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境界の肖像 ―紅き指先と凍てつく再会―  作者: 水前寺鯉太郎


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最終章2:色彩の余白 ―戦後という名のキャンバス―

最終章2:色彩の余白 ―戦後という名のキャンバス―

一九五四年から始まった「休戦」という名の凍りついた時間は、半世紀以上の月日をかけて、緩やかに、しかし確実に人々の肉体を変質させていきました。かつて硝煙の中で叫び、泥を啜りながら明日を求めた若者たちも、いまや歴史の語り部となり、あるいは沈黙のうちに土へと還っていきました。

しかし、記憶というものは、時として肉体よりも強靭な生命力を持つものです。特に、あの「第十中隊」と呼ばれた、死地を共にした男たちの物語は、残された者たちの人生の中に、消えない「余白」として刻み込まれていました。

第一章:ジャックとジョンギの「戦後」

一九六〇年代後半、高度経済成長に沸くB国の首都。

活気溢れる市場の一角に、小さな、しかし頑丈な造りの家具工房がありました。その工房の看板には、控えめに「第十の椅子」と記されていました。

「おい、ジョンギ! その脚の削りが甘いぞ。中隊長が見たら、また描き直しだって言われるぞ!」

声を張り上げたのは、白髪が混じり始めたジャックでした。彼は戦後、故郷の村に戻り、エランが守ったあの土地を耕し続けましたが、やがて「物を作ることで誰かを支えたい」という想いに駆られ、都会に出て工房を構えたのです。

「分かってるよ、ジャック。この右足が義足になってから、どうも踏ん張りがきかなくてね。でも、中隊長に誓ったんだ。俺が彼の『杖』になるってな」

ジョンギは、かつてエランが聖誕祭の夜に約束してくれた言葉を、一瞬たりとも忘れたことはありませんでした。彼は義足を軋ませながら、精巧な椅子の脚を磨き上げました。

彼らの工房には、ある「決まりごと」がありました。

売るための家具とは別に、年に一度、三月になると、誰も座らせないための「最高級の椅子」を三脚だけ作るのです。一脚は、若くして散ったヨンミンやテホ、そして多くの戦友たちのために。もう一脚は、自分たちの魂の拠り所であった中隊長のために。そして最後の一脚は、彼らが愛した「自由」という名の、目に見えない誰かのために。

「なあ、ジャック。中隊長は、今頃あっち側で何を描いてるんだろうな」

「決まってるさ。俺たちのこの騒がしい工房を、少し呆れたような顔でスケッチしてるはずだよ」

二人は、窓の外に広がる高層ビルを見つめました。かつて廃墟だった街は美しく生まれ変わりましたが、彼らにとっての「本当の街」は、今もあの霧深い谷や、石造りの橋の向こう側にありました。

第二章:カイル・ハルフォードの遺言

一九八〇年代。カイル・ハルフォードは、B国政財界の重鎮として、その名を知られていました。しかし、彼の邸宅の書斎には、勲章や名誉ある賞状よりも大切に飾られているものがありました。それは、汚れ、端が焦げた一通の「転役申請書」の切れ端です。

カイルは、肺を病んでいました。戦場での毒ガスや寒気が、数十年を経て彼の命を蝕んでいたのです。病床に伏せる彼を訪ねたのは、既に初老の域に達していたセシリアでした。

「カイル、無理をしないで。横になっていて」

「……いや、セシリア。君が来ると、不思議と背筋が伸びるんだ。ハルフォード家の人間として、最後まで無様に寝込んでいるわけにはいかないからね」

カイルは、掠れた声で笑いました。彼は生涯、独身を貫きました。ヤン大尉との淡い交流もありましたが、彼の心の中には、常にエランという「光」と、セシリアという「祈り」が同居しており、他の誰かを迎え入れる余地がなかったのです。

「セシリア……私が死んだら、私の遺骨の半分はハルフォード家の墓へ。そしてもう半分は……あの川に、流してくれないか」

「カイル……」

「エランが、あっち側で一人で待っている。あいつは絵描きだからな、退屈しているはずだ。私が行って、あいつの絵に文句をつけてやらなきゃならん」

カイルは、震える手でセシリアの手を握りました。

「君を愛していた。……だが、君をエランから奪わなかったことを、私は人生で唯一の誇りに思っている。セシリア、君は私の希望だった」

その数日後、カイル・ハルフォードは静かに息を引き取りました。

彼の葬儀には、元第十中隊の生き残りたちが、老いた体に昔の軍服を纏って参列しました。彼らは、かつて自分たちを死地へ送り、そして救い出した複雑な英雄に対し、沈黙の敬礼を捧げました。

カイルの遺言通り、彼の遺骨の一部は、あの国境の川へと撒かれました。水面に溶けゆく白い粉は、境界線を越えて北へと流れていきました。それは、数十年かけてようやく果たされた、親友への「再会」の挨拶でした。

