第七章:硝煙の胎動と、運命の街角
第七章:硝煙の胎動と、運命の街角
一九五三年の末。奪還されたばかりの北の都は、勝利の歓喜と、敗北の絶望が混濁した奇妙な静寂に包まれていました。第十中隊の最先鋒として一番乗りを果たしたエランとカイルでしたが、二人が目にしたのは、美しき古都の面影を失い、瓦礫の山と化した「墓標」としての街の姿でした。
大聖堂の地下、臨時診療所の一角で、セシリアは暗い闇に沈んでいました。
エランとの束の間の再会、そして過酷な北への逃避行。その渦中で、彼女の体内には小さな命が宿っていました。それは、戦争という破壊の嵐の中で芽生えた、唯一の光であり、エランとの愛の証でした。
しかし、運命は残酷でした。極限の飢え、寒さ、そして兄ギルバートを失った心痛。さらに、北進するB国軍を避けるための激しい空襲。逃げ惑う最中、彼女はその小さな命を失ってしまいました。
「……ごめんなさい。エラン、あなたとの……大切な……」
血の気の引いた唇から漏れるのは、謝罪の言葉ばかりでした。もはや医師としての冷静さなどどこにもありません。彼女は、力なく横たわる自分の腹部を抱きしめ、枯れ果てたはずの涙を流し続けていました。
そんな彼女を、一人の少年が懸命に支えていました。戦災孤児のミョンホです。セシリアに命を救われ、それ以来、彼女を実の母のように慕っていた少年は、泣き続ける彼女の傍らで、小さな手を握りしめ続けました。
「先生、泣かないで。僕がいるよ。僕が先生を守るから。だから、もう一度笑ってよ……」
ミョンホは、瓦礫の中から拾ってきた色褪せた造花を彼女の枕元に置きました。しかし、その必死の励ましも、深い淵に落ちたセシリアの心には届きませんでした。
一方、軍の司令部に戻ったカイルは、ある「証拠」を追っていました。E国軍の広報団が、北の都解放の記録として撮影した数々の写真。その中の一枚に、彼の目は釘付けになりました。
煤にまみれ、疲れ果てた表情で負傷兵を運び出す女性。横顔でしたが、カイルには一目で分かりました。セシリアです。
「やはり、君はここにいたんだな……」
カイルは、その写真を手がかりに、広報団から撮影場所を割り出しました。かつてのエリートとしての誇りをかなぐり捨て、彼は一兵卒のように街の路地裏を捜し歩きました。彼の中にあったのは、もはや彼女を捕らえたいという憎悪ではなく、ただ一度、彼女の無事を確認し、あの日犯した自分の過ちを清算したいという、祈りにも似た執念でした。
カイルは街の広場や、破壊された薬局を回り、写真を見せては人々に問いかけました。
「この女性を見ていないか。白衣を着て、少年を連れているはずだ」
同じ頃、エランもまた、直感に従って街を歩いていました。彼はカイルのような写真を持っていませんでしたが、この街のどこかに彼女がいるという確信だけがありました。
ふと、エランの視線が一人の女性に止まりました。食料配給を待つ行列に並ぶ、身なりの貧しい女性。彼女が抱えていた籠の隙間から、古びた救急箱の取っ手が見えたのです。
(あの形……まさか)
それは、かつてハルフォード家にあったもの、あるいはセシリアが村の診療所で使い込んでいたものと同じ特徴を持っていました。エランの心臓が激しく脈打ちます。彼は声をかけることなく、距離を置いてその女性の後をつけ始めました。
女性は配給を受け取ると、人目を避けるように路地裏を通り、街の外れにある崩れかけた廃屋へと入っていきました。エランは息を殺し、その扉を見つめました。
その廃屋の中では、ミョンホの容態が急変していました。空襲の際に負った足の傷が化膿し、高熱を発していたのです。
「ミョンホ、しっかりして。今、お薬を……」
セシリアは我に返り、少年の手を取りました。自分の悲しみに暮れている場合ではありませんでした。ミョンホを救うには、強力な抗生物質が必要です。しかし、この廃屋にはもう何も残っていませんでした。
「先生……大丈夫だよ。僕は、平気……」
