第二章:防衛線の孤影
第二章:防衛線の孤影 ―泥濘に咲く火花―
一九五三年九月。秋の訪れを告げるはずの爽やかな風は、鉄錆と焼けた肉、そして硝煙の混じり合った重苦しい死の臭いに取って代わられていました。国境の村は、もはや牧歌的な風景の欠片も留めておらず、A国軍が放つ無数の砲弾によって耕された、不毛な火の海へと沈もうとしていました。
地平線の彼方から響いてくるのは、心臓を直接握りつぶされるような不気味な地鳴り。A国軍が誇る最新鋭の戦車部隊が、砂塵を巻き上げながら進軍を開始していました。
対するB国軍第十中隊は、壊滅の淵に立たされていました。近代的な装甲と火力を備えた敵に対し、彼らが持つのは数世代前の旧式な対戦車砲と、使い古された小銃、そして極限の疲労に蝕まれた兵士たちの肉体だけでした。防衛線はあまりにも薄く、鋼鉄の巨獣を前にした紙細工のように無力に見えました。
「もう終わりだ……。あんな化け物、どうやって止めろと言うんだ!」
泥だらけの塹壕の中で、若き兵士が叫びました。誰もが死を覚悟し、絶望が霧のように部隊を包み込んだその時、一人の男が軍靴の音を響かせて現れました。それは、軍籍に名のないはずの「死者」、エラン・ベルでした。
エランは、かつてハルフォード家の下人としてこの土地を隅々まで歩き、その骨格を知り尽くしていました。どの土が雨に弱く、どの水路が地下で繋がっているか。彼にとっては、この大地そのものが一枚の巨大なキャンバスであり、その特質を誰よりも深く理解していたのです。
「中隊長、戦車を正面から迎え撃つ必要はありません。戦うべき相手は鋼鉄ではなく、この『土地』です」
エランは中隊長ジャンの前に立ち、掠れた声で、しかし確信に満ちた口調で進言しました。
「あの『ヘーゼル湿地』の東側に、古い灌漑用の水路が隠れています。今は草に覆われて見えませんが、あそこの地盤は見た目以上に緩い。重量のある戦車をあそこへ誘い込めば、鉄の塊は身動きの取れない泥の棺桶になります」
ジャンは、このボロボロの衣服を纏い、瞳に亡霊のような光を宿した男を注視しました。最初は半信半疑でしたが、エランが描き出した詳細な地形図――それは、右手の不自由さを補うように左手で力強く描かれた「死の設計図」でした――を見て、賭けに出ることを決意しました。
エランの言葉通り、第十中隊は囮となって敵を湿地帯へと誘導しました。轟音を立てて突っ込んできた敵戦車隊は、次々と底なしの泥濘に足を取られ、その自重で沈んでいきました。機動力を奪われた巨獣たちは、もはやただの動かない標的です。B国軍の旧式砲が火を噴き、炎上の赤が夕闇を染め上げました。
この異例の勝利により、中隊長ジャンはエランの類まれなる戦略眼と土地勘を認め、彼を「特別助力者」という異例の肩書きで、作戦の中枢へと招き入れました。筆を奪われたかつての絵描きは、今や「戦争」という名の巨大で残酷な芸術の演出家となっていたのです。
しかし、勝利の女神が与える慈悲はあまりにも短く、代償は残酷なものでした。戦火が街の深部まで侵食する中、エランは再び、手を取り合ったばかりのセシリアを逃がさねばなりませんでした。
「エラン、あなたも一緒に! もう十分よ、これ以上死なないで!」
避難民の喧騒の中、セシリアはエランのボロボロの軍服を掴んで泣き叫びました。しかし、エランはその細い手を、震える右手で優しく、しかし断固として解きました。
「俺はまだ、ここで食い止めなきゃならないものがあるんだ。中隊が持ち堪えれば、南へ続くこの道が閉ざされずに済む。そうすれば、君たちが安全な場所へ辿り着くための時間を稼げるんだ」
エランの瞳には、愛する人を守りたいという純粋な願いと、自分のような「死者」が戦場に残ることで生者に未来を託そうとする、悲痛な覚悟が混濁していました。
