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境界の肖像 ―紅き指先と凍てつく再会―  作者: 水前寺鯉太郎


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第一章:黄金の記憶と鎌の刻印

第一章:黄金の記憶と鎌の刻印 ―境界線上の肖像―

一九四〇年。世界が第二次大戦という未曾有の荒嵐に飲み込まれようとしている中、A国とB国の国境が複雑に入り組む、名もなき山あいの村には、未だ時代に取り残されたような静謐な時間が流れていました。

朝靄が立ち込めるこの村で、若き下人、エランは、村の名家「ハルフォード家」の広大な屋敷で額に汗を流して働いていました。彼は幼くして両親を亡くした孤児でしたが、その瞳には澄んだ意志が宿り、誠実な働きぶりは村の長老たちからも一目置かれていたのです。

しかし、彼にとっての「世界のすべて」は、屋敷の長女、セシリアでした。

二人は幼少の頃から、主人と下人という身分の垣根を越え、国境に広がる野山を駆け回って育ちました。セシリアは屋敷で学んだ文字をエランに教え、エランはセシリアに、季節ごとに表情を変える国境の森の美しさや、隠れた湧き水の場所を教えました。

「いつか、この柵がなくなったら。その時は、二人で遠い海の見える街へ行こう」

一九四〇年の冬、降り積もる雪の中で、二人は納屋の片隅で、誰にも知られぬ将来を誓い合ったのです。それは、凍てつく時代を生き抜くための、あまりにも細く、しかし何よりも強い約束の糸でした。

しかし、一九四一年の春。そのささやかな幸福は、無慈悲な暴力によって粉々に引き裂かれることとなります。

エランには、類まれなる絵の才能がありました。彼は農作業の合間に、拾った炭や安価な包み紙を使い、最愛のセシリアを描き留めていました。木漏れ日の中で微笑む彼女、野花を摘む彼女――それらのスケッチは、過酷な労働と身分差の重圧に耐える彼にとって、唯一の魂の救いであり、希望そのものでした。

だが、それを良しとしない者がいました。セシリアの兄、ギルバートです。

選民思想に凝り固まり、妹を家の再興のための政略結婚の道具としか見ていない彼にとって、卑しい下人と妹の密やかな交流は、ハルフォード家の名誉に泥を塗る「汚点」でしかありませんでした。

ある日の午後。庭の片隅で、セシリアの写生をしていたエランの背後から、ギルバートが音もなく現れました。

「下人の分際で、高貴な血筋を汚すな」

冷酷な声と共に、ギルバートは足元に落ちていた農作業用の鎌をひったくると、エランの右手を狙って容赦なく突き刺しました。

「ああっ!」

鋭い刃が掌を貫き、白いキャンバスにはセシリアの顔を覆い隠すように、エランの鮮血が飛び散ります。右手の神経を深く傷つけられたエランは、二度と以前のように繊細な筆を握ることはできなくなりました。それは、若き天才の翼をもぎ取る、呪われた刻印となったのです。これが、彼らの人生を翻弄する悲劇の序章でした。

一九五〇年。世界は再び冷戦の影に覆われ、A国とB国の緊張は頂点に達しました。

十八歳になったエランに届いたのは、自由を告げる便りではなく、B国陸軍からの徴兵令状でした。右手に消えない鎌の傷跡を抱え、筆を捨てた彼は、代わりに銃を持たされ、最前線へと送り出されました。

一九五一年。かつての故郷に近い国境線で、大規模な衝突が勃発しました。

泥濘と硝煙がすべてを覆う中、エランの所属する部隊は敵軍の猛烈な集中砲火を浴びました。降り注ぐ砲弾、至近距離での爆発。エランの意識は、真っ白な閃光と共に深い闇へと突き落とされました。

戦場は混乱を極め、撤退を急ぐB国軍は、生死不明の兵士たちをことごとく「戦死」として処理しました。死体すら確認されないまま、一人の若者の存在が公的な記録から抹消されたのです。

同年夏。ハルフォード家の屋敷に、一通の冷徹な公報が届きました。

「エラン・ベル、名誉の戦死」

セシリアはその知らせを、蝉時雨が降り注ぐ庭で受け取りました。彼女は泣き叫ぶこともできず、ただ膝から崩れ落ちました。エランがかつて命がけで守り、彼女に残していった、あの日血に染まったスケッチ。それだけが、彼女が生きる唯一の拠り所、いや、執着となりました。

一九五三年。戦争は停滞しつつも泥沼化し、国境付近は軍事的な空白地帯と化していました。

エランを失った絶望から、セシリアは自らを他者のために捧げる道を選びました。彼女は必死に医学を学び、今では村の唯一の医師として、一台の自転車に薬箱を積んで村中を駆け巡る毎日を送っていました。その献身的な姿は、戦火に疲弊した村人たちの希望となっていました。

