第四章:氷河の進軍
第四章:氷河の進軍 ―凍てつく絆と血の渡河―
一九五三年、冬。
半島の背骨をなす峻烈な山脈は、慈悲なき北風によって白銀の死装束を纏っていました。
674高地。
地図の上ではインクの一点に過ぎないその場所は、戦う者たちにとっては天に突き刺さる巨大な墓標でした。空気は刃物のように鋭く、肺に吸い込むたびに内臓を削り取るような寒気が襲います。この極限の地で、第十中隊は歴史の歯車を回そうとしていました。
夜の闇の中、エラン率いる特攻隊は、垂直に切り立った絶壁を、文字通り「爪を立てて」登っていました。
かつてハルフォード家の納屋で、ギルバートによって鎌で貫かれたエランの右手。その古傷が、この極寒の地で牙を剥きます。寒さで神経は麻痺し、指先の感覚はとっくに失われていました。岩を掴むたび、凍りついた傷口が裂け、どろりとした鮮血が滲み出します。その血は岩肌に触れた瞬間に凍りつき、エランの体と山を分かちがたく繋ぎ止めていました。
(痛いのではない……。これは、俺が生きている証だ)
エランは歯を食いしばり、不自由な右指を岩の隙間にねじ込みました。背後には、彼の背中だけを信じて続く部下たちがいます。エランは声を出しませんでした。ただ、その傷だらけの背中で「生きろ」と語りかけ続け、一歩ずつ天へと近づいていきました。
その頃、麓の第十中隊本部には、司令部からの冷酷な無線連絡が入っていました。
「作戦変更。674高地の奪還は中止。中隊は直ちに南西方向へ転進し、本隊と合流せよ。繰り返す、高地は放棄せよ」
それは、すでに崖を登り始めたエランたちを見捨てるという「死刑宣告」に他なりませんでした。
「……ふざけるな」
通信機の受話器を握りしめ、拳を震わせたのはカイルでした。
彼は、自分が誰よりもエランを憎んでいると信じていました。下人の分際でセシリアの心を盗み、ハルフォード家の誇りを汚した男。しかし今、カイルの胸を焼いているのは、嫉妬や憎悪とは異なる、もっと泥臭く、純粋な感情でした。
「中隊長、エラン少尉は今、我々のために地獄の壁を這っています。彼を見捨てれば、第十中隊の魂は今日ここで死ぬことになります! 独断専行の罪は、この私がすべて被ります。私に……第一小隊に援護を命じてください!」
中隊長ジャンの瞳に、かつてのエリート然としたカイルにはなかった「人間」の光が宿るのが見えました。ジャンは短く頷き、全軍に高地への突撃を命じました。軍紀よりも、戦友の命を選んだ瞬間でした。
夜明け前、天を衝くような爆音と共に、敵陣後方の弾薬庫が火を噴きました。エランたちが成し遂げたのです。その爆炎を合図に、カイル率いる本隊が正面から一斉に攻め上がりました。火と鉄の挟み撃ち。A国軍の守備隊は混乱のうちに潰走し、朝日が昇る頃、六七四高地の頂には血と煤に汚れたB国の軍旗が翻りました。
この武勲により、エランは正式に第二小隊長へと任命されました。
下人から一兵卒、そして将校へ。その異例の出世は、彼がどれほどの死線を潜り抜けてきたかの証明であり、同時に、彼を蔑んでいた過去のすべてに対する無言の逆襲でもありました。
「エラン少尉、いや、エラン小隊長。君の執念がこの山を動かした。君こそが、この中隊の心臓だ」
ジャンの言葉に、エランは静かに敬礼しました。だが、彼の心はすでに、北の地平線の彼方へと飛んでいました。
「北進せよ」
軍司令部からの命令は簡潔でした。休戦交渉が決裂し、B国軍は一気に「北の都」を目指す総反撃に打って出ました。
進軍を続ける第10中隊の前に、行く手を阻む巨大な障害が現れました。国境付近を流れる、広大な大河です。冬の寒気で水面には厚い氷が浮き、その冷たさは触れるだけで命の火を消し飛ばすほどでした。
「このまま最短距離を強行突破すべきだ。時間をかければ敵に察知され、対岸の陣地から狙い撃ちにされる」
カイルは地図を指し、第一小隊を率いての渡河を主張しました。彼の中には、エリートとしての自負と、エランへの劣等感を払拭したいという焦燥が渦巻いていました。
一方、エランは対岸の不気味な静寂を注視していました。絵描きとしての観察眼は、風景の中の「違和感」を見逃しません。
「いや、水深が浅い中州を通り、大きく迂回すべきです。カイル、対岸のあの茂みを見てくれ。雪の積もり方が不自然だ。敵はあそこに重機関銃を据えている。正面から渡れば、中隊は全滅します」
二人の意見は真っ向から対立しました。ジャンは苦渋の選択の末、それぞれの小隊の判断に任せることにしました。
