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境界の肖像 ―紅き指先と凍てつく再会―  作者: 水前寺鯉太郎


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第十三章:鋼の再臨 ―未完の軍旗―

第十三章:鋼の再臨 ―未完の軍旗―

一九五四年、早春。

休戦の風は吹き始めたものの、最前線では依然として火種が燻り、一進一退の攻防が続けられていました。陸軍病院での聖誕祭を越え、魂の平穏を取り戻しかけていたエランたちでしたが、運命の歯車は再び彼らを、硝煙たなびく鉄の嵐へと引き戻そうとしていました。


「……中隊長、本当に残られるのですか」

病院の門前。再編を終え、再び最前線へと赴く第10中隊の隊員たちが、エランを囲んでいました。エランの体は、陣内爆撃の衝撃と脇腹の銃創により、未だ完治には程遠い状態でした。軍医のヤン大尉からは「今無理をすれば、一生歩けなくなる」と厳命されており、中隊の指揮は、第三小隊長であったヨンミンが代行することになったのです。

「ああ。俺の体はこの通りだ。……ヨンミン、部下たちを頼む。お前は慎重すぎるきらいがあるが、今の第10中隊に必要なのは、英雄的勝利ではなく、全員が生きて帰ることだ」

エランは、かつて自分が着けていた中隊長の階級章を、ヨンミンの震える手に託しました。

傍らでそれを見ていたカイルは、複雑な表情を浮かべていました。彼は自分の失策を償うため、志願して中隊に残りましたが、エランという巨大な背中を失った部隊に、言いようのない不安を感じていました。

「……エラン。君の代わりなど、誰にも務まらない。だが、行ってくる。君が戻るべき居場所を、私が守り抜いてみせる」

カイルは、短く力強い敬礼を残し、泥濘の道を北へと去っていきました。それが、さらなる悲劇の幕開けになるとは、その時のエランには知る由もありませんでした。


最前線に復帰した第10中隊を待っていたのは、D国軍による陰湿なゲリラ戦でした。

新中隊長となったヨンミンは、その責任の重さに押し潰されようとしていました。「エランのようにあらねばならない」という強迫観念と、「部下を死なせてはならない」という臆病さが、彼の判断を鈍らせていきます。

「……これ以上の前進は危険だ。だが、大隊本部からの命は『敵補給路の確認』だ。……カイル中尉、第一小隊を率いて偵察に向かってくれ。私はここで後方を固める」

ヨンミンが下した命令は、あまりにも無謀なものでした。十分な援護態勢も整えぬまま、カイルら少数精鋭の偵察隊を、敵の伏兵が潜む「霧の谷」へと送り込んでしまったのです。

「中隊長、せめて第二小隊を側面に配置すべきです!」

カイルの進言を、ヨンミンは「兵力の分散を避けるためだ」という一言で退けました。

霧深い谷の底。カイルたちが足を踏み入れた瞬間、四方の岩影から、待機していたD国軍の一斉射撃が始まりました。

「罠だ! 散開しろ!」

カイルの声は、峡谷に響く反響音にかき消されました。ヨンミンの判断ミスにより、第一小隊は完全に退路を断たれ、弾薬も乏しいまま、切り立った崖の下で孤立してしまったのです。


一方、後方で待機していたヨンミンは、カイルたちからの救援信号を受け取り、パニックに陥りました。

「救出しなければ……。いや、今動けば本隊が全滅するかもしれない。どうすればいい、エランさんならどうするんだ!」

彼は、エランがかつて見せたような「冷徹な決断」を下すことができませんでした。自ら先頭に立って突入することもできず、ただ無線機の前で震えるヨンミン。その優柔不断さが、さらなる惨劇を招きます。

