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境界の肖像 ―紅き指先と凍てつく再会―  作者: 水前寺鯉太郎


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第十一章:断罪の雷鳴 ―凍土の虚無―

第十一章:断罪の雷鳴 ―凍土の虚無―

一九五四年、春を間近に控えた最果ての地。B国軍第10中隊は、歴史の教科書にも載らないような、しかしこの戦争において最も凄惨な「袋小路の死闘」の中にありました。D国軍の補給車列を奪い、一時的に息を吹き返した彼らでしたが、奪った物資の重さが仇となり、雪解けでぬかるみ始めた険しい渓谷で、追撃してきたD国軍の精鋭部隊に完全に包囲されてしまったのです。


「弾幕を薄くするな! 寄せ付けるな!」

エランの叫びは、絶え間ない砲撃音にかき消されていきました。

四方の斜面から、地を這うように迫り来るD国軍の白装束の兵士たち。その数は、第10中隊と合流したE国軍の残存兵を合わせても、なお10倍以上の開きがありました。

かつては「戦友」と呼び合い、冗談を言い合っていた部下たちが、一人、また一人と、音もなく泥の中に沈んでいきます。もはや戦術などという言葉は意味を成しませんでした。そこにあったのは、ただ「どちらが先に弾を使い切るか」、あるいは「どちらが先に恐怖に屈するか」という、極限の生存競争だけでした。

「中隊長、もう持ちません! 東側の陣地が突破されました!」

ジャックが、血まみれの顔でエランに詰め寄りました。

エランは、かつてセシリアを描いた右手を、今は真っ黒な硝煙と泥で汚したまま、通信機の受話器を握りしめました。


エランの瞳には、かつての誠実な青年の面影はありませんでした。そこにあるのは、凍りついた湖のような、冷徹で空虚な決意だけでした。

「……こちら第10中隊、エラン大尉。作戦地点二〇四、全軍に告ぐ。我が陣地を座標の起点とし、直ちに『陣内爆撃』を要請する。繰り返す、我が頭上に火力を集中せよ」

通信の向こう側で、本隊のオペレーターが絶句するのが伝わりました。

陣内爆撃――それは、味方の頭上に砲弾を降らせる、軍事における「禁忌」の作戦です。敵軍を道連れにするための自爆に近い選択。

「中隊長、正気ですか!」

「我々も死ぬことになります!」

隊員たちの間に、戦慄と動揺が走りました。昨日まで共に「生き抜こう」と誓い合った仲間に、自ら死の雨を降らせる。ジャックの絶望に満ちた叫びが、エランの鼓動を刺しました。

エランは、震える声を抑え、一言ずつ噛み締めるように言いました。

「……このままでは、あと十分で全員がなぶり殺しにされる。だが、爆撃が始まれば、奴らは必ず退く。塹壕の底に潜れ。運が良ければ、三割は生き残れる。……残りの七割の命は、俺が、地獄まで背負っていく」


数分後。空を切り裂くような不気味な風切り音が、渓谷に響き渡りました。

それは、B国軍の本隊が放った、総火力の咆哮でした。

「伏せろおおおおお!」

ドォォォォォン!

凄まじい衝撃が大地を突き上げました。エランの視界は真っ白に染まり、鼓膜が破れるような衝撃波が全身を叩きつけます。自分の陣地が、自分の指示によって、火の海へと変わっていく。

土砂が降り注ぎ、熱風が髪を焼く。隣で伏せていたはずの部下が、爆風によって木の葉のように舞い上がるのが見えました。敵も味方も、思想も国境も、すべてが「等しく」鉄の塊によって粉砕されていく、絶対的な死の空間。

エランは、塹壕の泥の中に顔を埋めながら、笑っていました。

(これでいいんだ、セシリア。俺は、君のいない世界を、こうして壊したかっただけなのかもしれない……)


爆撃が止んだとき、渓谷には耳が痛くなるほどの静寂が訪れていました。

立ち込める土煙の向こう側。あれほど執拗に攻めてきていたD国軍の姿は、影も形もありませんでした。彼らは、味方の頭上にまで砲弾を降らせる第10中隊の狂気に、真の恐怖を感じて撤退したのです。

「……生きてるか。おい、誰か返事をしろ……」

ジャックが、瓦礫の中から這い出してきました。

「勝った……のか? 俺たちは、生き残ったのか?」

一人、また一人と、泥まみれの亡霊たちが立ち上がります。彼らは互いの姿を確認し、震える手で抱き合い、嗚咽をもらしながら勝利を噛み締めました。それは間違いなく、歴史に残る奇跡の生還劇でした。

しかし、その中心にいた男、エランだけは違いました。


エランは、爆心地にほど近い岩の上に、力なく腰掛けていました。

彼の目の前には、自分が爆撃を命じたことで変わり果てた姿となった、部下たちの死体が転がっていました。

「……中隊長、やりましたね。あなたの決断のおかげで、俺たちは……」

ジャックが声をかけようとして、言葉を失いました。

エランの瞳は、どこも見ていませんでした。彼は、動かなくなった右手の指を細かく動かし、空中に「何か」を描き続けていたのです。

「ああ、見てくれ、セシリア。今日の空は、とても綺麗だ。……でも、少し赤いかな。みんなが、赤い絵具を貸してくれたんだ。ほら、ジャックも、テホも、ジャン中隊長も……みんな、笑っているよ」

「……中隊長? 何を言っているんですか、しっかりしてください!」

エランは、ジャックの言葉を聞こえていないようでした。彼の口元には、不気味なほど穏やかな、純粋な子供のような微笑みが浮かんでいました。

自らの手で愛する人を失い、自らの手で信頼する部下たちを葬り去ったその精神は、ついに耐えきれず、現実という名の糸を切ってしまったのです。

彼は、懐からあの日血に染まったスケッチの切れ端を取り出すと、それを丁寧に、泥だらけの地面に並べ始めました。

「次は、君の目を描くよ。……ああ、でも、光が足りないな。もっと、もっとたくさん、火が必要だ……」

その姿は、かつて名家の庭で無垢に絵を描いていた少年のようであり、同時に、地獄の底で狂った悪魔のようでもありました。


一週間後、救援部隊が到着したとき、第10中隊の生存者たちは、廃人と化したエランを囲んで泣いていました。

英雄として賞賛されるはずの男は、今や自分の名前すら忘れ、ただ「セシリア」という名前だけを、呪文のように唱え続けていました。

カイルは、救護車に運び込まれるエランの姿を、遠くから見つめていました。

「……エラン。君は勝ったんだ。しかし、その勝利のために、君は自分自身という最後の人間性を差し出してしまったのか」

カイルの目から、一筋の涙がこぼれました。

戦争は、終わろうとしていました。国境には再び線が引かれ、政治家たちは握手をし、人々は平和を謳歌し始めるでしょう。

しかし、この極寒の渓谷に降り注いだ鉄の雨と、一人の男が正気を失うまで抱え込んだ罪の重さは、誰にも癒されることはありません。

エランを乗せた車両が、ゆっくりと南へ向けて走り出します。

その車窓から、エランは空を見つめ、不自由な右手で空中に筆を走らせていました。

彼が描いているのは、もうこの世にはいない、一人の女性の微笑み。

それは、世界で最も美しく、そして最も悲しい、未完の肖像画でした。

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