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境界の肖像 ―紅き指先と凍てつく再会―  作者: 水前寺鯉太郎


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最終章:静寂の境界線 ―春を待つ肖像―

最終章:静寂の境界線 ―春を待つ肖像―

一九五四年、七月二十七日。

板門店パンムンジョムの簡素な木造建築の中で、ペンが走る音だけが響いていました。三年間にわたり、何百万という命を飲み込み、半島を焦土と化した巨大な火の嵐が、数枚の書類への署名によって、形の上での「休戦」を迎えました。

それは勝利の宣言ではなく、ただ「殺し合いを一時的に止める」という、苦渋に満ちた静寂の合意でした。そしてその瞬間、北緯三十八度線付近には、目に見えない巨大な壁――軍事境界線が、人々の心と土地を二つに引き裂くようにして固定されたのです。

第一章:瓦礫の中の足跡

休戦が発効してから数日が過ぎた頃、かつて「第十中隊」と呼ばれた部隊の生き残りたちは、故郷の村の川辺に立っていました。

あの運命の橋は、エランの命を賭した爆破によって粉々に砕け散り、今は冷たい濁流の底にその残骸を沈めています。村の北側はD国軍の支配地域となり、南側はB国軍が守る。川の一本隔てた向こう側は、もはや「異国」となってしまいました。

カイルは、泥にまみれた軍服の袖で汗を拭い、対岸を見つめていました。彼の隣には、あの日エランによって救い出されたセシリアが、幽霊のような足取りで立っていました。

「……信じられないな。昨日まで、あんなに激しく鳴り響いていた砲声が、嘘のように聞こえない」

カイルの声は、どこか虚ろでした。彼は、エランが消えた北側の岸辺を何度も、何度も双眼鏡で覗きました。しかし、そこには崩れた土手と、風に揺れる名もなき草花があるだけでした。

セシリアは、エランが最後に押し付けていった「未完の肖像画」を、胸の前に固く抱きしめていました。彼女の瞳からは、もう涙は出ませんでした。あの日、橋が落ちた瞬間に、彼女の心の一部もまた、永遠に砕け散ってしまったのかもしれません。

「カイル……エランは、あそこにいるのね。あっち側に」

「……ああ。彼は、私たちを逃がすために、自ら境界の向こう側を選んだんだ。彼らしいと言えば、あまりにも彼らしい最期だった」

二人は、音のない川のせせらぎを聞きながら、そこにいない一人の男の不在を、痛いほどに感じていました。

第二章:戦後の肖像 ―カイルの贖罪―

戦争が終わっても、カイルの戦いは終わっていませんでした。

彼は軍に残り、エランが命を懸けて守った「第十中隊」の再編に尽力しました。かつてのエリート意識は影を潜め、彼は兵士たちの遺族を訪ね歩き、負傷したジョンギのような者たちの生活を支えるための財団を、自らの私財を投じて設立しました。

カイルは、定期的にセシリアが運営する新しい診療所を訪れました。

「セシリア。今日も薬と包帯を持ってきた。エランの代わりに、君を支えること。それが、私に残された唯一の生きる意味なんだ」

カイルは、セシリアへの愛を口にすることはありませんでした。それは、エランという巨大な親友との、無言の約束のようなものでした。彼は、セシリアの側にありながら、常にエランという「境界線」を守り続ける、孤独な門番のような生き方を選んだのです。

ある日、カイルはセシリアに一通の封筒を渡しました。

「これは、軍の機密扱いで保管されていた、エランの個人記録だ。……あの爆破の後、北側の捕虜収容所で『右手の不自由な絵描きの兵士』が目撃されたという未確認の報告があった」

セシリアの手が、激しく震えました。

「生きて……生きているかもしれないの?」

「期待はさせたくない。だが、セシリア……彼は、どんな地獄でも描き続ける男だ。君を描き終えるまでは、死神さえも彼を連れて行くことはできないだろう」

その言葉が、セシリアにとっての「戦後」という長い冬に灯された、唯一の希望の火となりました。

第三章:不自由な筆跡

一方、北側の深い山間にある、名もなき村。

そこには、記憶を失い、言葉を捨てた一人の男が住んでいました。

男の右腕は肘から先がなく、左手だけで、村の子供たちのために地面に絵を描いていました。

村人たちは、彼を「南から来た亡霊」と呼びましたが、その穏やかな微笑みと、左手だけで描き出される美しい花々の絵に、誰もが心を癒されていました。

男は、自分が誰であるか、なぜこの村にいるのかを知りませんでした。ただ、時折、南の方角から吹いてくる風に混じる、消毒液の匂いや、潮の香りに、胸の奥が締め付けられるような痛みを感じるだけでした。

彼は、毎日、村の端にある川岸へ行き、対岸を見つめました。

そこには、崩れた橋の跡がありました。

彼は、左手で拾い上げた平らな石に、毎日同じものを描きました。

それは、一人の美しい女性の横顔。

彼が誰を想い、何を待っているのか、彼自身にも分かりません。しかし、石に刻まれるその「肖像」は、年月を重ねるごとに、より鮮やかに、より深く、魂の輪郭を得ていきました。

第四章:再会の約束 ―三十年後の春―

それから、三十年の月日が流れました。

時代は移り変わり、半島を覆っていた緊張は、時として「離散家族再会」という、一筋の光を許すようになりました。

白髪の老婦人となったセシリアは、車椅子に乗ったカイルと共に、金剛山クムガンサンの再会会場に座っていました。カイルは長年の軍務による古傷が悪化し、今は不自由な体となっていましたが、その瞳には、かつてエランと競い合った時の強さが、静かに宿っていました。