そんなある日、村に新たな国境警備部隊が駐留することになります。

部隊を率いるのは、B国のエリート軍人、カイル中尉でした。名門の出身であり、冷徹な指揮官として知られる彼でしたが、村の広場で泥にまみれながら急患のもとへ急ぐセシリアの姿を一目見た瞬間、その凍てついた心に雷鳴のような衝撃が走りました。

「あのような気高い魂を持った女性が、この辺境にいるとは……」

カイルの恋心は、一目惚れというよりは執着に近いものでした。彼は軍の権限を恣意的に利用し、医療物資の提供や警備の強化を口実に、頻繁にセシリアに接近し、熱烈な求婚を繰り返すようになります。

一九五三年夏。度重なるカイルの求婚、そして兄ギルバートによる「家の再興」と「安定」を盾にした強い圧力に、セシリアの心は限界を迎えていました。

「エランはもういない。ならば、この村の医療を、そして家族の形を守るために、私は自分を捧げるべきなのかもしれない」

エランへの愛を心に鍵をかけて封じ込め、彼女はついに、カイルとの政略的な結婚を受け入れる決断を下しました。

結婚式の前夜。村が形ばかりの祝祭の準備に沸く中、嵐のような不気味な夜風が吹き荒れていました。

診療所の扉を叩く、今にも消え入りそうな微かな音。セシリアが不審に思いながら扉を開けると、そこには幽霊のような男が立っていました。

ボロボロになった敵国の軍服、伸び放題の髭、そして杖をついた痩せ細った骨のような体。

「……セシリア……」

その男が震える右手を差し出したとき、セシリアは息を吸うことさえ忘れました。そこには、あの日の鎌の傷跡が、醜くも愛おしい、世界で唯一の証として刻まれていたのです。

エランは生きていました。A国の捕虜収容所での地獄のような日々、終わりのない拷問と強制労働。そのすべてを、ただ彼女との約束だけを糧に生き延び、数年の歳月をかけて国境の山々を這い回り、ようやく戻ってきたのです。

二人は声を上げずに抱き合いました。しかし、再会の喜びを味わう時間は、運命の時計によって非情にも奪われます。

翌朝、一九五三年九月。結婚式の鐘が鳴るはずだったその刹那、突如として大地を揺るがす地鳴りのような爆音が響き渡りました。

**A国軍による総攻撃(南侵)**が開始されたのです。

平和を装っていた村は一瞬にして紅蓮の炎に包まれました。

「セシリア、今度こそ一緒に行こう! 境界の向こうへ!」

エランは、不自由な右手で彼女の手を強く握り、避難民の波に逆らって走ろうとします。しかし、セシリアは突然足を止めました。

彼女の視線の先には、砲撃で崩れた瓦礫の下、足に重傷を負って動けなくなっている兄・ギルバートの姿がありました。

自分を虐げ、恋人を死の淵に追いやり、右手の才能を奪った元凶。それでも、彼女にとっては、たった一人の血を分けた兄でした。

「エラン、ごめんなさい……私は、兄さんを見捨てられない!」

医師としての使命、そして家族への情愛。それが、彼女を再び悲劇の鎖へと繋ぎました。

一方、村の守備隊を指揮していたカイル中尉は、最悪の窮地に立たされていました。

敵の進軍を阻むための重要拠点、国境の「橋」の爆破作戦。それが謎の情報漏洩により敵に察知され、失敗に終わったのです。カイルは多くの部下を失い、自らも血を流しながら橋を死守しようともがいていました。

その混乱の最中、部下が一つの遺失物を見つけました。それは、逃げ遅れたセシリアが落とした、あの日エランが描いたスケッチの束でした。

カイルがそれをひったくるように手に取ると、裏面にはエランが捕虜生活の中で記憶し、戦地を這いずりながら描き殴った詳細な「国境の地形図」が記されていました。

それを見たカイルの脳裏に、凄まじい嫉妬と誤解が走りました。

「セシリア……君が、A国に情報を売ったスパイだったのか? 捕虜を村へ手引きし、この橋の爆破計画を漏らしたのか!? 私の求婚を受け入れたのも、すべては軍の内部情報を探るためだったのか!」

恋慕は一瞬にして冷酷な憎悪へと反転しました。

カイルは血走った眼で自動小銃を手に取り、避難民の列に紛れるセシリアと、彼女を抱える「正体不明の男」の姿を求めて、戦火の街へ飛び出しました。

燃え盛る橋の上。

背後からは、裏切られたと思い込み復讐の鬼と化したカイルの銃口が迫ります。

前方からは、鋼鉄の唸りを上げて押し寄せるA国軍の戦車隊。

そして腕の中には、憎むべき、しかし捨てられぬ罪深き兄。

エランとセシリア。十四年の時を経て果たされた再会は、三人の狂った歯車によって、さらなる地獄への幕開けとなったのです。


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