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境界の肖像 ―紅き指先と凍てつく再会―  作者: 水前寺鯉太郎


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第十四章:約束の橋 ―境界に刻む遺言―

第十四章:約束の橋 ―境界に刻む遺言―

一九五四年、春の気配が混じる三月。

激動の戦火は、皮肉な円を描くようにして、すべてが始まったあの場所――エランとセシリアの故郷である「国境の村」へと戻ってきました。かつてエランが下人として働き、セシリアと愛を誓い、そしてカイルが嫉妬に狂ったあの美しい川沿いの村は、いまやB国軍の最終撤退路であり、同時にD国軍の侵攻を食い止めるための「防波堤」となっていました。


第10中隊の生き残りたちは、泥にまみれ、傷を負いながらも、ようやくこの懐かしい景色の中に辿り着きました。しかし、そこに休息はありませんでした。大隊本部から下された命令は、残酷なまでに簡潔でした。

「村の北側にあるメインブリッジを爆破せよ。D国軍の先遣隊が数キロ先に迫っている。この橋を落とし、敵の進撃を最低でも二十四時間遅らせろ。これは軍の死活問題である」

中隊長として復帰したエランは、その命令書を握りしめ、村を二つに分かつあの石造りの橋を見つめました。かつて、セシリアと手をつないで渡った思い出の橋。それを自らの手で破壊しなければならない。それが戦争というものの正体でした。

「……爆破の準備を急げ。だが、起爆は俺が命じるまで待て」

エランの声は沈んでいました。なぜなら、その橋の北側にある廃屋に、逃げ遅れた村の少女・スジンが取り残されているという報せが入っていたからです。スジンは、爆撃で足を負傷し、動けない状態でした。

嵐の前の静寂、そして越境

「私が行くわ、エラン」

セシリアが、救急箱を肩にかけてエランの前に立ちました。

「スジンちゃんを助けられるのは、医師である私しかいない。彼女は今、極限の恐怖の中にいるはずよ」

「ダメだ、セシリア。敵はもう鼻の先だ。俺が行く」

「いいえ、あなたの体では無理よ。……それに、あなたは指揮官としてここに残らなければならない。そうでしょ?」

セシリアの瞳には、かつての逃避行の時と同じ、揺るぎない決意が宿っていました。エランは苦渋の選択を迫られました。しかし、彼はセシリアの手を強く握り、短く言いました。

「……五分だ。五分で彼女を連れ戻せ。俺も一緒に行く」

エランは、副官となったカイルに中隊の指揮を預け、セシリアと共に橋を渡り、北側の「死地」へと足を踏み入れました。


エランとセシリアが橋の向こうへ消えてから、数分が経過しました。

南側の橋の袂では、工兵たちが爆薬の設置を終え、起爆スイッチを手に震えていました。

「中尉、時間がありません! 敵の戦車の音が聞こえます。今すぐ爆破しないと、我々もろとも突破されます!」

工兵の叫びに、カイルは冷徹な眼差しを向けました。彼の背後には、ジャック、ジョンギ、そして生き残った第10中隊の面々が、銃を構えて並んでいました。

「……爆破はさせない」

カイルの声は、氷のように冷たく響きました。

「な、何を言っているんですか! 命令違反だ! 敵が来たらどうする!」

カイルは、ゆっくりと自分の銃を、爆破命令を出そうとしている本部伝令に向けて突きつけました。

「私の言葉が聞こえなかったか。あの中にいるのは、我らの中隊長だ。そして、この戦争で最も尊い命だ。彼らがこの橋を一歩でも踏み越えるまで、指一本起爆スイッチに触れることは許さん。……もし無理に爆破しようとする者がいれば、私がその場で射殺する」

「中尉……正気か!」

その時、第10中隊の隊員たちが、カイルに同調するように、自らの指揮官が戻るべき橋の上に立ちふさがりました。

「俺たちも同じ気持ちだ。中隊長を見捨てて生き残るくらいなら、ここで敵の戦車に踏みつぶされた方がマシだ」

「ジョンギ、お前……足が悪いのに……」

「関係ねえよ。俺の足の代わりに、あの日、中隊長は魂を削ってくれたんだ」

彼らは、軍紀よりも、戦略よりも、一人の男への忠誠と愛を選んだのです。それは、かつて「陣内爆撃」という非情な手段で自分たちを救ったエランに対する、彼らなりの究極の報恩でした。


