第五章:壊れた矜持と、かりそめの休息
第五章:壊れた矜持と、かりそめの休息
戦場に降り積もる雪は、生者の温もりを奪うだけでなく、軍人としての誇りや理性をもしばしば凍りつかせてしまいます。北の都への進軍を続ける第十中隊は、今、かつてない内部の亀裂に直面していました。
中隊の精神的支柱であったジャン中隊長が負傷により前線を離脱した後、指揮権は第一小隊長であるカイルへと移りました。名門の家柄に生まれ、陸軍士官学校を優秀な成績で卒業した彼にとって、中隊を率いることは当然の義務であり、また自身の名誉を回復する絶好の機会でもありました。
しかし、実戦は士官学校の教科書通りには進みません。カイルが立案する作戦は、形式こそ整っていましたが、極限状態にある兵士たちの疲労や、刻一刻と変わる現場の空気感を無視した「甘さ」が目立ちました。その結果、中隊は敵の伏兵に遭い、無意味な消耗戦を強いられることになります。
「中尉、このまま正面から押し進めば、我々は敵の十字砲火の餌食になります。一度退き、側面の廃墟に潜伏して夜襲をかけるべきです」
エランの進言は、常に現場の死線を見極めたものでした。しかし、焦燥に駆られたカイルはそれを聞き入れようとしません。
「黙れ、エラン少尉。指揮官は私だ。貴様は自分の小隊の統制だけを考えていればいい」
エランは悟りました。カイルの「誇り」を守るために、これ以上部下たちの命を捨てるわけにはいかないことを。彼はカイルの直接命令を公然と無視し、独断で第二小隊を動かしました。エランは自ら先頭に立ち、瓦礫の山を匍匐前進で進み、敵の機関銃座の死角を突いて手榴弾を投げ込みました。その鮮やかな一撃が口火となり、停滞していた戦況は一気に打破され、難攻不落と思われた敵陣地は陥落したのです。
戦闘終了後、カイルは激昂しました。
「エラン! 命令無視は軍法会議ものだ。貴様の独断がどれほど危険だったか分かっているのか!」
しかし、その場に現れた大隊長が告げたのは、カイルの期待とは正反対の通達でした。
「カイル中尉、貴様の慎重さは時には臆病と取られかねん。逆にエラン少尉の果敢な行動は、全軍の士気を大いに高めた。……ジャン中隊長の復帰まで、第十中隊の指揮はエランに任せる。エラン少尉、いや、本日付で君を大尉に昇進させ、第七中隊の中隊長に任命する」
カイルの顔から血の気が引きました。かつて下人と蔑み、手を鎌で突き刺した相手が、今や自分を飛び越えて上官となったのです。階級という絶対的な壁が、カイルのプライドを無慈悲に粉砕しました。
エランへの対抗心と、昇進への執着に目が眩んだカイルは、その後、さらに致命的な過ちを犯します。
ある村の制圧作戦中、カイルの第一小隊は数名の敵兵を捕虜にしました。その中の一人が、カイルに甘い言葉を囁きました。
「この先の谷を越えた場所に、A国軍の兵站基地がある。今なら守備は手薄だ。あんたの小隊だけで落とせるぜ」
これこそが、大戦果を挙げてエランに並び立ちたいというカイルの弱みに付け込んだ罠でした。慎重さを欠いたカイルは、本隊への連絡もなしに、疲弊した部下たちを連れて谷の深部へと足を踏み入れました。
そこを待っていたのは、基地ではなく、待ち伏せしていた敵の精鋭部隊でした。
「罠だ! 退却せよ!」
カイルの叫びは、響き渡る銃声にかき消されました。自分の虚栄心のために、長年共に戦ってきた多くの部下たちが、雪原にその鮮血を散らしていきました。カイル自身も負傷し、命からがら逃げ出した時には、第一小隊は事実上の壊滅状態に陥っていたのです。
「貴様は、軍人ではない。ただの殺人者だ」
救出に駆けつけたエランは、血まみれで震えるカイルに冷徹な銃口を向けました。撤収命令を無視し、私欲のために部下を見殺しにした罪。それは軍法会議にかけるまでもなく、万死に値するものでした。
エランは自分の愛銃をカイルの足元に放り投げました。
「指揮官としての責任を取れ。部下たちの元へ行くがいい」
カイルは、泥と涙にまみれながら、震える手でその銃を拾い上げました。エランへの憎しみ、自分への情けなさ、そして死への恐怖。彼は泣き叫びながら、銃口を自分のこめかみに当て、引き金を引きました。
「カチッ」
乾いた金属音だけが響きました。銃には、一発の弾丸も入っていませんでした。
エランは、絶望に打ちひしがれるカイルを冷たく見下ろしました。
「死んで逃げることすら、お前には許さない。地獄の中で、自分が犯した過ちを背負って生きろ。それが、お前が殺した兵士たちへの唯一の報いだ」
その瞬間、カイルの中で何かが完全に壊れました。エランには技術でも、度量でも、そして慈悲の深さですら敵わない。常に自分の一歩先を行くエランの存在が、カイルにとっては救いようのない呪いとなって、その身を苛み始めました。後日、カイルは「精神の著しい消耗」を理由に、後方部隊への転属願いを提出しました。それは、彼がエランとの勝負に完全に敗北したことを意味していました。
激戦続きで身も心もボロボロになった第10中隊を、エランは休息させることに決めました。彼が選んだ場所は、部下の一人であるジャックの故郷の村でした。
国境に近いその村は、幸いにも激しい戦火を逃れ、古き良き静けさを保っていました。村人たちは、英雄として帰還したジャックと、彼を率いるエランたちを温かく迎え入れました。
村の広場には焚き火が焚かれ、質素ながらも心のこもった食事が振る舞われました。兵士たちは久々に銃を置き、泥を洗い流し、普通の青年としての笑顔を取り戻していきました。
「中隊長、ありがとうございます。ここでなら、みんな明日を信じることができます」
ジャックの言葉に、エランは静かに頷きました。
しかし、焚き火の光を見つめるエランの心は、未だ晴れることはありませんでした。この村の平穏は、薄氷の上に成り立つ危ういものです。そして何より、北の都へ向かったセシリアが、今どこで、どのような思いで空を見上げているのか。
「セシリア……もう少しだ。もう少しで、君の元へ届く」
エランは、かつて彼女を描いたあの血に染まったスケッチをそっと取り出しました。火影に照らされた彼女の微笑みは、冷え切った彼の心を微かに温めました。
しかし、この宿営地での休息が、さらなる悲劇の前触れであることを、エランも、そして絶望の淵にいるカイルも、まだ知る由はありませんでした。夜の闇の向こうから、冷たい風が再び吹き始めようとしていました。