セシリアは、砲撃の破片を足に受け、苦悶の表情を浮かべる兄・ギルバートを古びた自転車の荷台に乗せ、涙を飲んで漕ぎ出しました。彼女の背後で、再び激しい砲撃の音が響きます。十四年の歳月を隔ててようやく触れ合えた二人の指先は、またしても運命という名の巨大な奔流によって、無慈悲に引き離されてしまったのです。
セシリアが避難の列に消えていくのを見送ったエランの横顔には、かつて庭園で写生をしていた頃の穏やかさは微塵もありませんでした。彼は冷徹な指揮官の顔を仮面のように被り、泥濘と化した戦場へと戻っていきました。
戦局は悪化の一途を辿りました。A国軍は湿地帯での失態を挽回すべく、さらに大規模な増援を投入してきました。第十中隊が死守を命じられた「ヘーゼル峠」は、B国南部へと続く街道を見下ろす要衝であり、ここが陥落すれば、後方に広がる肥沃な平原と数万の避難民は、文字通り敵の蹂躙に晒されることになります。
「ここが最終防衛線だ。一歩も引くな!」
ジャンの叫びも、連日の激闘で半数以上の兵士を失った部隊には空虚に響きました。弾薬は底を突き、兵士たちは飢えと不眠で幽霊のように彷徨っていました。補充兵の目処も立たない中、司令部から届いた命令受領書には、血も涙もない文字が並んでいました。
『兵員不足を補うため、付近の避難施設および民間人の中から、十五歳から五十歳までの動ける男子をことごとく強制徴兵せよ。拒否する者は即座に利敵罪として処断せよ』
エランはその命令書を読み、拳を握りしめました。それは、自分が命を懸けて救おうとした村の若者たち、かつて共に畑を耕し、平和な時間を過ごした友人や隣人たちを、まともな訓練も与えず、ただの「肉の壁」として銃を持たせることを意味していました。
「俺が救おうとした命が……俺の隣で、俺の作戦のために死んでいくのか」
エランの心は、鎌で刺されたあの日の痛み以上に激しく疼きました。彼は自分が、セシリアの愛した「心優しい絵描き」から、死を量産する「軍事機械」へと変貌していく恐怖に苛まれました。しかし、戦場には感傷に浸る余白などありませんでした。
一方、撤退戦の混乱の中でセシリアへの執着を、歪んだ憎悪へと昇華させたカイル中尉は、後方支援部隊の再編を管轄する立場にありました。彼は、橋の爆破に失敗し、ハルフォード家の機密地図を持っていたセシリアが、敵と通じているという疑念を捨てきれずにいました。
そして、彼は知ったのです。セシリアを助け、第十中隊に奇跡的な勝利をもたらした「助力者」の正体を。
「エラン・ベル……。生きていたのか、あの下人が。あの日、ハルフォードの誇りを汚し、今また私の前に立ちはだかるというのか」
カイルは、司令部から届いた「民間人徴兵」の権限を最大限に利用することを思いつきました。彼は冷酷な笑みを浮かべ、徴兵リストの中に、セシリアがかつて守ろうとした村の少年たち、そしてハルフォード家に関係のあった使用人たちの名前を書き加えていきました。
「エラン。君がどれほど有能な戦略家であっても、自分の指示一つで、守りたかった者が目の前で塵のように消えていく絶望には勝てまい。君のその不自由な右手で、今度は誰の命を塗りつぶすつもりだ?」
カイルの罠は、音もなくエランを追い詰めようとしていました。ヘーゼル峠の向こう側に広がる空は、かつて二人が夢見た海の青さではなく、すべてを焼き尽くす不吉な茜色に染まっていました。
防衛線の孤影の中で、エランは冷たい小銃を握り直しました。彼が守ろうとしているのは、祖国という大きな言葉ではなく、ただ一人、この戦火の向こう側で生きているはずの女性の、その微かな鼓動だけでした。




