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境界の肖像 ―紅き指先と凍てつく再会―  作者: 水前寺鯉太郎


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第三章:境界の肖像 ―断絶の北風と高地の火花―

第三章:境界の肖像 ―断絶の北風と高地の火花―

一九五三年、晩秋。

半島の背骨を貫く山脈は、降り続く冷たい雨と、数百万発もの砲弾が掘り返した土によって、底なしの泥濘でいねいと化していました。木々は燃え尽きて黒い残骸となり、空は硝煙に覆われて昼なお暗い。戦況は、もはやどちらが正義かという問いを置き去りにし、ただ若者たちの肉体を磨り潰し、大地を鮮血で塗り固めていくだけの、空虚で残酷な消耗戦へと成り果てていました。


そんな地獄の底のような最前線で、兵士たちの間に一つの「神話」が囁かれていました。死地から幾度も生還し、死神に魅入られた男――「亡霊少尉」こと、エラン・ベルの活躍です。

かつてハルフォード家の下人として蔑まれ、鎌で右手を貫かれたあの青年は、いまやその面影を鋭い殺気の下に隠していました。中隊長ジャンの推薦により、戦功を重ねて異例の速さで昇進した彼は、今や部下たちを凍りつかせるほど冷徹な指揮官へと変貌を遂げていたのです。

「いいか、戦場で信じられるのは隣の戦友ではない。己の肉体に叩き込んだ訓練の記憶だけだ。感情を捨てろ。弾丸を数えろ。そうしなければ、貴様らの母親は、名前の書かれただけの木の札を抱くことになる」

補充教育隊の教官として、エランは新兵たちを容赦なく追い込みます。その厳しさは、周囲からは「血も涙もない男」と映りましたが、それは彼自身の切実な願いの裏返しでもありました。

(死なせるわけにはいかない。一人でも多く、生きてこの地獄を抜けさせなければならない)

彼自身、生き永らえてきた理由はただ一つ。セシリアに再会すること。その目的のためだけに、彼は感覚の麻痺した右指を添え、左手で銃を握り、泥水をすすってきました。寒風が吹くたび、右手の古傷はナイフで抉られるように鋭く疼きます。しかし、その激痛こそが彼にとっての道標でした。それは、彼女を奪おうとした過去への怒りであり、再会という「肖像画」を完成させるための執念を燃やす、消えない種火だったのです。


一方、後方の軍司令部。

かつて「B国の英雄」と謳われ、その端正な容姿と冷徹な知性でエリート街道を突き進んでいたカイル・ハルフォードは、暗い部屋で一人、酒に溺れながら独白を繰り返していました。

橋の爆破に失敗し、多くの仲間を無意味な死へと追いやり、何より最愛の女性であるセシリアを「スパイ」と疑い、追い詰めた事実。彼の精神は、プライドと罪悪感の板挟みによって、すでに限界に達していました。鏡に映る自分の顔は、かつての輝きを失い、復讐心という名の病に冒された別人のように見えました。

そんな彼に下された新たな任務は、南の要衝へ赴き、前線から送られてくる「有能な新任少尉」を迎え、作戦会議に帯同させることでした。

「裏切り者には、必ず報いを受けさせる……セシリア、君を唆したあの男を、私は許さない」

カイルは、セシリアへの歪んだ愛憎を、まだ見ぬ「新任少尉」という軍務に投影するように、幽霊のような足取りで避難民がひしめく南の街へと向かいました。

釜山の再会、波止場の悲劇

そこは、戦火を逃れてきた何十万もの人々がひしめき合う、喧騒と悪臭に満ちた港町・釜山プサンでした。

エランは、作戦会議までのわずかな隙間を利用し、街の雑踏を彷徨っていました。そこで彼は、信じられない奇跡に遭遇します。

「……エランさん? エランさんなのね!」

声を上げたのは、ハルフォード家の屋敷でセシリアの世話をしていた、彼女の妹でした。泥にまみれ、飢えと疲労でやつれた彼女は、エランの胸に泣き崩れながら衝撃の事実を告げました。セシリアはあの日、死を覚悟して避難の列に加わり、今は港近くの粗末なテント診療所で、無給の医師として働いているというのです。

「お姉様は、毎日、あの血に染まった古いスケッチを見つめて……あなたの名を呼んでいるわ。死んだと聞かされても、ずっと信じているの」

エランの、氷のように凍りついていた心臓が、激しい熱を帯びて脈打ち始めました。彼女は生きている。この海風の届く距離に。

だが、運命は冷酷でした。同じ頃、カイルもまた雑踏の中に「彼女の幻影」を見出していたのです。

「セシリア! 待て、逃がさないぞ!」

狂気に駆られたカイルが、避難民を突き飛ばし、銃に手をかけながら群衆をかき分けます。しかし、折しも通りかかった軍用車両の列が彼の視界を遮りました。彼が血眼になって角を曲がったとき、そこにはもう、彼女の影も形もありませんでした。地面には、彼女が落としたと思われる、古びた救急箱の破片が虚しく転がっているだけでした。