弱々しく笑う少年の姿に、セシリアの医師としての魂が再び火を灯しました。彼女は自分の震える脚を叩き、立ち上がりました。
「待っててね。今、軍の物資集積所へ行って、薬を融通してもらうわ。たとえ泥棒と言われても、あなたを死なせたりしない」
セシリアはボロボロの外套を羽織り、霧の立ち込める夜の街へと飛び出しました。
夜の街は、軍の戒厳令下にあり、無断での移動は厳しく制限されていました。セシリアは影に隠れながら、かつての大聖堂近くにある救護所を目指しました。
しかし、運命はいたずらに糸を絡ませます。
物陰から飛び出したセシリアの前に、一人の男が立ち塞がりました。
「……見つけた」
低く、掠れた声。それはカイルでした。
彼は執念で彼女の足跡を追い、この場所に辿り着いていたのです。
「セシリア。君を、A国軍への協力容疑で連行しなければならない」
カイルの言葉は軍人としての義務を装っていましたが、その瞳には溢れんばかりの哀愁が漂っていました。セシリアは凍りついたように立ち尽くしましたが、すぐに叫びました。
「カイル中尉! お願い、今はどいて! 子供が死にそうなの! 私を捕まえるのは後でいい、薬を、薬を奪わせて!」
カイルは絶句しました。「子供」という言葉に、彼は最悪の想像をしました。エランとの間に子供がいたのか。そしてその子が今、死にかけているのか。
「……子供だと? 君とエランの……?」
「違うわ! ミョンホという、私を助けてくれた子なの! 私の……私の赤ちゃんは、もういないのよ! 死んでしまったの!」
セシリアの悲痛な叫びが、夜の静寂を切り裂きました。カイルは衝撃に打たれ、持っていた写真を地面に落としました。彼女が背負ってきた絶望の深さを、彼は初めて知ったのです。
「セシリア、私は……」
カイルが手を差し伸べようとしたその時、背後の路地から、もう一つの影が現れました。
「その手を離せ、カイル」
現れたのは、エランでした。彼は後をつけてきた女性の家から、セシリアがこの場所へ向かったことを察知し、追ってきたのです。
三人が再び、一箇所に集まりました。
再会を喜ぶには、あまりにも残酷な状況。
エランはセシリアのやつれきった姿を見て、すべてを悟りました。彼女の瞳に宿る深い喪失感。そして、カイルが彼女を「容疑者」として見定めていること。
「エラン……」
セシリアの膝が崩れました。エランは駆け寄り、彼女の痩せた体を強く抱きしめました。
「セシリア、もういい。もういいんだ。俺が来た。すべて俺が引き受ける」
カイルは、抱き合う二人を見つめ、ゆっくりと銃をホルスターに収めました。
「……エラン少尉。いや、中隊長。私は、この女性を確保した。しかし、彼女は重傷者の治療に必要な重要参考人だ。私の管理下で、一時的に医療行為を継続させることを許可する」
それは、カイルが軍人としてのキャリアを完全に捨てて放った、最大かつ最後の「嘘」でした。
エランは、カイルの瞳に宿る決意を見ました。
「恩に切る、カイル。……ミョンホを助けよう。セシリア、薬は俺が軍の倉庫から取ってくる。お前はミョンホのそばにいてやれ」
翌朝、北の都の空に、透き通った朝焼けが広がりました。
エランが命がけで調達してきた薬により、ミョンホの熱は下がり、安定を取り戻しました。
廃屋の窓から差し込む光の中で、エランとセシリアは言葉を交わすことなく、ただ手を握り合っていました。
失われた命は二度と戻りません。戦争が残した傷跡も、すぐには消えないでしょう。
しかし、エランの右手の古傷は、今や痛みではなく、彼女の手を握るための確かな「証」となっていました。
カイルは、廃屋の外で独り、朝焼けを見つめていました。
「さらばだ、エラン。さらばだ、セシリア。……私は、私の戦場へ行く」
カイルは転属願いを取り下げ、最前線へと戻る決意を固めていました。エランのように強くはなれなくても、自分にしかできない贖罪の道がある。彼はそう信じて、軍靴を鳴らして歩き出しました。




