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境界の肖像 ―紅き指先と凍てつく再会―  作者: 水前寺鯉太郎


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第十章:偽装の雪原、逆転の火花

第十章:偽装の雪原、逆転の火花

一九五四年、二月。北の都が灰燼に帰し、かつての美しい街並みが凍てつく廃墟と化した頃、B国軍第10中隊は、歴史の闇に葬られようとしていました。D国軍の圧倒的な物量作戦の前に、B国軍の本隊は南方への戦略的撤退を余儀なくされ、エラン率いる第10中隊は、退路を断たれたまま、敵陣の真っ只中に完全に取り残されてしまったのです。


「……死ぬのはまだ早いぞ、野郎ども」

雪の吹き溜まりで、エランは掠れた声を絞り出しました。脇腹の傷を固く縛り、セシリアを失った絶望を心の奥底の氷の下に押し込めて。今の彼を動かしているのは、愛でも憎しみでもなく、自分を信じて残った部下たちを一人でも多く生還させるという、指揮官としての最後の意地でした。

周囲は完全なD国軍の支配下。まともに動けば即座に殲滅される。そこでエランが下したのは、あまりにも無謀で、しかし唯一の可能性を秘めた賭けでした。

「D国軍に成りすます。奴らの軍服を剥ぎ、奴らの言葉を使い、奴らの列に紛れて南下する」

それは、発覚すれば即座に処刑を意味する、死の偽装行軍でした。第10中隊の面々は、戦場に転がるD国兵の死体から軍服を奪い、煤を顔に塗りたくって、敵軍の敗残兵を装いました。

雪煙の中、彼らは声を潜め、死んだ魚のような眼をして、D国軍の巨大な潮流の端を歩きました。すぐ隣を、敵の戦車が地鳴りを立てて通り過ぎていきます。心臓の鼓動が耳元で爆音のように響き、冷や汗が凍って顔に張り付く。

しかし、運命の女神は彼らを見逃してはくれませんでした。


あと数キロで味方の哨戒区域という地点で、運悪くD国軍の検問に遭遇します。

「貴様ら、所属と部隊名を言え!」

D国軍の将校が鋭く問いかけました。エランは流暢な敵国語で応じようとしましたが、その時、負傷して意識が朦朧としていた一人の部下が、寝言のようにB国の母国語で「母さん……」と呟いてしまったのです。

刹那、静寂が破れました。

「スパイだ! 撃て!」

擬装は剥がれ、雪原は一瞬にして地獄の火蓋を切りました。

「応戦しろ! 散開!」

エランの叫びと共に、第10中隊は最後の力を振り絞って銃を執りました。しかし、数日の逃避行で、彼らの弾薬は底を突きかけていました。

「中隊長、弾がありません!」

「着剣しろ! 刺し違えてでも道を開け!」

銃声が消え、代わりに肉を裂く音と、男たちの断末魔が響き渡ります。弾の尽きた小銃を棍棒代わりに振り回し、泥にまみれて取っ組み合う凄惨な肉弾戦。エランもまた、不自由な右手にナイフを握り、迫り来る敵を次々と屠っていきましたが、多勢に無勢。四方を囲まれ、D国兵の銃口が一斉にエランの胸元に向けられたその時――。

鉄の雨、天からの援軍

丘の向こうから、聞き覚えのない重厚な機関銃の音が轟きました。

雪煙を切り裂いて現れたのは、B国軍でもD国軍でもない、E国軍の偵察車両でした。

「味方だ! 撃ち続けろ!」

E国軍の猛烈な援護射撃により、エランたちを囲んでいたD国軍は次々と崩れ落ちていきます。間一髪で死の淵から救われた第10中隊。しかし、救出に現れたE国軍の指揮官、スミス大尉が車両から降りてきた時、エランはその惨状に言葉を失いました。

彼らもまた、孤立していたのです。

「喜ぶのは早いぞ、ミスター・エラン。我々も弾薬の八割を使い果たし、燃料も底を突いた。本隊とは通信が途絶え、この車両もいつ止まるか分からない。我々は、共に沈む船に乗ったようなものだ」

スミスの言う通り、E国軍の部隊は精鋭ではあったものの、連日の戦闘で戦力を大幅に喪失し、もはや自力で敵陣を突破する力は残っていませんでした。


「……いや、まだ手はある」

エランの瞳に、鋭い光が戻りました。

「スミス大尉、あなたの部隊の機動力と、我が中隊の『変装』を組み合わせれば、この地獄を覆せる」

エランが提案したのは、この付近を通るはずのD国軍の巨大補給車列を奪取する、という狂気じみた奇奇襲作戦でした。

「補給車には燃料、弾薬、そして食料がある。それを奪えば、俺たちは武装化した要塞となって南へ突き抜けられる」

「正気か? 相手は一個大隊規模の護衛がついているはずだ」

スミスは驚愕しましたが、エランの冷静な、しかし狂気を孕んだ眼差しに圧されました。

「座して死ぬのを待つより、敵の喉元を喰いちぎる方が、軍人の死に方として相応しい。……協力してくれるか?」

エランの言葉に、絶望していたE国兵たち、そして満身創痍の第10中隊の兵士たちが立ち上がりました。

血の補給線

夜。雪が激しさを増す中、作戦は実行されました。

エランたちは再びD国軍の軍服を纏い、路肩で「故障した車両」を装って待ち伏せました。

遠くから、巨大なエンジンの音が近づいてきます。D国軍の補給車列。

「……今だ」

エランの合図と共に、雪の中に伏せていたE国軍の数少ない重火器が火を噴きました。先頭の装甲車を破壊し、逃げ場を失った車列に、エランたちは叫びを上げて突入しました。

「奪え! 一滴のガソリンも、一発の弾丸も残すな!」

それは、飢えた狼たちの晩餐でした。弾薬を補給したばかりの機関銃が唸りを上げ、奪い取った敵の戦車が、かつての主人を蹂躙します。

エランは、燃え盛るトラックの炎に照らされながら、鬼神の如き速さで敵をなぎ倒していきました。

「セシリア……俺はまだ、死ねない。君を置いていったこの世界で、こいつらを一人でも多く道連れにするまでは!」

奇襲は成功しました。第10中隊とE国軍は、敵の膨大な補給物資を手に入れ、強力な武装集団へと変貌を遂げたのです。

希望の轍

夜明け前。奪い取った数十台のトラックと装甲車を連ね、彼らは南を目指して雪原を爆走しました。

「中隊長! 南方三キロ地点に、B国軍の防衛線を確認!」

無線係の歓喜の声が響きました。

エランは、トラックの助手席で深く背もたれに身を預けました。窓の外を流れる雪景色は、あの日、セシリアが倒れた都の色と同じでした。

「……戻ったぞ、セシリア」

彼は、懐から血に染まったスケッチの破片を取り出し、そっと唇を寄せました。

生き残った。しかし、その代償として彼は、自らの魂の一部をあの灰色の都に置いてきてしまったことを自覚していました。

第十中隊の凱旋。それは、B国軍にとって「奇跡の生還」として歴史に刻まれることになります。しかし、その最前線に立つ男の背中には、英雄の誇りではなく、消えることのない深い喪失の影が刻まれていました。

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