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境界の肖像 ―紅き指先と凍てつく再会―  作者: 水前寺鯉太郎


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第十二章:聖誕祭の奇跡 壊れた時計が動き出す時

第十二章:聖誕祭の奇跡 ―壊れた時計が動き出す時―

一九五四年、冬。

激動の戦火がようやく鳴りを潜め、休戦協定という名の静寂が半島を覆い始めた頃。後方の陸軍病院には、肉体以上に深い魂の傷を負った男たちが、行き場のない亡霊のようにひしめいていました。


その病院の最奥にある隔離病棟の一室で、エランは今もなお、深い闇の中に閉じ込められていました。

陣内爆撃という極限の決断を下し、部下たちを自らの手で葬った記憶は、彼の精神を鋭い破片となって切り刻み続けていました。彼は一日中、虚空を見つめ、不自由な右手を動かしては、目に見えない「死者の顔」を描き続けていたのです。

そこへ、一人の女性が訪れました。

白衣を纏い、足を引きずりながらも、その瞳にはかつての凛とした光を宿した女性――セシリアでした。

彼女は都の広場で撃たれ、死の淵を彷徨いましたが、カイルの必死の救出と、彼女自身の生きようとする執念によって、奇跡的に命を繋ぎ止めていたのです。

カイルは、彼女をエランの病室の前まで送り届けると、短く言いました。

「……彼を救えるのは、この世で君しかいない。行ってくれ」

セシリアが病室の扉を開けたとき、エランは彼女に気づきませんでした。

「エラン……私よ、セシリアよ」

その声が、静寂を切り裂きました。エランの肩がびくりと震え、ゆっくりと顔を上げました。彼の濁った瞳に、かつて描き続けた、しかし今は死んだと思い込んでいた最愛の人の姿が映り込みます。

「セシリア……? 幻か? 君も、俺が殺してしまったのか……」

「いいえ、エラン。私は生きているわ。あなたの温もりを感じるために、戻ってきたのよ」

セシリアは、震えるエランの体を強く抱きしめました。彼女の体温、肌の匂い、そして生きて鼓動を刻む心臓の音。それらが、エランを縛り付けていた硝煙の呪縛を、一欠片ずつ解いていきました。自責の念という氷に閉ざされていたエランの心から、熱い涙が溢れ出しました。


一二月二四日。聖誕祭の夜がやってきました。

病院内には、看護師たちが飾ったささやかな樅の木と、乏しい物資の中から用意されたキャンドルの火が灯っていました。

カイルは、病室で寄り添い合うエランとセシリアの姿を窓越しに確認し、そっと背を向けました。二人には、これまでの空白を埋めるための静かな時間が必要でした。自分がその場にいることは、彼らにさらなる「負い目」を感じさせることになると、今のカイルは理解していたのです。

「……さて、私のような男が一人で歩くには、この夜は少々寒すぎるな」

カイルは、同じく仕事に追われていた軍医のヤン大尉に声をかけました。

「ヤン先生、今夜くらいはメスを置いて、私と冷たい珈琲でも飲みに行きませんか? 独身の軍人二人が肩を並べるのも、この街の風情でしょう」

ヤン大尉は、カイルの不器用な気遣いを見抜き、微笑んで頷きました。

「光栄ですわ、カイル中尉。でも、珈琲だけでは許しませんよ」

カイルは、自らの愛と憎しみの歴史を、冬の夜風に預けるようにして歩き出しました。


しかし、聖誕祭の平和な空気は、一階の一般病棟で突如として引き裂かれました。

「離せ! こんな足、いらないんだ! 俺を殺せよ!」

荒れ狂う声の主は、エランの部下であり、前線で重傷を負ったジョンギでした。彼は感染症の悪化により、ついに右足の切断手術を受けたばかりでした。若くして「走ること」も「戦うこと」も奪われた彼は、その絶望を爆発させ、側にあった医療器具をなぎ倒していました。

「俺は、中隊長と一緒に最後まで戦いたかった! なのに、こんな姿で……! 何が聖誕祭だ、何が救いか!」

駆けつけた看護師たちが抑え込もうとしますが、元兵士の力に撥ね飛ばされます。そこへ、騒ぎを聞きつけたエランが、セシリアに支えられながら現れました。

「……ジョンギ」

エランの声は、小さく、しかし深く響きました。

暴れていたジョンギの動きが止まりました。彼は、自分たちに「陣内爆撃」を命じた、憎んでも余りあるはずの、しかし最も尊敬していた指揮官を見上げました。

「中隊長……見てください、俺の足を。俺はもう、半分死んだも同然です……。あんたは、俺たちに生きろと言った。でも、こんな姿で生きて、何になるんですか!」

エランは、ゆっくりとジョンギのベッドの側に膝をつきました。そして、かつて鎌で刺され、今は震えの止まらない自分の右手を、ジョンギの失われた足の包帯の上にそっと置きました。

「……ジョンギ。俺も、右手の自由を失い、心も壊れた。この手で、お前たちに地獄を見せた。……謝って済むことではない。俺こそが、生きていてはいけない人間なのかもしれない」

エランは、ジョンギの瞳をまっすぐに見つめました。

「だが、セシリアが教えてくれた。生き残った者にできる唯一のことは、死んでいった者たちの分まで、この『不自由な体』で新しい明日を描き続けることだ。ジョンギ、お前の足がなくなったのは、俺の罪だ。だから、お前のこれからの人生は、俺が支える。俺の右手が動かないなら、お前が俺の筆になってくれ。お前が歩けないなら、俺がお前の杖になる」

エランの言葉には、かつての指揮官としての威厳ではなく、同じ地獄を見てきた「人間」としての魂が宿っていました。ジョンギの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちました。彼はエランの痩せた肩に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きました。


夜が深まり、病院全体が深い眠りに落ちようとしていました。

エランは、病室の窓辺で、久しぶりに筆を握っていました。動かない右手を、左手で支えながら、彼は一枚のキャンバスに向き合っていました。

そこには、もはや戦場の風景も、死者の顔もありませんでした。

窓の外、雪の上に落ちる柔らかな月光。そして、その光の中で静かに眠るセシリアの姿。

かつて血に染まったスケッチは、今、新しい色彩を得て蘇ろうとしていました。

セシリアが目を覚まし、エランの背中に寄り添いました。

「何を描いているの?」

「……僕たちの、これからだ」


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