一方、北側の廃屋。

「スジンちゃん、大丈夫よ。今、痛いのを止めてあげるからね」

セシリアは、激しい砲撃で崩れかけた屋根の下、怯える少女を抱きしめていました。エランは周囲を警戒しながら、迫り来るD国軍の先兵を数発の射撃で退けました。

「セシリア、急げ! 敵の本隊が見えた!」

エランは、負傷したスジンを背負い、セシリアの手を引いて廃屋を飛び出しました。背後からは、D国軍の機銃掃射が容赦なく降り注ぎます。エランの脇腹の古傷が開き、熱い血が軍服を染めていきますが、彼は止まりませんでした。

「走れ、セシリア! 前だけを見て走るんだ!」

目の前に、あの石造りの橋が見えました。

その上には、自分たちを待つ第10中隊の「家族」たちが、盾となって並んでいるのが見えました。

「エランさん! セシリア先生!」

ジャックの叫び声が、砲声の中に響きます。

しかし、その瞬間、丘の上からD国軍のT―34戦車が姿を現しました。巨大な砲口が、橋の上で立ち往生している第10中隊、そして橋を渡ろうとしているエランたちに向けられました。

閃光と決断

「撃てえええ!」

D国軍の指揮官の号令と共に、戦車砲が火を噴きました。

轟音と共に、橋の北側の袂が爆発しました。土砂が舞い上がり、エランとセシリア、そしてスジンは爆風によって吹き飛ばされました。

「エラン! セシリア!」

カイルが叫び、橋を駆けだそうとしました。しかし、二射目の砲弾が橋の中央に着弾し、石造りのアーチが悲鳴を上げて崩れ始めました。

砂煙の中から、エランが這い出してきました。彼は自分よりも先に、セシリアとスジンの無事を確認しました。二人は気絶していましたが、命に別状はありません。しかし、橋はもはや、半分が崩落しかけていました。

「カイル! スイッチを押せ!」

エランは、橋の向こう側にいるカイルに向かって叫びました。

「何を言っている! まだ君たちがそこにいるんだぞ!」

「いいから押せ! 敵の戦車がここを渡れば、村も、後ろにいる避難民も全滅だ! 俺たちがここにいれば、敵は足止めできる。……カイル、お前に後を託す。セシリアを、スジンを……頼んだぞ!」

エランは、気を失ったセシリアとスジンを、崩れかかった橋の隙間から、南側にいる隊員たちの元へ力任せに押しやりました。ジャックたちが必死に彼女らを受け取ります。

しかし、エラン自身は、崩落した瓦礫のせいで北側に残されてしまいました。


D国軍の歩兵たちが、すぐそこまで迫っていました。

エランは、動かない右手を左手で支えながら、最後の一丁の銃を構えました。

「カイル! 爆破しろ! これは命令だ! 第10中隊長、エラン・ベルとしての最後の命令だ!」

カイルは、起爆スイッチを握りしめたまま、泣いていました。

かつては、この男がいなくなればいいと願ったこともありました。しかし今、目の前にいるのは、自分の命を懸けて自分たちを救い、そしてこの国の未来を繋ごうとしている、唯一無二の親友でした。

「……すまない、エラン。……あばよ、相棒」

カイルは、魂を削るような咆哮と共に、スイッチを押し込みました。

ドォォォォォン!

凄まじい大爆発が、春の空を真っ赤に染めました。

石造りの橋は木っ端微塵に砕け散り、濁流の中へと沈んでいきました。

橋の北側。燃え盛る炎と土煙の向こう側に、最後の一兵として立ち、迫り来る敵に向かって銃を乱射し続けるエランの姿を、カイルと第10中隊の面々は、その目に焼き付けました。

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