カイルの第一小隊は、暗闇に乗じて氷の川を渡り始めました。腰まで氷水に浸かり、歯をガチガチと鳴らしながら進む兵士たち。だが、彼らが川の中央、遮るもののない「死の空間」に達した瞬間、対岸から強烈な照明弾が打ち上げられました。
「伏せろ!」
カイルの叫びも虚しく、敵の機関銃が一斉に火を噴きました。氷水が赤い飛沫となって舞い上がり、第一小隊の兵士たちは次々と冷たい水底へと沈んでいきました。
「……今だ、撃て!」
その時、側面からエランの第二小隊が、敵の機関銃座に向けて猛烈な援護射撃を開始しました。エランは不自由な右手を銃床に固定し、左手で照準を合わせます。一発、また一発。執拗に敵の射手を葬っていくその姿は、冷徹な精密機械のようでした。
エランの的確な援護により、敵の火力が分散されました。その隙に、カイルは何とか生き残った部下を連れ、泥まみれになりながら対岸へと這い上がりました。
「……助かったぞ、エラン」
吐き捨てるように言ったカイルでしたが、その瞳には、もはや身分違いの男への蔑みはありませんでした。そこにあったのは、エランへの底知れぬ信頼と、共に地獄を渡る戦友としての絆でした。
しかし、惨劇はそれで終わりませんでした。
最後尾から兵を励まし、渡河を指揮していたジャン中隊長が、敵の狙撃兵に狙われました。
「中隊長!」
カイルの叫びと共に、ジャンの肩に弾丸が食い込みました。彼は氷の浮いた川へと崩れ落ち、水面を赤く染めました。カイルは理性を失ったかのように川へ飛び込み、ジャンを抱え上げましたが、瀕死の重傷を負った恩師の姿に、カイルの軍人としての冷静さは完全に崩壊しました。
その頃、第10中隊が血を流して目指していた「北の都」の地下。
そこには、戦火の喧騒とは切り離された、別の地獄がありました。
セシリアは、A国軍の管理下に置かれた急設病院で、休むことなくメスを握っていました。
地下室に漂うのは、薬品の匂いと、腐敗した肉の臭い。そして、死を待つ者たちの絶え間ない呻き声です。
「先生、もう休んでください。二十四時間、一度も座っていない。これでは先生が倒れてしまいます」
看護師として付き添う妹の制止も、今のセシリアには届きませんでした。
彼女は知っていたのです。兄ギルバートの病状は、もはや医学の限界を超えていることを。そして、自分が北へ逃げたことで、エランを再び絶望の淵に突き落としたであろうことを。
(エラン、あなたが生きていると信じている。あなたが銃を持って戦っているなら、私はここで命を救い続ける。それが、あなたへのせめてもの償いだから)
セシリアが治療しているのは、B国軍に重傷を負わされたA国軍の兵士たちでした。もしB国軍がこの街を占領すれば、彼女は「敵国への協力者」として、あるいは「スパイ」として断罪されるかもしれません。だが、彼女の瞳に迷いはありませんでした。
彼女にとっての聖域は、国境という線の上にあるのではなく、目の前にある「消えゆく命」の中にしかなかったのです。
彼女は、血に染まったスケッチを、時折懐から取り出しては見つめていました。
エランが描いた、穏やかな光の中の自分の肖像。
それは、どんな宗教の経典よりも強く、彼女の魂を支えていました。
ジャンの負傷により、実質的な指揮権はエランとカイルの二人に委ねられました。
カイルはジャンの血で汚れた手を震わせ、呆然としていました。そんな彼の肩を掴み、現実へと引き戻したのはエランでした。
「カイル、中隊長を救いたいなら、嘆いている暇はない。一刻も早くこの街を落とし、万全な設備のある病院を確保するんだ。俺たちが止まれば、中隊長は死ぬ。いいな」
カイルは、エランの瞳の奥にある「揺るぎない覚悟」を見ました。
「……ああ。分かった。行こう、エラン。お前の言う通りだ」
二人の男は、かつては対極にいたはずの二人は、一人の女性を愛し、一人の恩師を救うため、そして自分たちの誇りを懸けて、北の都の市街地へと突入を開始しました。
崩れゆくビルの陰、飛び交う曳光弾、そして絶え間ない爆圧。
エランの右手は、寒さで再び痛み始めていました。しかし、彼はその痛みさえも愛おしく感じていました。この痛みが、この傷が、自分をセシリアへと導く唯一の糸であることを確信していたからです。
市街戦の硝煙の向こう側。白十字の旗が掲げられた地下病院で、セシリアが再びメスを握ったその時。
運命の糸は、数多の死体を乗り越え、ついに一箇所へと収束しようとしていました。
「全軍、突撃!」
エランの叫びが、北の都の冬空に響き渡りました。
それは、十四年の悲劇を終わらせるための、最後で最大の戦いの合図でした。