司令部のロビーで、二人の男がついに対峙しました。

「第10中隊より配属されました、エラン・ベル少尉です」

カイルの前に立ち、完璧な、そして侮蔑を含んだ敬礼を捧げる男。その顔を間近に見た瞬間、カイルの全身に戦慄が走りました。

「……貴様、なぜ生きている。あの鎌で、君の人生は終わらせたはずだ」

「死神に嫌われましてな、中尉。あるいは、貴様の顔を地獄に突き落とすために、舞い戻ったのかもしれません」

カイルは逆流する怒りを抑えきれず、その場でエランの胸ぐらを掴み上げました。しかし、エランの瞳には、かつての怯えなど微塵もありませんでした。そこにあるのは、無数の死を乗り越えてきた者だけが持つ、深淵のような暗い光です。今や二人の立場は、階級の差こそあれ、同じ「戦場を生き延びた獣」でした。


エランは、その後の短い休暇を半ば強引に勝ち取り、釜山の診療所へと駆けつけました。

潮の香りと消毒液、そして死の臭いが混ざり合う小さなテントの中で、二人は十四年の時を超え、本当の意味での再会を果たしました。

「エラン……夢じゃないのね。あなたの右手の傷、私が治せなかったこの傷が、私に教えてくれる」

「ああ、セシリア。もうどこへも行かせない。世界が滅びても、俺が君を離さない」

二人は固く抱き合いました。かつて将来を誓った国境の村とは何もかもが変わってしまいましたが、互いを求める体温だけは、あの冬の夜と同じでした。

しかし、その安らぎの影で、悲劇は音もなく忍び寄っていました。

セシリアと共に避難してきた兄、ギルバート。彼は重い肺病に冒され、死の淵に立たされていました。さらに彼は、避難生活の困窮の中で「平等な世界」という甘い言葉に誘われ、A国の工作員と接触を持っていました。B国の憲兵隊に知られれば、一族郎党が処刑される重罪です。セシリアは医師として、そして何より妹として、自分を傷つけた兄であっても、死に行く肉親を見捨てることができませんでした。

「エランを、私の地獄に巻き込むわけにはいかない。彼はようやく、軍人としての地位と未来を掴みかけているのに」

セシリアは、壮絶な決断を下しました。エランが数日間の激務で深い眠りに落ちている隙に、妹と、瀕死の兄を連れ、闇夜の港から「北の都」へと向かう密航船に乗り込んだのです。北の都へ行けば、兄を救うための特効薬と、ハルフォード家の隠し資産がある。

夜明けの黒い海を見つめるセシリアの瞳には、愛する男を再び裏切るという、身を切るような苦しみと、家族を守るという悲壮な覚悟が宿っていました。


翌朝、エランが目を覚ましたとき、診療所には冷たい海風が吹き抜けるだけでした。

「セシリア! セシリアッ!」

彼女の名を呼び、港へと走ろうとしたエランでしたが、運命の時計は非情にも進んでいました。軍人としての「帰営時刻」を過ぎ、無断離隊の疑いがかかった彼は、待ち構えていたカイルの息のかかった憲兵によって拘束されました。

「敵前脱営罪」。戦時下において最も重い罪が、彼に突きつけられたのです。

独房に放り込まれたエランを、カイルが勝利者の冷笑を浮かべて訪ねてきました。

「哀れなものだな、ベル少尉。貴様が命がけで守ろうとした女は、北へ逃げた。共産主義者の兄を連れてな。貴様はここで、彼女の身代わりとして銃殺されるのを待つだけだ。これこそが、下人の分際で主人の妹に手を出した報いだ」

しかし、エランはカイルの言葉に反応しませんでした。彼の耳には、独房の近くに置かれた軍用無線から流れる、絶望的な報告だけが届いていました。

「……674高地、陥落寸前。第十中隊は孤立。ジャン中隊長以下、生存者わずか……全滅は時間の問題」

そこは、彼を息子のように慈しんでくれたジャンが守る最終防衛線。そこが破られれば、避難民で溢れる南部は蹂鳴に晒され、北へ向かったセシリアの命さえも危険にさらされます。

エランは、面会に来たジャンの副官に、血を吐くような思いで訴え出ました。

「俺に、死なせてくれと言っているんじゃない。俺をあの絶壁へ送れ。敵の重砲台が置かれた背後から、垂直の絶壁を登って弾薬庫を叩く。俺の右手の傷は、岩の割れ目に指をかけるためにある。俺にしかできない作戦だ。死刑になる前に、一度だけ俺を解き放て!」

ジャンは、エランの瞳に宿る、絶望を通り越した凄まじい「光」に賭けることにしました。脱営の罪を「特攻任務への従事」という極秘の密約に書き換え、彼を雪の戦地へと解き放ちました。


674高地は、降り積もる新雪を赤く染めるほどの激戦区となっていました。エランは一人、重い爆薬を背負い、誰もが登坂不可能だと信じていた垂直に近い絶壁に指をかけました。

寒さで指の感覚は消え、かつて鎌で貫かれた右手の傷口が割れて鮮血が吹き出しました。岩肌に血が凍りつき、指が剥がれるたびに身を切る激痛が走ります。しかし、その痛みこそが、彼が生きている証でした。

「待っていろ、セシリア。この戦いを終わらせて、北だろうが地獄だろうが、君を迎えに行く。俺の描く肖像画には、まだ君の笑顔が足りないんだ」

背後からは、命令を無視して彼を仕留めようと追撃してきたカイルが放つ、執拗な銃声が響きます。前方からは、A国軍の重機関銃が夜空を焦がします。

男は一人、血の凍る絶壁を登り続ける。その手には、もはや筆はありません。ただ一振りの銃と、冷たい岩肌を掴む傷だらけの指先、そして、一通の、届かぬはずの想いだけを抱えて。

断絶の北風が、エランの咆哮をかき消すように吹き荒れていました。



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