「セシリア、ついにこの日が来たな」

「ええ……。でも、もし彼じゃなかったら……」

「……その時は、この三十年間の想いを、空に放せばいい。彼は、どこかでそれを見ているはずだ」

会場の扉が開き、北側から老いた男性たちが現れました。

セシリアは、目を皿のようにして、一人一人の顔を追いました。

そして、列の最後尾。右袖を空にたなびかせ、ゆっくりと歩いてくる一人の老人の姿に、彼女の心臓は、少女の頃のように激しく打ち鳴らされました。

その老人は、セシリアの前で足を止めました。

彼の記憶は、まだ完全には戻っていませんでした。しかし、彼は震える左手で、懐から一つの石を取り出しました。三十年間、肌身離さず磨き続けた、あの石の肖像です。

「……あ、あ……」

声にならない声が、老人の唇から漏れました。

セシリアは、彼の手にある石を見つめました。そこに描かれていたのは、あの日、彼が最後に描こうとしていた、セシリアの微笑みそのものでした。

「エラン……エラン・ベル……」

セシリアが彼の名を呼んだ瞬間、エランの瞳の奥で、三十年間凍りついていた時計の針が、ガチリと音を立てて動き出しました。

雪が溶け、春の風が吹き抜け、あの村の川のせせらぎが、鮮やかな色彩を伴って彼の脳裏に蘇りました。

「……セ、セシリア……。遅くなった……。肖像画……仕上げに、来たよ……」

エランの不自由な左手が、セシリアの頬に触れました。その指先は、戦場を渡り歩いた荒々しさを失い、今はただ、愛する人の温度を確かめるためだけの、優しさに満ちていました。

カイルは、その光景を少し離れた場所で見つめ、静かに微笑みました。

「……完敗だ、エラン。君の勝ちだよ。……いや、私たちの勝ちか」

カイルは、そっと自分の胸元に手を当てました。そこには、あの日エランが破り捨てた「転役申請書」の、唯一残っていた小さな切れ端が仕舞われていました。

第五章:境界の肖像 ―真の完結―

再会の時間は、あまりにも短く、無情でした。

しかし、その数時間の間に、三人の魂は、三十年間の空白を飛び越えて、一つに重なり合いました。

エランは再び北へ戻らなければなりませんでした。しかし、今の彼の瞳には、絶望の色はありませんでした。彼は、セシリアから手渡された新しいスケッチブックと、最高級の鉛筆を大切に抱えていました。

「エラン、今度は何を……何を描くの?」

バスに乗り込む直前、セシリアが問いかけました。

エランは、振り返り、かつてないほど晴れやかな笑顔で答えました。

「……自由だ。この境界線を越えて、誰もが笑い合える、本当の春の景色を描くよ。……その絵が完成した時、俺たちは、本当に一つになれるんだ」

バスが走り出し、エランは窓から身を乗り出して、セシリアとカイルに手を振り続けました。

カイルは、車椅子から立ち上がろうとするほどの勢いで、力一杯の敬礼を捧げました。

セシリアは、エランの姿が見えなくなるまで、ハンカチを振り続けました。

第六章:不滅の筆跡

さらに数年後。

エラン・ベルは、北の地でその生涯を閉じました。

彼の死後、平壌ピョンヤンの芸術家たちの間で、ある「伝説」が語り継がれるようになりました。

一人の老画家が、生涯をかけて描き続けた、一枚の巨大な壁画の噂です。

それは、国境沿いのとある古い教会の壁に描かれていました。

そこには、南北の兵士たちが銃を置き、同じ橋を渡って、一人の女性と、一人の軍人の待つ「村」へ帰っていく姿が描かれていました。

その色彩は、戦争の悲惨さを忘れさせるほどに温かく、見た者すべてに「平和」という名の希望を植え付ける、魔法のような力を持っていました。

そして、その絵の右下には、動かない右手を左手で支えて書いたと思われる、震える文字で、こう記されていました。

『この絵を、私の永遠のモデルであるセシリアと、最高の戦友であるカイル、そして……あの日、橋と共に散った第十中隊の兄弟たちに捧ぐ。』

エピローグの終わりに:境界のない空

今、故郷の村の川の上には、新しい橋が架かっています。

かつてのような石造りではなく、鉄とコンクリートの頑丈な橋です。

しかし、その橋を渡る人々は、誰もが知っています。

この橋の基礎には、かつて自分たちの明日を守るために、自らの命と愛を捧げた「名もなき肖像画」が埋め込まれていることを。

川の流れは、今日も変わらず、北から南へと流れていきます。

水には、境界線も、思想も、階級もありません。

ただ、空から降り注ぐ太陽の光を反射し、七色の輝きを放ちながら、大海原へと向かうだけです。

エラン、セシリア、カイル。

彼らが駆け抜けた激動の時代は、いまや歴史の一部となりました。

しかし、彼らが信じた「愛」と「友情」、そして「許し」という名の色彩は、後世の人々の心の中に、消えることのない肖像画として、永遠に刻み込まれていくのです。

春が来るたびに、村の子供たちは堤防に並んで絵を描きます。

その中には、必ず一人の、右手の不自由な男が、空を見上げて笑っている姿が含まれています。

「……ねえ、エラン。今日は、何色で空を描きましょうか?」

セシリアの優しい声が、風に乗って、境界線の向こう側へと、どこまでも、どこまでも響いていきました。

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