への医療協力、および利敵行為」。

戦時下におけるこの罪は、最悪の場合、公開処刑を意味していました。

裁判官の席に座る反逆者調査委員会の将校たちは、蛇のような冷ややかな目で、白衣を脱がされたセシリアを見下ろしていました。

「セシリア・ハルフォード。貴女は北の都において、A国軍の兵士たちを治療し、彼らの戦線復帰を助けた。これはB国に対する明白な裏切りではないか?」

セシリアは、まっすぐに裁判官を見据えて答えました。

「私は医師です。目の前で苦しむ命がある時、その国籍を問うことは、私の誓いに対する裏切りです。私は人間を救ったのであって、軍を助けたのではありません」

法廷内に嘲笑と怒号が響きます。「詭弁だ!」「売国奴め!」という罵声が飛ぶ中、一人の男が証言台へと歩み寄りました。


「証言を許可する。B国陸軍、カイル中尉」

カイルは、非のうちどころのない軍装で現れました。しかし、その表情はかつての傲慢なエリートのそれではなく、何か大きな決意を秘めた、静かなものでした。

「委員長。私が彼女を確保した際、彼女は逃亡を企てていたのではありません。重傷の少年のために薬を求めていたのです。私が彼女をここに連れてきたのは、彼女が反逆者だからではありません。彼女の潔白を、この法廷という公の場で完全に立証するためです」

カイルは、自身が撮影した診療所の惨状や、セシリアが救ったB国側避難民たちのリストを証拠として提出しました。

さらに、法廷の扉が開き、セシリアと共に地下診療所で働いていた看護師や、彼女に命を救われた村人たちが次々と姿を現しました。

「セシリア先生は、私たちの光でした!」

「彼女がいなければ、この街の子供たちは全滅していた!」

彼らの切実な叫びは、冷酷な法廷の空気を確実に変えていきました。カイルは最後に、裁判官に向かって言い放ちました。

「彼女を裁くということは、戦火の中で慈悲を貫いた人間の良心を裁くということです。それは、我々B国が守ろうとしている民主主義そのものを否定することになりませんか?」

委員長は不快そうに顔を歪めました。しかし、カイルの背後にある有力な軍閥の家柄と、これほど多くの民衆の声を無視することはできませんでした。

「……判決は保留とする。被告人は、後方部隊の厳重な監視下に置くものとする」


裁判所の裏庭。雪が静かに降り積もる中、エランはカイルを待っていました。

「助かった、カイル。お前がいなければ、彼女は……」

カイルは、エランの言葉を遮るように首を振りました。

「礼を言われる筋合いはない。私はただ、自分の犯した過ちの半分を、ようやく片付けただけだ」

カイルは、エランの瞳をまっすぐに見つめました。

「エラン。……そして、中にいるセシリアに伝えてくれ。あの日、君の手を刺し、君たちの未来を壊そうとしたこと。そして、彼女を裏切り者と疑い、追い詰めたこと。……心から、詫びたかったと」

かつてあれほどまでに巨大で、憎しみの対象であったカイルの肩が、今は小さく、震えているように見えました。

「カイル、俺たちは……」

「言葉は不要だ。……私は、明日の朝、東部前線の再編部隊へ発つ。中隊のことは、君に任せたぞ、中隊長」

カイルは、初めて「友人」に向けるような柔らかな笑みを浮かべると、一度も振り返ることなく、白銀の闇へと消えていきました。それは、二人の間にあった十年以上にわたる恩讐が、冬の雪に溶けていくような瞬間でした。


セシリアの安全が一時的に確保されたことに安堵する暇もなく、第十中隊にはさらなる進軍の命令が下されました。

「目標、さらに北の国境山脈。残存する敵勢力を完全に掃討せよ」

部隊は、人の気配が絶えた極寒の山岳地帯へと足を踏み入れました。そこは、地図すら不確かな「沈黙の世界」でした。

進軍の途中、経験豊富な斥候兵であるテホが、エランの元へ駆け寄ってきました。

「中隊長、妙です。雪の上の足跡が、重機や車両のものではありません。草鞋や、素足に近い、奇妙な足跡が続いています」

エランは、周囲の木々を見渡しました。風の音以外、何も聞こえません。しかし、その静寂こそが、異常な事態を物語っていました。

「D国軍(北の背後にいる大国)か?」

「分かりません。しかし、ただの敗残兵ではない。組織的な潜伏を感じます。……私が、少し先まで偵察に出てきます。エランさん、いや、中隊長。本隊はここで待機を」

テホは、エランにとって弟のような存在でした。エランは一瞬、彼を行かせるべきか迷いましたが、彼の実力を信じて頷きました。

「……無理はするな。五分、いや三分で戻れ。異変があれば、すぐに信号弾を上げろ」

テホは短く頷くと、雪の斜面を滑るようにして、森の奥深くへと消えていきました。

忍び寄る影

五分が過ぎ、十分が過ぎました。

テホは戻りません。

中隊の兵士たちの間に、じりじりと焦燥が広がります。

「中隊長、テホが遅すぎます。俺が行ってきます!」

ジャックが立ち上がろうとしたその時。

森の奥から、乾いた銃声が一度だけ響きました。

それは、テホが持っていた短銃の音ではありませんでした。もっと重く、古めかしい、しかし確実に急所を貫くような、狙撃銃の響き。

「全軍、戦闘配置!」

エランの声と同時に、雪の中から「幽霊」たちが立ち上がりました。

それは、白装束に身を包み、この酷寒の森と一体化していた、D国軍の精鋭伏兵部隊でした。

「テホォォォ!」

ジャックの叫びが虚しく響く中、エランの視線の先に、雪に染まったテホの帽子が転がってくるのが見えました。

ついに、戦争は新しい局面へ、そして最も過酷な最終章へと突入しました。

エランは、不自由な右手を強く握りしめました。セシリアとの再会で得た微かな光を、この深い雪の闇に消させるわけにはいきませんでした。

「……撃て! 一人も通すな!」

雪原が、再び紅く染まり始めます。

北の都に春が来るのは、まだ、ずっと先のようでした

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