「中隊長、私が行きます!」

見かねた伝令兵が飛び出そうとしたその時、敵の迫撃砲が中隊本部を直撃しました。

炎と煙の中、ヨンミンは吹き飛ばされました。自分の弱さと、指揮官としての重圧に抗おうともがきながら、彼は最期までエランから預かった階級章を握りしめていました。

「……すみません、エランさん。私は……あなたのようには……」

ヨンミン、戦死。

指揮官を失った第十中隊は、本隊との連絡も絶たれ、最前線の地獄で文字通り「バラバラ」になってしまったのです。


その頃、後方の軍司令部。

エランは、セシリアに付き添われながら、大隊長の前に立っていました。彼の右手には、一通の書類――**「転役申請書」**が握られていました。

戦争が終わりに向かう中、彼は軍を離れ、セシリアと共に静かな街で新しい人生を歩む決意を固めていたのです。

「エラン大尉。……いや、君には伝えておかねばならんことがある」

大隊長の顔は、鉄のように重く沈んでいました。

「一時間前、第10中隊より通信が途絶した。中隊長代理のヨンミン大尉は戦死。カイル中尉率いる偵察隊は敵陣のど真ん中で孤立。現在、第十中隊は事実上の壊滅状態にある」

エランの脳裏に、あの雪原の記憶、陣内爆撃の炎、そして自分を信じてついてきた部下たちの顔が、濁流のように押し寄せました。

「……カイルは、生きているんですか」

「不明だ。だが、あの地点から生還できる確率は……限りなくゼロに近い」

エランの右手が、激しく震え始めました。転役申請書の紙が、くしゃりと音を立てて潰れます。

傍らにいたセシリアは、エランの肩が硬く強張るのを見て、すべてを悟りました。彼女は、彼がどれほど自分との平穏な暮らしを願っていたかを知っています。しかし同時に、彼が「家族」である部下たちを見捨てることができない男であることも、誰よりも理解していました。

「……エラン」

セシリアの声に、エランはゆっくりと彼女を見つめました。その瞳には、かつて戦場を支配した、あの「亡霊」のような冷たい光が再び宿ろうとしていました。

「……セシリア、ごめん。俺は、やはり……」

「言わないで。……わかっているわ。あなたを愛した時から、私はあなたの魂がどこにあるか知っていたもの。……行って。そして、必ず、みんなを連れて戻ってきて」

セシリアは、涙を堪えながら、エランの汚れた軍服の襟を整えました。エランは、自分の手にある転役申請書を、迷うことなくその場で破り捨てました。


「車を出せ! 第10中隊の残存兵力、および予備の弾薬を積み込めるだけ積み込め!」

エランは、病院を抜け出し、司令部にあったジープに飛び乗りました。完治していない脇腹の傷が悲鳴を上げ、視界が痛みで白く染まりますが、今の彼には関係ありませんでした。

「待っていろ、カイル。待っていろ、ジャック。俺が……俺が今、地獄から引きずり出してやる」

猛吹雪が吹き荒れる中、エランは単身、いや、彼に付き従うことを志願した数名の負傷兵たちと共に、第10中隊が消えた「霧の谷」へと向かって突き進みました。

谷の入り口には、無残に破壊された中隊本部の残骸が散らばっていました。そこでエランが見つけたのは、泥にまみれ、血を吸って黒ずんだヨンミンの遺体でした。その手には、あの階級章が、まるで遺言のように握られていました。

エランは、その階級章を自分の胸に刺し直しました。

「ヨンミン、よく頑張った。あとは……俺に任せろ」

エランは、不自由な右手に銃を固定し、谷の奥深くから響く微かな銃声を聞き漏らすまいと耳を澄ませました。そこには、弾が尽き、絶望の淵で最後の着剣突撃を覚悟しているカイルたちの姿があるはずでした。


「カイル! 生きているか、カイル・ハルフォード!」

エランの声が、峡谷を揺らしました。

岩陰で死を待っていたカイルは、その声を聞いた瞬間、自分の耳を疑いました。

「……幻聴か? それとも、あいつが……あの亡霊が、本当に戻ってきたのか?」

霧の向こうから、一発の信号弾が上がりました。それは、エランだけが使う、特殊な旋律を奏でるような連射の合図。

「中隊長だ……! 中隊長が戻ってきたぞ!」

瀕死の兵士たちが、歓喜の声を上げました。

エランは、自らジープの機関銃を握り、圧倒的な火力で敵の包囲網を食い破りました。

「第10中隊、全軍に告ぐ! 指揮権はこれよりエラン・ベルが執る。全員、俺の背中だけを見て進め! ここに、死ぬ奴は一人もいない!」

その咆哮は、冬の終わりを告げる雷鳴のように、戦場に響き渡りました。

一度は捨てようとした軍服を再び纏い、彼はかつての部下たちのために、再び「悪魔」になる道を選んだのです。

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