第六章:氷塊の誓いと都への凱旋
第六章:氷塊の誓いと都への凱旋
一九五三年の冬は、すべてを凍てつかせるほどに残酷で、しかし同時に、固く閉ざされていた男たちの心を溶かす奇跡の季節でもありました。
北の都へと続く最後の難所。目の前に横たわるのは、黒々と波打つ極寒の川でした。対岸の断崖には敵の強固な陣地が築かれ、重機関銃の銃口が獲物を待つ獣の牙のように並んでいます。この川を渡らなければ、北の都への道は開かれません。
エラン中隊長が下した決断は、少数精鋭による**「夜間渡河特攻作戦」**でした。
「この作戦の指揮は、カイル中尉、君に任せたい」
エランの言葉に、中隊全体が静まり返りました。先の失策で部下を失い、自責の念から転属を願い出ていたカイルは、信じられないという表情でエランを見つめました。
「正気か、エラン。私は……部下を死なせた男だ。指揮官としての資格など、とうに捨てた」
エランは、かつてカイルに突き刺された右手の古傷を、手袋越しにさすりながら静かに答えました。
「お前には、エリートとしての矜持がある。それは時に脆いが、この絶望的な戦場では光になる。カイル、この戦いが終わり、北の都に辿り着いたら、俺たちの因縁も終わるはずだ」
カイルは視線を落とし、掠れた声で言いました。
「……ああ。都に入ったら、私は隊を去る。君のような本物の軍人の隣にいるのは、もう限界だ」
その言葉を聞いたエランは、ふっと寂しげな笑みを浮かべました。
「いいや、カイル。中隊に残るべきなのは、お前だ。お前には軍を立て直す知識と家柄がある。戦争が終わった後の世界には、俺のような泥にまみれた兵士ではなく、お前のような男が必要になる。都へ着いたら、隊を去るのは俺の方だ」
二人の間に流れる空気は、もはや憎しみではなく、死地を共にする者だけが共有できる奇妙な信頼へと変わっていました。
作戦が開始されました。氷の浮く川に身を沈め、音もなく対岸を目指す特攻隊。先頭を切って進むのは、指揮官ではないはずのエランでした。彼は中隊長でありながら、最も危険な最前列に立ち、氷水をかき分けて進みます。
その背中を見たカイルは、激しい既視感に襲われました。
(ジャン中隊長……)
かつて自分たちを導き、身を挺して部下を守ったあの背中。エランの姿は、今や完全にジャンの精神を受け継いでいました。立場や身分ではなく、その行動によってのみ兵士たちの心を束ねる、真のリーダーの姿。
カイルは、己の胸の中にあった矮小な嫉妬が霧散していくのを感じました。
「……全軍、中隊長に続け! 我らが道の先には、勝利しかない!」
カイルの声が響き、第10中隊は一つの生き物のように敵陣へと襲いかかりました。エランとカイルの挟み撃ちにより、敵の重機関銃座は次々と沈黙。ついに、北の都への最後の扉がこじ開けられたのです。
カイルは、返り血を浴びて立ち尽くすエランの元へ歩み寄り、初めて迷いのない敬礼を捧げました。
「エラン大尉。……いや、我が中隊長。今、確信した。貴様こそが、第十中隊の魂だ」
六七四高地を越え、河を渡りきった第十中隊の快進撃は、司令部の耳にも届きました。
「第10中隊を、北の都奪還の最先鋒に任命する。都へ一番乗りし、英雄となれ!」
大隊長からの激文に、疲労困憊していた兵士たちの顔に再び火が灯りました。
しかし、凱旋ムードに沸く中、危うい事件が起こります。
焦燥に駆られた第三小隊長のヨンミンが、街の入り口で移動中の部隊を「敵の増援」と誤認し、先制攻撃を仕掛けてしまったのです。しかし、その相手は味方側の連合軍であるE国軍の偵察隊でした。
あわや国際問題、あるいは同士討ちの惨劇へと発展しかねない一触即発の事態。E国の指揮官は顔を真っ赤にして抗議してきました。
ここでエランは、一切の弁明をせず、泥だらけの地面に膝をついて謝罪しました。
「すべての責任は、指揮官である私にあります。部下の過ちは私の過ち。どのような処罰も受けますが、今は都の解放を優先させてほしい」
その誠実な態度と、何より彼らが潜り抜けてきた凄まじい戦跡を物語るボロボロの軍服を見て、E国の指揮官は毒気を抜かれたように銃を収めました。
「……勇猛な部隊には、時として冷静さを欠く若者もいる。だが、君のような指揮官がいるなら、これ以上の追及は無用だ。先を急ぎたまえ」
エランの機転により、中隊は再び一つになり、ついに北の都の市街地へと足を踏み入れたのです。
一九五三年末、北の都。
かつての美しい街並みは灰燼に帰し、建物の残骸が墓標のように並んでいました。しかし、第10中隊の兵士たちにとっては、そこは約束の地でした。
「入城したぞ! 俺たちが一番乗りだ!」
歓喜の声が上がる中、エランとカイルの二人は、周囲の喧騒を余所に同じ目的地を目指して走り出しました。
セシリア。
二人が戦い抜いた唯一の理由。エランは、ポケットに入れた血染めのスケッチを強く握りしめました。カイルは、かつて彼女に贈ろうとして渡せなかった救急箱の破片を胸に、彼女の姿を探しました。
「セシリア! セシリア・ハルフォードはどこだ!」
二人は狂ったように廃墟を駆け、避難所や臨時診療所を片っ端から当たりました。
同じ頃、街の中央にある崩れかけた大聖堂の地下室。
そこには、地獄を凝縮したような光景が広がっていました。
「止血帯を持ってきて! 急いで!」
セシリアの声は枯れ果て、その白衣は、誰のものかも分からない返り血で赤黒く染まっていました。彼女はB国軍が街に迫っていることも、エランが自分を捜していることも知りませんでした。彼女にあるのは、眼の前で喘ぐ負傷兵たちの命をつなぎ止めるという、医師としての義務だけでした。
「お姉様、もう限界よ……。A国軍は撤退したわ。もうすぐB国の軍隊が来る。私たちは、彼らにどう思われるか……」
妹の震える声に、セシリアは手を止めることなく答えました。
「敵も味方もないわ。ここにいるのは、ただ助けを求めている人間だけ。それを見捨てるなら、私はあの日、エランを見送った時に死んでいたも同然よ」
セシリアは、兄ギルバートを数日前に看取っていました。彼の最期の言葉は、「妹よ、どうか本当の自由を……」という、悲しい祈りでした。
地下室の入り口から、激しい軍靴の音が近づいてきます。
セシリアは、覚悟を決めたように顔を上げました。
扉が勢いよく開かれ、煤と埃にまみれた兵士たちがなだれ込んできました。
その先頭に立つ男の姿を見た瞬間、セシリアの手から、血に濡れたメスが床に落ちました。
「……セシリア」
「エラン……?」
何百日もの夜、何千もの死線。そのすべてを越えて、二人の時間は、再び一つの場所で重なり合おうとしていました。そしてその背後には、複雑な表情で立ち尽くすカイルの姿もありました。
北の都の冷たい風が、地下室に吹き込みました。しかし、そこには確かに、長い冬の終わりを告げる、微かな春の気配が漂っていました。