第三章:スジンの歩みと、希望の種

あの日、橋の上でエランに救い出された少女、スジン。

彼女は、セシリアの背中を追うようにして医師の道を志しました。

「私は、エランさんが命を懸けて繋いでくれたこの命を、誰かのために使いたいんです」

スジンは、国境近くの無料診療所で働きながら、南北の分断によって傷ついた人々の心のケアを専門としました。彼女の診療所の壁には、一枚の絵が飾られていました。それは、エランが最期に彼女に手渡した、あの「春の肖像」の模写でした。

二〇〇〇年代初頭、スジンは南北共同の医療支援チームの一員として、初めて北の地を踏む機会を得ました。

彼女が向かったのは、エランが最期まで住んでいたというあの山あいの村。

「……ここなのね。エランさんが見ていた景色は」

スジンは、村の古い学校の壁に残されていた、色褪せた壁画を見つけました。何十年もの雨風に晒されながらも、そこには力強い筆致で「笑顔の人々」が描かれていました。

村の老人が、スジンに語りかけました。

「あの絵描きさんは、最期までこの壁に向かっていたよ。右手がなかったが、左手で、まるで見えない誰かと会話しているように楽しそうに描いていた。『もうすぐ、春が来る。橋を渡って、みんなが帰ってくる』ってね」

スジンは、その壁画の前に、セシリアから預かってきた一輪の押し花を置きました。

「エランさん、スジンです。私は、あなたの分まで、たくさんの命を救っていますよ」

壁画の中に描かれた若き日のエラン(のような人物)が、スジンに向かって微笑んでいるように見えました。

第四章:セシリアの最後の日記

二〇一〇年代。九十歳を超えたセシリアは、静かな療養施設でその余生を過ごしていました。彼女の記憶は、時折、現実と過去を混同するようになりましたが、エランのことだけは、昨日のことのように鮮明に覚えていました。

彼女は、毎日日記をつけていました。それは、いつか空の上でエランに読み聞かせるための、長い「報告書」でした。

『エランへ。

今日、ジャックとジョンギが会いに来てくれました。二人とも、すっかりお爺さんになって、昔の武勇伝ばかり話していましたよ。あなたが陣内爆撃を命じたあの夜、本当はみんな、あなたと一緒に死んでもいいと思っていたんですって。あなたがどれだけ自分を責めていたか、彼らは最初から知っていたのね。

カイルも、今頃あなたの隣で文句を言っているかしら? 彼は最期まで、あなたの最高のライバルでした。

最近、窓の外の景色が、あの村の春の空に似てきました。

私の肖像画、まだ描いてくれていますか?

私は、あの日よりも少し皺が増えて、髪も真っ白になってしまったけれど。

でも、あなたの心の中にある私は、きっとあの日のままなのよね』

ある晴れた午後。セシリアは、陽だまりの中でうたた寝を始めました。

彼女の夢の中に、若き日のエランが現れました。

軍服ではなく、汚れのない白いシャツを着て、キャンバスを抱えた彼が。

「セシリア。お待たせ。……さあ、続きを描こう」

エランは、かつて鎌で突かれたあの不自由な右手を、優しく差し出しました。その手は、傷一つなく、光に満ち溢れていました。

セシリアは、少女のような足取りで彼に駆け寄り、その手を取りました。

「ええ、エラン。……どこまでも、一緒よ」

二人の影は、境界線のない、光溢れる草原へと消えていきました。

第五章:境界の向こう側 ―未来へ繋ぐ色彩―

現代。

あの国境の川には、新しい展望台が建設され、観光客たちが訪れるようになりました。

望遠鏡を覗けば、そこにはまだ、厳しい監視哨と有刺鉄線が見えます。

しかし、その展望台の麓にある小さな公園には、一組のブロンズ像が建っています。

一人は、キャンバスを前に筆を握る青年。

一人は、救急箱を抱えて微笑む女性。

そしてもう一人は、遠くを見つめて敬礼を捧げる軍人。

その像の台座には、特定の名前は刻まれていません。ただ、こう記されています。

『愛は境界を越え、記憶は未来を彩る。

かつてこの地で生きたすべての人々の魂に、不滅の春を。』

エラン・ベルが描き残した「肖像画」は、形としては失われたかもしれません。しかし、彼が部下たちに与えた「生」という名の色彩、カイルに与えた「誇り」という名の色彩、そしてセシリアに与えた「希望」という名の色彩は、彼らの子孫や、彼らの物語を聴いた人々の心の中で、今も鮮やかに脈打っています。

戦争という巨大な闇は、すべてを黒く塗りつぶそうとしました。

けれど、一人の絵描きの執念が、一人の医師の献身が、そして一人の軍人の覚悟が、その闇の中に「白」という余白を作り出し、そこに新しい物語を書き込むことを許したのです。

川の流れは止まりません。

いつか、あの有刺鉄線が錆び落ち、橋が単なる「道」に戻るその日まで。

エランたちが愛したこの空は、今日も変わらず、南北を等しく包み込み、色彩に満ちた夕焼けを映し出しています。

境界線の向こう側から聞こえるのは、銃声ではなく、子供たちの笑い声であってほしい。

それが、第十中隊の、そしてエラン・ベルが最後にキャンバスに込めた、たった一つの、しかし最も美しい遺言なのです。


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